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7月26日、JR東海道本線二宮駅・・・大磯の海を見たあとここに寄りました、
駅前にガラスの兎を抱いた少女のブロンズ像があります。
今日は8月5日、今から69年前の1945年8月5日、この二宮駅で米軍艦載機の機銃掃射を受けたお父さんと少女、お父さんは即死でした。少女のお母さんと二人の妹は3月10日の東京大空襲で・・・遺体を見つけることもできずに・・・。
32年後の1977年、戦争で亡くなった父と母と妹たちの33回目の法要に間に合わせようと、その戦争体験を書き溜めていた原稿を、夫からの結婚記念日のプレゼントの指輪を自費出版の費用に変えて本にしたものが認められて出版社から「ガラスのうさぎ」という書名で世に出されます。
戦災孤児から普通の主婦になった高木敏子さんの戦争体験の作文は同じ戦争体験者に共感を呼んでたちまちベストセラーになりました。
高木さんは「ガラスのうさぎ」が本になったその3年後の1980年二宮町役場からブロンズ像を造りたいと了解を求められます。自民党も共産党も含めて町の有志の超党派の運動、高木さんは「平和と友情を記念できるものなら」と返事したそうです。町の予算と町の有志の浄財、新聞に載ってからは全国から浄財が集まったそうです。
湘南海岸二宮、東海道(国道1号線)、白砂青松の続く静かな町です。
69年前、軍の施設も軍需工場もない静かな漁村のこの町で戦闘員ではない普通の人々が機銃掃射を受けて血が流れました。戦闘機の兵士はどういう気持ちで機関銃の引鉄を引いたでしょう。エノラゲイの乗組員のように「戦争を早く終わらせるために」と思ったのでしょうか。
戦争とはそういうものです。
ブロンズ像の碑文です。心打たれます。
太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日
ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃
掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲と
なりました
この時 目の前で父を失った十二歳の少女
が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く
姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」
は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争
の悲惨さを強く印象づけました
この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを
後世に伝えるために また少女を優しく励ま
した人たちの友情をたたえるために 多くの
方々のご協力をいただき 建てたものです
少女が胸に抱えているのは 父の形見となった
ガラスのうさぎです
ここに平和と友情よ永遠に
昭和五十六年八月五日
「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会
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また一つ教えて頂きました。
今、伝送への道を歩み出したこの国を、高木さんはどう感じておられるのだろうと思います。
本当に、ヒキノさんは細かなところまで調べ上げる、感心するというより、レポーターです。
高木敏子、ガラスの兎、作文集、下町の戦争体験、
断片的にしか知りませんでした。
この方の『詩』が新聞に掲載されたものを読んだことがありました。
NHK「課外授業ようこそ先輩」、母校緑小学校で、
「あなたたちの後に続く子どもたちが平和な時代に生きられるようにがんばりましょうね。それががあなたたちの責任だよ」
・・・・・・「選挙は唯一、権利を主張できる場なのだから、大事に使って、平和を何よりも大切に思う指導者を選ぶのよ」・・・・・・
二宮駅のブロンズ像は超党派で建てられたそうです。
日本の人はひとにぎりの人を除いては戦争に巻き込まれないようにしたいと思うのは同じはずです。
3月10日の東京大空襲で犠牲になった声なき人々の代表として、「ガラスのうさぎ」が感動を与えたのでしょう。
あのころの子供たちは皆読んでいたと思います。
戦争の怖さ、残酷さが いつまでも心に残りました。
わたしはギリギリ祖父母から戦争体験を聞かされて育った世代です。
今の子供たちはその経験がない、大人たちが語りついでゆく責任があると、今朝のテレビでも言っていました。
戦争のない時代を70年過ごしました。
これからもそうしなければなりません。
資源のない日本は、飢え死にします。