大石又七さんが3月7日に亡くなられました。
1934年生まれ、1954年3月1日、南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁でアメリカ軍の行った水爆実験・・・その近海の公海上で操業中の日本のマグロ漁船団、その中の一隻「第五福流丸」の甲板員、冷凍士。23人の乗組員は大量の水爆放射能を浴びます、
被曝のときは20歳。帰港後に入院生活を送り、その後、被爆者への無理解、偏見に耐えられず1955年漁師をやめて東京でクリーニング屋に。被曝について語るようになったのは30年後、ある中学生たちの訪問から。2002年マーシャル群島を訪問、2010年ニューヨーク国連本部で核拡散防止条約会議で発言。2010年クリーニング店廃業。築地にマグロ塚を作る会の主宰者、第五福竜丸平和評議会議員。
東京都江東区夢の島公園に展示されている第五福竜丸。
乗員23人の小さな木造船に放射能を含んだ珊瑚の小さな粒が降り注ぎました。異常を感じた第五福竜丸は無線を発することなく母港焼津港へ。大量に放射能を浴びた乗組員たち。そして無線長の久保山愛吉さんは6ヶ月後の9月「原水爆の被害は私を最後にしてほしい」という言葉を残して死去、享年39歳。
大石又七さんが1983年、東京都町田市の私立和光中学校の生徒に事件について取材され、30年の沈黙を破ってはじめて事件のことについて口を開きました。これを機に大石さんは第五福竜丸の模型船作りをはじめ、一号船を和光中学に、つづけて夢の島展示館、広島平和記念館、長崎平和記念館などに寄贈。これ以降、積極的に被爆体験を語り、核廃絶を訴える著作、活動をはじめます。
この模型船は、それから20年後の2003年そのことを知った和光中学の生徒たちが模型船作りをはじめ、大石さんの指導の下に3年の歳月をかけて完成、「平和への願い」をこめて2007年、丸木原爆美術館に寄贈したものです。
★上記は2015年8月7日のブログ・・・・2015「ひろしま忌」・・・丸木美術館・・常設展で・・・《焼津》第五福竜丸・・・をリライトしたものです。
★下記は2015年11月28日のブログ・・・最近こんな本を読みました・・・大石芳野の写真集「戦争は終わっても終わらない」・・・より抜粋したものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/0c/ed326745f9d2bbd5ee92d337aa3747df.jpg)
東京都江東区夢の島の第五福竜丸の展示館で・・・
1954年、南太平洋ビキニ環礁でマグロ漁をしていて米軍の水爆実験により被曝した大石又七さん。
大石さんはここで
「60年も前の事件だが終ってはいないし、いま、こんな時代だからこそ若い人に考えてもらいたい」
と体験談を語り続けている。(2013年)
※大石芳野(1944年~)・・・日本大学芸術学部卒、ドキュメンタリー写真家、土門拳賞受賞、世界平和アピール七人委員会委員、常用機材はライカM6とか。
★下記は2015年5月28日のブログ・・・61年前の水爆実験・・・第五福竜丸をテーマに・・・ミュージカル「鯨波の声」・・・を見た・・・より抜粋したものです。
5月24日(日曜日)、甲府市に市民100人がつくるミュージカル「鯨波の声(ときのこえ)」・・・を見に行ってきました。
ミュージカルのテーマは「第五福竜丸」の被曝。
プロローグは東京都内の中学生たちと第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんの出逢いからはじまり、
大石さんを軸に展開していきます。
※このミュージカルにお誘いしていただいた「こきおばさん」、一緒に観劇してくださった「山梨平和ミュージアム」のホットケーキ様、インドのコルカタの「マザー・テレサの家」で貧しい重度の障害児らと暮す渋谷りつ子さん・・・いろいろ教えていただきました。あらためてお礼申し上げます。
ビキニ環礁の水爆実験から57年後の2011年3月。
福島第一原発メルトダウン・・・水素爆発。
1945年広島・長崎の原爆。
1954年マーシャル群島ビキニ環礁水爆実験。
広島・長崎に原爆が落とされから9年後です。
第五福竜丸事故。第五福竜丸に代表されますが約1000隻の漁船と漁師たち、マグロも被曝しています。
同じ1954年「原子力研究開発予算に関する法案」が中曽根康弘氏らによって国会に提案され、1955年この法案は成立、正力松太郎氏が初代原子力委員長になって日本の原子力平和利用の動きが始まります。
1963年東海村原発で初発電。
1973年スリーマイル島事故。
1986年チェルノブイリ事故。
1999年東海村原発臨界事故。
2011年福島原発事故。
1945年の広島、長崎の原爆、いまも原爆症の認定問題があります。。
1954年ビキニ環礁水爆実験の被爆者・・・992隻の船に乗っていた数万人の漁船員には被曝手帳も交付されていません。
60年経って帰島の叶わないマーシャル群島ビキニ環礁の人たち。
ひろしま・ナガサキの被爆、そしてマグロ漁船団の被曝・・・日本は3度の核放射能汚染に曝されました。
そしていま、福島原発の核放射能汚染です。4度目のフクシマの被曝?
鳥も空を飛ばなくなり、魚も水中から姿を消し、豊かな土が産み出す野菜・穀物からも不気味な発信音が発せられるような時代が来るかもしれません。
・・・「沈黙の春」です。
そしていまみんな沈黙を守っています。
人間が最後までアンダーコントロールできない核とは共存できない。
わたしたちにはそれを後世に語り継ぐ責任があります。
1934年生まれ、1954年3月1日、南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁でアメリカ軍の行った水爆実験・・・その近海の公海上で操業中の日本のマグロ漁船団、その中の一隻「第五福流丸」の甲板員、冷凍士。23人の乗組員は大量の水爆放射能を浴びます、
被曝のときは20歳。帰港後に入院生活を送り、その後、被爆者への無理解、偏見に耐えられず1955年漁師をやめて東京でクリーニング屋に。被曝について語るようになったのは30年後、ある中学生たちの訪問から。2002年マーシャル群島を訪問、2010年ニューヨーク国連本部で核拡散防止条約会議で発言。2010年クリーニング店廃業。築地にマグロ塚を作る会の主宰者、第五福竜丸平和評議会議員。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/80/be6b3ca0e0130780f13bfaaee076ebee.jpg)
乗員23人の小さな木造船に放射能を含んだ珊瑚の小さな粒が降り注ぎました。異常を感じた第五福竜丸は無線を発することなく母港焼津港へ。大量に放射能を浴びた乗組員たち。そして無線長の久保山愛吉さんは6ヶ月後の9月「原水爆の被害は私を最後にしてほしい」という言葉を残して死去、享年39歳。
埼玉県東松山市の丸木原爆美術館に展示されている第五福竜丸の模型です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/07/18c2320a3f5956c0f35373d085a51651.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/07/18c2320a3f5956c0f35373d085a51651.jpg)
大石又七さんが1983年、東京都町田市の私立和光中学校の生徒に事件について取材され、30年の沈黙を破ってはじめて事件のことについて口を開きました。これを機に大石さんは第五福竜丸の模型船作りをはじめ、一号船を和光中学に、つづけて夢の島展示館、広島平和記念館、長崎平和記念館などに寄贈。これ以降、積極的に被爆体験を語り、核廃絶を訴える著作、活動をはじめます。
この模型船は、それから20年後の2003年そのことを知った和光中学の生徒たちが模型船作りをはじめ、大石さんの指導の下に3年の歳月をかけて完成、「平和への願い」をこめて2007年、丸木原爆美術館に寄贈したものです。
★上記は2015年8月7日のブログ・・・・2015「ひろしま忌」・・・丸木美術館・・常設展で・・・《焼津》第五福竜丸・・・をリライトしたものです。
★下記は2015年11月28日のブログ・・・最近こんな本を読みました・・・大石芳野の写真集「戦争は終わっても終わらない」・・・より抜粋したものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/0c/ed326745f9d2bbd5ee92d337aa3747df.jpg)
東京都江東区夢の島の第五福竜丸の展示館で・・・
1954年、南太平洋ビキニ環礁でマグロ漁をしていて米軍の水爆実験により被曝した大石又七さん。
大石さんはここで
「60年も前の事件だが終ってはいないし、いま、こんな時代だからこそ若い人に考えてもらいたい」
と体験談を語り続けている。(2013年)
※大石芳野(1944年~)・・・日本大学芸術学部卒、ドキュメンタリー写真家、土門拳賞受賞、世界平和アピール七人委員会委員、常用機材はライカM6とか。
★下記は2015年5月28日のブログ・・・61年前の水爆実験・・・第五福竜丸をテーマに・・・ミュージカル「鯨波の声」・・・を見た・・・より抜粋したものです。
5月24日(日曜日)、甲府市に市民100人がつくるミュージカル「鯨波の声(ときのこえ)」・・・を見に行ってきました。
ミュージカルのテーマは「第五福竜丸」の被曝。
プロローグは東京都内の中学生たちと第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんの出逢いからはじまり、
大石さんを軸に展開していきます。
カーテンコールです。
市民100人が出演した舞台と・・・キャパ(収容能力)2689人の客席を埋め尽くした市民とが一体となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/67/d6804bb04f473406a93af5aced7c03fd.jpg)
ゲストとして来られた大石又七さんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/fe/a29d859a49e2349813f990be7fc48682.jpg)
市民100人が出演した舞台と・・・キャパ(収容能力)2689人の客席を埋め尽くした市民とが一体となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/67/d6804bb04f473406a93af5aced7c03fd.jpg)
ゲストとして来られた大石又七さんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/fe/a29d859a49e2349813f990be7fc48682.jpg)
※このミュージカルにお誘いしていただいた「こきおばさん」、一緒に観劇してくださった「山梨平和ミュージアム」のホットケーキ様、インドのコルカタの「マザー・テレサの家」で貧しい重度の障害児らと暮す渋谷りつ子さん・・・いろいろ教えていただきました。あらためてお礼申し上げます。
ビキニ環礁の水爆実験から57年後の2011年3月。
福島第一原発メルトダウン・・・水素爆発。
1945年広島・長崎の原爆。
1954年マーシャル群島ビキニ環礁水爆実験。
広島・長崎に原爆が落とされから9年後です。
第五福竜丸事故。第五福竜丸に代表されますが約1000隻の漁船と漁師たち、マグロも被曝しています。
同じ1954年「原子力研究開発予算に関する法案」が中曽根康弘氏らによって国会に提案され、1955年この法案は成立、正力松太郎氏が初代原子力委員長になって日本の原子力平和利用の動きが始まります。
1963年東海村原発で初発電。
1973年スリーマイル島事故。
1986年チェルノブイリ事故。
1999年東海村原発臨界事故。
2011年福島原発事故。
1945年の広島、長崎の原爆、いまも原爆症の認定問題があります。。
1954年ビキニ環礁水爆実験の被爆者・・・992隻の船に乗っていた数万人の漁船員には被曝手帳も交付されていません。
60年経って帰島の叶わないマーシャル群島ビキニ環礁の人たち。
ひろしま・ナガサキの被爆、そしてマグロ漁船団の被曝・・・日本は3度の核放射能汚染に曝されました。
そしていま、福島原発の核放射能汚染です。4度目のフクシマの被曝?
鳥も空を飛ばなくなり、魚も水中から姿を消し、豊かな土が産み出す野菜・穀物からも不気味な発信音が発せられるような時代が来るかもしれません。
・・・「沈黙の春」です。
そしていまみんな沈黙を守っています。
人間が最後までアンダーコントロールできない核とは共存できない。
わたしたちにはそれを後世に語り継ぐ責任があります。
※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
・URL無記入のコメントは削除します。
あの折ご一緒したホットケーキ様はいま、お一人でお住まいなので、ディやヘルパーさんに来ていただきながらお元気にお過ごしですし、渋谷りつ子さんは、まさかの日本での生活がもう2年目になりました。こんな状態では、りつ子さんが望んでいるインドへはまだ暫く帰れないだろうと思います。
後でお聞きして、帰路渋滞にはまってしまい、難儀したとのことで申し訳なく思っておりました。
こうしてお書きくださったことで、あの折のことが思い出され有難く存じます。
第5福竜丸事件、私には昨日のことのように思われますが、今は知らない人の方が多くなっているのかもしれません。
お書きくださり感謝とお礼の気持ちでいっぱいです。有難うございます。
そのことを知ってる人は当時でもほとんどいないそうです。そのとき建立されたマグロ塚の石碑は夢の島にあります。
核兵器は恐ろしいものです。日本も核兵器禁水条約に加盟してもらいたい、
コメントありがとうございました。
甲府でお会いした方々、昨日のことのように思い出します。
大切に拝見させて頂きました。
有り難うございました。