4月10日、上野の森の中の気ままな散歩です。
大噴水のほうから桜並木に、土曜日の午前、桜は散りかけていますがブルーシートは健在です。
上野東照宮・・・初めての訪問です。大きな石鳥居から桜並木と石灯籠、銅灯篭の参道が続きます。ここの石灯籠。一つ一つ見て歩くと面白いです。寛永年間、聞いたことのある武将・諸大名の名前が並んでいます。寄付ですね(強請かな)。
上野東照宮・・・駿府城(静岡)で臨終の床についていた家康を天海僧正とともに見舞った伊勢津藩主藤堂高虎は家康に天海、高虎とともに三人一緒に眠るところを造って欲しいと遺言され1627年上野にあった下屋敷に東照大権現(家康)を創建します。この話は??? 天海僧正、藤堂高虎が合祀されたという話は聞きません。藤堂家の下屋敷は社殿の寄進に関係なく1625年の寛永寺の創建のために公収されていたはずです。
1651年三代将軍家光がこの本殿が気に入らなかったらしく改築。この建物が現存し国指定重要文化財です。
《蛇足》・・・東照宮は全国に500余あるそうです。もう一つ蛇足・・・上野の地名は藤堂高虎の生地伊賀上野にちなんで。
本殿が近づいてきました。よく見ると本殿は修復中です。写真に写った東照宮は本物に見えますが・・・実は神殿を覆う修復のための養生シートに実物大で印刷したものです。凄いですね。この印刷技術は。私も近づくまでわかりませんでした。
次に不忍池の中に浮かぶ不忍弁天堂に。ここも初めての訪問です。清水観音堂の正面の不忍池の畔から橋を渡ると参道が。
不忍弁天堂・・・1624~1644年常陸下館藩水谷家が不忍池に中の島を築き弁財天」を祀ったといわれる。寛永寺境外祠堂。そのご築堤され橋を通して陸続きになった。戦災により焼失、1958年再建。
弁財天・・・ヒンドゥー教の河の女神、仏教にとりこまれ弁才天、神教では七福神のメンバー。
弁天堂のうしろを抜けると不忍池の中にサクラの回遊路が。
回遊路を渡り終えると不忍通りから上野広小路、JR御徒町駅方面に出られます。アメ横をブラブラします。
《蛇足・・・ではなくて》東照宮の参道の右側、あるモニュメントがあります・・・「広島・長崎の火」です。
大噴水のほうから桜並木に、土曜日の午前、桜は散りかけていますがブルーシートは健在です。
上野東照宮・・・初めての訪問です。大きな石鳥居から桜並木と石灯籠、銅灯篭の参道が続きます。ここの石灯籠。一つ一つ見て歩くと面白いです。寛永年間、聞いたことのある武将・諸大名の名前が並んでいます。寄付ですね(強請かな)。
上野東照宮・・・駿府城(静岡)で臨終の床についていた家康を天海僧正とともに見舞った伊勢津藩主藤堂高虎は家康に天海、高虎とともに三人一緒に眠るところを造って欲しいと遺言され1627年上野にあった下屋敷に東照大権現(家康)を創建します。この話は??? 天海僧正、藤堂高虎が合祀されたという話は聞きません。藤堂家の下屋敷は社殿の寄進に関係なく1625年の寛永寺の創建のために公収されていたはずです。
1651年三代将軍家光がこの本殿が気に入らなかったらしく改築。この建物が現存し国指定重要文化財です。
《蛇足》・・・東照宮は全国に500余あるそうです。もう一つ蛇足・・・上野の地名は藤堂高虎の生地伊賀上野にちなんで。
本殿が近づいてきました。よく見ると本殿は修復中です。写真に写った東照宮は本物に見えますが・・・実は神殿を覆う修復のための養生シートに実物大で印刷したものです。凄いですね。この印刷技術は。私も近づくまでわかりませんでした。
次に不忍池の中に浮かぶ不忍弁天堂に。ここも初めての訪問です。清水観音堂の正面の不忍池の畔から橋を渡ると参道が。
不忍弁天堂・・・1624~1644年常陸下館藩水谷家が不忍池に中の島を築き弁財天」を祀ったといわれる。寛永寺境外祠堂。そのご築堤され橋を通して陸続きになった。戦災により焼失、1958年再建。
弁財天・・・ヒンドゥー教の河の女神、仏教にとりこまれ弁才天、神教では七福神のメンバー。
弁天堂のうしろを抜けると不忍池の中にサクラの回遊路が。
回遊路を渡り終えると不忍通りから上野広小路、JR御徒町駅方面に出られます。アメ横をブラブラします。
《蛇足・・・ではなくて》東照宮の参道の右側、あるモニュメントがあります・・・「広島・長崎の火」です。
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