7月26日、大磯の照ヶ崎岩礁で観鳥をして大磯港で釜揚げシラスを買い、帰路、大磯駅を見て帰路につきました。
JR東日本東海道本線大磯駅・・・開業1887年、現在の駅舎は大正大震災の後の1925年再建、破風を正面に向けた赤い屋根の駅舎は2000年「関東の駅百選」に、2009年通産省認定「近代文化遺産」に。1日の乗客数7927人。
伊藤博文、西園寺公望、大隈重信、山県有朋、安田善次郎、岩崎弥太郎ら明治の元勲、財閥の別荘地、昭和の宰相吉田茂の別荘で有名。
エリザベス・サンダース・ホーム・・・三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘であり外交官澤田廉三の夫人澤田美喜が日本があの戦争で敗戦した直後の1948年、日本に進駐した連合国兵士と日本人の間に生まれ親に捨てられた混血児のために開設した養護施設。
澤田美喜・・・人間の記録シリーズ「澤田美喜 黒い肌と白い心―サンダース・ホームへの道」(日本図書センター1963年刊)
澤田美喜・・・三菱財閥の家に生まれ外交官夫人、戦前まではセレブでした。1947年のある日、東海道線の車中で網棚から落ちてきた風呂敷包みを拾います。中身は新聞紙に包まれた混血の嬰児の死骸。このことが混血児の養護施設の開設を決意させたといわれます。澤田美喜46歳のときです。生家の岩崎家は終戦後の財閥解体で何も残っていません。施設の候補にした大磯の岩崎家別荘は財産税の物納で国家財産に。GHQや大蔵省に嘆願を重ね、私財を処分、借金をして。400万円で買い戻します。キリスト教系からの寄付、在日外国人からの寄付もあったといいます。その時の寄付者の1号が聖公会系のクリスチャンのエリザベス・サンダースさん、日本で三井家に永く務め80歳で亡くなった婦人、長年に亘って蓄えた170ドルを英国大使館に託してくれました。170ドルは当時のレートで60000円です。貧者の一灯ですが、その人の名前から施設名をエリザベス・サンダース・ホームに。聖ステパノ学園の名前は戦死した三男晃の洗礼名です。
岩崎家につながるものとして、元外交官夫人として、豊富な人脈や国際感覚で為しえた仕事であることは否定できませんが、なによりも一人の人間としての「愛」がこの苦難の社会事業の源泉であったのではないかと思います。
ホームから巣立っていった子どもたち2000人近く、あれから60年以上経っています。今どんな人生を送っているのでしょうか。
2009年3月11日、テレビ東京開局45周年記念番組ー絆ー「トンネルの向こうはぼくらの楽園だった」で、その後の卒園生たちのルポタージュが放映されています。
戦争の落とし子、アレキサンダーの大遠征のむかしから古今東西を問わずあります。生んだ父母、生まれた子供たち、誰が責められましょう。生まれながらの「負」を背負った子どもたちを「正の世界」に育てた澤田さんの意志に敬服です。
〖余聞〗村岡花子の孫、村岡恵里著「アンのゆりかご」によれば、村岡花子20歳のころ、聖公会の教会で東京帝大法学部の青年と知りあう。いろいろなことがあり青年は外交官として外国に旅立つ。花子は「さようならごきげんよう」といったとか。その青年はのちに澤田美喜と結婚した澤田廉三。村岡夫妻はその後、大磯のホームにたびたび澤田夫妻を訪れたという。
構内には澤田美喜記念館があり一般公開されています。今回は下調べ不足、時間不足で寄ることができませんでした。次の機会に寄ろうと思います。
JR東日本東海道本線大磯駅・・・開業1887年、現在の駅舎は大正大震災の後の1925年再建、破風を正面に向けた赤い屋根の駅舎は2000年「関東の駅百選」に、2009年通産省認定「近代文化遺産」に。1日の乗客数7927人。
伊藤博文、西園寺公望、大隈重信、山県有朋、安田善次郎、岩崎弥太郎ら明治の元勲、財閥の別荘地、昭和の宰相吉田茂の別荘で有名。
駅の真ん前にあるのは敗戦後、街に溢れた混血児を養護したエリザベス・サンダース・ホーム・・・旧岩崎弥太郎邸。
学齢期に達した混血児たちのために創立した聖ステパノ学園小学校、中学校・・・今は私立学校として一般子女も受け入れている。
学齢期に達した混血児たちのために創立した聖ステパノ学園小学校、中学校・・・今は私立学校として一般子女も受け入れている。
エリザベス・サンダース・ホーム・・・三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘であり外交官澤田廉三の夫人澤田美喜が日本があの戦争で敗戦した直後の1948年、日本に進駐した連合国兵士と日本人の間に生まれ親に捨てられた混血児のために開設した養護施設。
澤田美喜・・・人間の記録シリーズ「澤田美喜 黒い肌と白い心―サンダース・ホームへの道」(日本図書センター1963年刊)
澤田美喜・・・三菱財閥の家に生まれ外交官夫人、戦前まではセレブでした。1947年のある日、東海道線の車中で網棚から落ちてきた風呂敷包みを拾います。中身は新聞紙に包まれた混血の嬰児の死骸。このことが混血児の養護施設の開設を決意させたといわれます。澤田美喜46歳のときです。生家の岩崎家は終戦後の財閥解体で何も残っていません。施設の候補にした大磯の岩崎家別荘は財産税の物納で国家財産に。GHQや大蔵省に嘆願を重ね、私財を処分、借金をして。400万円で買い戻します。キリスト教系からの寄付、在日外国人からの寄付もあったといいます。その時の寄付者の1号が聖公会系のクリスチャンのエリザベス・サンダースさん、日本で三井家に永く務め80歳で亡くなった婦人、長年に亘って蓄えた170ドルを英国大使館に託してくれました。170ドルは当時のレートで60000円です。貧者の一灯ですが、その人の名前から施設名をエリザベス・サンダース・ホームに。聖ステパノ学園の名前は戦死した三男晃の洗礼名です。
岩崎家につながるものとして、元外交官夫人として、豊富な人脈や国際感覚で為しえた仕事であることは否定できませんが、なによりも一人の人間としての「愛」がこの苦難の社会事業の源泉であったのではないかと思います。
ホームから巣立っていった子どもたち2000人近く、あれから60年以上経っています。今どんな人生を送っているのでしょうか。
2009年3月11日、テレビ東京開局45周年記念番組ー絆ー「トンネルの向こうはぼくらの楽園だった」で、その後の卒園生たちのルポタージュが放映されています。
戦争の落とし子、アレキサンダーの大遠征のむかしから古今東西を問わずあります。生んだ父母、生まれた子供たち、誰が責められましょう。生まれながらの「負」を背負った子どもたちを「正の世界」に育てた澤田さんの意志に敬服です。
〖余聞〗村岡花子の孫、村岡恵里著「アンのゆりかご」によれば、村岡花子20歳のころ、聖公会の教会で東京帝大法学部の青年と知りあう。いろいろなことがあり青年は外交官として外国に旅立つ。花子は「さようならごきげんよう」といったとか。その青年はのちに澤田美喜と結婚した澤田廉三。村岡夫妻はその後、大磯のホームにたびたび澤田夫妻を訪れたという。
構内には澤田美喜記念館があり一般公開されています。今回は下調べ不足、時間不足で寄ることができませんでした。次の機会に寄ろうと思います。
澤田美喜さんは岩崎弥太郎のお孫さんでしたか
知らなかったです
自分たちが食べるのも大変な時代に私財をなげうって奔走されたなんて
本当に仏様の様なお方ですね
詳しくは 知らなかったです・・
エリザベス・サンダース・ホーム 澤田美喜はあまりにも有名なので知っていましたが、施設がここに・・・・・!!!?
近代文化遺産というのは知りませんでした。
4年前に箱根駅伝コースを1区ずつ走ったことがありましたが、帰りに平塚中継所地点からこの駅までトボトボ歩きました。
ここまでもかと感心しています。
アオバトとシリーズを見て
こんなハトがいたのか感心しきりです。
成功した人、しなかった人、非行に走った子、いろいろでしょう。
アイノ子といわれる時代でそれを守ってやるのににも大変だったでしょう。
今は芸能界はハーフは人気がありますが。
大磯は波が荒くて海水浴には向かないところ、堤義高がロングビーチを作ってランクの高いサマースポットにしました。
若いとき1回だけロングビーチのいちばん高い飛び込み台から飛び込みました。
大磯のサンダースホーム、駅前だとは知りませんでした。岩崎家の別荘だったことも知りませんでした。
澤田美喜は上野不忍池そばの岩崎邸で育ったお嬢さんです。
大磯駅からけっこう遠いです。歩いたのかなあ。
駅舎の風景が好きです。風格があっていいですね。大正ロマン漂う設計ですね。
埼玉の北から圏央道開通のお蔭で海を見に行けるようになりました。
岩崎家のお嬢さん、アイノ子の子どもたちをよく育てたと思います。そのころはハーフなんてしゃれた言葉はなくアイノ子です。大磯の人たちでさえ排斥運動をしたそうです。
非行に走って行方知れずの子どももだいぶいるそうです。
アオバト、西日本のほうでは普通に見られると思っていましたが。関東ではほとんど見ることができません。大磯の夏の2カ月くらいが、唯一見られる時です。
又、存在すら知らなく
又、恥ずかしく
今は国際結婚なぞさほど珍しくない時代になり、ハーフとして生まれた子供たちも、のびのびやってます。テレビタレントして活躍してるかたもいます。
敗戦時の進駐軍の置き土産として生まれた子供たちには辛いことがあったでしょうね。
その子供たちを育てた澤田美喜さん、子供たちと同じ目線でなければこの仕事はできなかったと思います。それだけでも尊敬します。