比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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中国・旧満州の旅の終りは・・・内モンゴル・・・ソ満国境・・・70数年前のノモンハン 戦跡を尋ねて

2018-09-15 | 語り継ぐ責任 あの戦争
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

2016年中国東北部(旧満州)・・・ノモンハンを訪ねての旅・・・中国東北部・・・黒竜江省チチハルから興安嶺山脈を越えて500㎞、内モンゴル自治区フルンボイル市ハイラルに・・・フルンボイル市ハイラルから南西に250㎞、モンゴル国国境近くのノモンハン草原に。近くにはフルンボイルの名前の由来になったボイル湖が、草原の中にはハルハ河が流れています。ここは1939年5月4日から9月16日にかけて日本軍とモンゴル人民共和国・ソ連軍の間で行われた戦場です。日本では「ノモンハン事件」、ソ連軍側では「ハルハ河戦争」。今日9月15日は1939年「ノモンハン事件」の停戦協定がモスクワで合意された日です。1939年(昭和14年)は日本が太平洋戦争に突入した2年前です。


草原の中にポツンと・・・諾門罕戦役遺祉陳列館・・・


ノモンハン・・・はラマ僧の役職名からつけられた地域の名前だそうです。ハルハ河に沿った草原、膝丈ぐらいの草が繁り家畜に飲ませる水もあり、国境なんていう概念のない内モンゴル(バルガ族)・外モンゴル(ハルハ族)の放牧民たちの古来からの夏の放牧地でした。外モンゴルにはラマ教の古刹ハルハ廟があり国境に関係なくモンゴルの人たちが訪れていました。モンゴル人民共和国ができて満州国ができてハルハ河を国境としてからモンゴルの内外の放牧民にとって互いが外国になってしまい、しばしば越境によるトラブルが発生しました。関東軍が作った「国境紛争処理要綱」なるものが原因といいます。些細なことに目をつぶっていればよかったのですが5月4日、外モンゴル軍守備隊と満州国軍の国境監視隊との些細な小競り合いからはじまったのがノモンハン事件の発端といわれます。原因は外モンゴル兵が境界を越えて馬に水を飲ませに来たことからといわれています・・・日本軍とソ連軍の本格的な代理戦闘が始まったのは5月28日。

屋上からの眺めです。




見渡すかぎりの草原です。身を隠す高い草、葦のようなものもありません。このような草原でソ連側の機動部隊と日本側の歩兵と戦ったのです。司馬遼太郎の聞き書きによると長野県在住の元連隊長は日本側の機動力を「まるで元亀、天正のような」(織田信長、豊臣秀吉の時代です)と語ったそうです。伊藤桂一「静かなノモンハン」(講談社1961)によると戦車に対して匍匐前進の歩兵がサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶を投げ、効果が相当あったようです。当時の戦車は時速10㌔もなく空冷でマフラーが外付けですからすぐ引火したのだそうです。燃えあがる戦車の中で泣き叫ぶソ連兵の声も聞かれたそうです。8月下旬、戦いの趨勢は決します。兵站力の後方支援の差であったようです。8月末には戦闘中止命令が出ます。


※撮影日は2016年6月8日。

両軍の損傷について調べました。はっきりしないのです。Wikipedia、半藤一利著「ノモンハンの夏」(文芸春秋 1998年刊)・・・などによりますと


日本軍の戦死者 7720 戦傷者 8664 戦病者 2363行方不明 1021  合計 19768  出動人員 25000
ソ連軍の戦死、行方不明者 7975 戦傷者 15232  合計23207  出動人員 57000

日本陸軍の主力で戦った第23師団にかぎって記せば出動人員15975人、戦死・傷病12230人、損耗率75%、壊滅状態です。ロシア軍の資料は1998年ソヴィエト連邦が崩壊してからズット後になってのことです。確かなものかどうかはわかりません。ソ連側の損傷も大きいのです。数字だけ見ると日本が勝ったみたい。戦略はともかく日本兵は勇敢でした。

それにしても日本側の戦力残は5000人、ロシア側は戦力残34000人。ソ連軍には第二次大戦でポーランド方面に進攻作戦が迫っていましたが日本軍はその情報を知りません。いずれにしてもこの戦闘の情報は徹底的に隠蔽されたようです(日本軍もソ連軍も)。したがって数字も確かなものかわかりません。明らかになって行くのは第二次世界大戦の終結後ですが、一般に知られるようになったのは半藤一利著「ノモンハンの夏」(1998年刊)が刊行されてからです。ソ連側の数字はソ連崩壊後の1990年代になってようやく公開されますが、それも確かな数字であるかわかりません。司馬遼太郎は伊藤桂一著「静かなノモンハン」の中で著者と対談しています。戦車隊の経験のある司馬さんはこの事件を追って12年間取材を続けたそうですが断念したそうです。この対談の中で「将校商売、下士官道楽、お国のためは兵士ばかり」という言葉を知りました。この戦争で自決(自殺教唆です)した士官は10数名。自決拒否の人もいます。捕虜で帰ったもの戦場から撤退したものに拳銃を与えたようです。生存した兵士は帰国することなく他の戦場に回されます。一方、高官は帰国の後、左遷、予備役等に配属されています。左遷された後に復活した高官もいます。「一将功もならず万骨枯るる」です。この戦いで結着したのは国境がハルハ河から内モンゴルに少し入りこんだ線に変わったことです。日本軍もソ連軍もわずかな国境線のために自国の数万の命を湯水のように消耗しました。

あの戦争」を知っている人も知らない人も、戦争とは「殺し合い」だということを知ってほしい。



※コメント欄オープン。


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2 コメント

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結局・・・・・ (こきおばさん)
2018-09-15 06:52:39
指導者は後ろで命令しているだけ・・・・・今も昔も変わりませんね。

フクシマの「20ミリ」に帰れと言うのなら、国会をそこに移して決めた議員が住めばいいじゃないですか!と言いたい思いです。
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戦争指導者 (こきおばさんへ・・・)
2018-09-15 10:45:51
この戦いで悲酸なのは陣地で戦っていて孤立無援になり撤退した連隊長、捕虜になった連隊長、墜落した飛行機で捕虜になった飛行兵が自決を師団長、参謀に強要されたことです。
参謀だった辻政信は、そのご南方戦線の参謀として活躍、バターン死の行進、シンガポール虐殺事件に関わり、終戦後、姿をけし、講和条約後、国会議員となりました。

終戦時の新京を、8月11日約38000人の日本人が脱出しています。軍、官僚関係21000、満鉄関係17000、民間240、新田次郎夫人藤原ていさんは気象庁の職員であったため8月10日新京を脱出しました。公務員だけに知らされた情報だったようです。
こきおばさんの住まいは比較的新京に近かったため新京に行けて、何とか集中攻撃は避けられたのですね。それでも田舎に残ったオジサン、従妹は襲撃されました。
ポツダム宣言の受託がもう10日も早かったらと・・・タラとかレバとか・・・・・を思います。

もう歴史の向こうの話しですが・・・次の世代に知ってもらいたい。
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