2016年中国東北部(旧満州)・・・ノモンハンを訪ねての旅・・・中国東北部・・・黒竜江省チチハルから興安嶺山脈を越えて500㎞、内モンゴル自治区フルンボイル市ハイラルに・・・フルンボイル市ハイラルから南西に250㎞、モンゴル国国境近くのノモンハン草原に。近くにはフルンボイルの名前の由来になったボイル湖が、草原の中にはハルハ河が流れています。ここは1939年5月4日から9月16日にかけて日本軍とモンゴル人民共和国・ソ連軍の間で行われた戦場です。日本では「ノモンハン事件」、ソ連軍側では「ハルハ河戦争」。今日9月15日は1939年「ノモンハン事件」の停戦協定がモスクワで合意された日です。1939年(昭和14年)は日本が太平洋戦争に突入した2年前です。
屋上からの眺めです。
両軍の損傷について調べました。はっきりしないのです。Wikipedia、半藤一利著「ノモンハンの夏」(文芸春秋 1998年刊)・・・などによりますと
ソ連軍の戦死、行方不明者 7975 戦傷者 15232 合計23207 出動人員 57000
日本陸軍の主力で戦った第23師団にかぎって記せば出動人員15975人、戦死・傷病12230人、損耗率75%、壊滅状態です。ロシア軍の資料は1998年ソヴィエト連邦が崩壊してからズット後になってのことです。確かなものかどうかはわかりません。ソ連側の損傷も大きいのです。数字だけ見ると日本が勝ったみたい。戦略はともかく日本兵は勇敢でした。
それにしても日本側の戦力残は5000人、ロシア側は戦力残34000人。ソ連軍には第二次大戦でポーランド方面に進攻作戦が迫っていましたが日本軍はその情報を知りません。いずれにしてもこの戦闘の情報は徹底的に隠蔽されたようです(日本軍もソ連軍も)。したがって数字も確かなものかわかりません。明らかになって行くのは第二次世界大戦の終結後ですが、一般に知られるようになったのは半藤一利著「ノモンハンの夏」(1998年刊)が刊行されてからです。ソ連側の数字はソ連崩壊後の1990年代になってようやく公開されますが、それも確かな数字であるかわかりません。司馬遼太郎は伊藤桂一著「静かなノモンハン」の中で著者と対談しています。戦車隊の経験のある司馬さんはこの事件を追って12年間取材を続けたそうですが断念したそうです。この対談の中で「将校商売、下士官道楽、お国のためは兵士ばかり」という言葉を知りました。この戦争で自決(自殺教唆です)した士官は10数名。自決拒否の人もいます。捕虜で帰ったもの戦場から撤退したものに拳銃を与えたようです。生存した兵士は帰国することなく他の戦場に回されます。一方、高官は帰国の後、左遷、予備役等に配属されています。左遷された後に復活した高官もいます。「一将功もならず万骨枯るる」です。この戦いで結着したのは国境がハルハ河から内モンゴルに少し入りこんだ線に変わったことです。日本軍もソ連軍もわずかな国境線のために自国の数万の命を湯水のように消耗しました。
「あの戦争」を知っている人も知らない人も、戦争とは「殺し合い」だということを知ってほしい。
フクシマの「20ミリ」に帰れと言うのなら、国会をそこに移して決めた議員が住めばいいじゃないですか!と言いたい思いです。
参謀だった辻政信は、そのご南方戦線の参謀として活躍、バターン死の行進、シンガポール虐殺事件に関わり、終戦後、姿をけし、講和条約後、国会議員となりました。
終戦時の新京を、8月11日約38000人の日本人が脱出しています。軍、官僚関係21000、満鉄関係17000、民間240、新田次郎夫人藤原ていさんは気象庁の職員であったため8月10日新京を脱出しました。公務員だけに知らされた情報だったようです。
こきおばさんの住まいは比較的新京に近かったため新京に行けて、何とか集中攻撃は避けられたのですね。それでも田舎に残ったオジサン、従妹は襲撃されました。
ポツダム宣言の受託がもう10日も早かったらと・・・タラとかレバとか・・・・・を思います。
もう歴史の向こうの話しですが・・・次の世代に知ってもらいたい。