比企の丘

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2019惜別の人・・・薩摩焼・・・沈壽官窯・・・十四世沈壽官

2019-12-23 | 惜別
2019年6月16日、鹿児島県苗代川(のしろこ、現いちき串木野市東市来美山)の沈壽官釜の14世沈壽官氏が亡くりました。
2019年6月25日のブログに掲載した追悼文です。


沈壽官釜・・・2007年12月、この地を訪れたことを思い出しています。
写真の酒器はそのとき求めた黒薩摩焼の焼酎用の酒器・・・本来は土瓶を平らにしたような形でチョカ(ヂョカとも)というようです。お燗して酌み交わします。写真のものは徳利に注ぎ口を付けたチョカです。

薩摩の苗代川の薩摩焼、沈壽官釜の当主14世沈壽官氏(1926年~2019年)のことを書いた司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」(初出1968年)があります。
小説というより歴史随想というか司馬遼太郎独特の語り節です。十四世沈壽官さんの出会いから始まり例によって司馬流の語りが展開していきます。文庫本60頁たらずの短編です。

1597年豊臣秀吉のはじめた朝鮮出兵「慶長の役」・・・朝鮮全羅北道南原城の戦いで逃げ遅れた70名ばかりの男女が島津軍の捕虜となります。この時、意識して朝鮮磁器の工人を捕虜にしたかは定かではないようです。結果的に連行してきた捕虜が磁器の技術をもっていたかも知れません。
島津軍に捉えられた一行は島津軍撤退に従って日本に来ますがどうも単独で鹿児島県串木野の島平というところに上陸したようです。偶然に流れ着いたということでしょうか。数年を経て現在の土地に移住、以来曲折はあったでしょうが薩摩藩では彼らを郷士として処遇します。薩摩藩は彼らの住みついた苗代川の土地に居住を限定して韓語、生活習慣、結婚などの制限をして士分としての扶持を与え、彼らの焼き物の専売を行います。製造工場、販売元の独占です。彼らの焼く白薩摩、黒薩摩は藩の財源になりました。
明治維新、薩摩藩の庇護から外れた彼らは平民になり、あるものは改姓します。韓語はすべて日本語になり、窯業の専門用語だけ残ります。太平洋戦争終戦時の御前会議の出席者東郷茂徳外務大臣はこの村の出身、明治時代に朴氏から東郷氏に改姓しました。明治維新後、戊辰戦争には官軍として、西南戦争には賊軍としてこの村から兵士を送り出しています。
14世の父13世は京都大学法学部卒、14世は早稲田大学政経学部卒。村の小学校から旧制鹿児島二中に入学したとき、その姓からか呼び出しを受けいわれなき鉄拳の雨を受けますが、そのご一対一の対峙で自分を認めさせていったそうです。薩摩人以上の薩摩人の意地を通したのです。

沈さんは韓国に招かれたとき、ソウル大学の講演で、反日の嵐の中の学生たちにこう語りかけます。

「あなた方が三十六年をいうなら」
「私は三百七十年をいわねばならぬ」
「新しい国家の建設のためには前へ前へと向いて行って欲しい」


学生たちの大合唱の前で身をふるわせて立ちつくします。


故郷忘じがたく候」・・・・・・・・は薩摩上陸以来200年もたったある日、尋ねてきた人の問に答えてつぶやく古老の言葉です。

十四世沈壽官・・・本名大迫惠吉(1926~2019年6月16日)、早稲田大学政経学部卒、1964年第十四世沈壽官に、1999年に世襲名を十五世に譲る。

※コメント欄オープン。


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2 コメント

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黒薩摩 (こきおばさん)
2019-12-24 07:09:30
 お宅にとって家宝のような黒薩摩、使いこなして一段と風合いが出たようにお見受けします。
この一客に韓国と日本の歴史が刻みこまれているんですね。
また教えて頂きました。有難うございます。
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豊臣秀吉朝鮮出兵 (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2019-12-25 19:40:48
陶芸職人を連れて帰ったのが、
薩摩藩・・・現在の市来に棲みつき土を探して陶器の薩摩焼の元祖のなります。
佐賀鍋島藩が連れ帰った朝鮮人が棲みついたのが有田・・・磁気です。これは有名で今までの日本の技術になかったものでした。
捕虜で強制的に連れられてきたのか自発的に
付いてきたのかワカリません。
現代の日韓関係の問題も見えてきます。

沈寿官さんの過去を振り返らずに前を向いてほしいという言葉が・・・身に沁みます。
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