・・・彩風人の写真帳・・・
コロナ禍戒厳令前の台湾へ・・・乗り鉄旅・・・
台湾高速鐵路に乗っての台北市から台南市まで。そして台湾鐵路で台南市から嘉義市へ。
台湾鐵路の嘉義車站・・・駅名標です。
台湾鐵路、阿里山森林鐵路、嘉義BRT(Bus Rapid Trennsit) の駅です。
1902年開業、現在の駅舎は1933年建築(昭和8年)。
どこか懐かしい昭和の匂いのする駅の風景です。
※撮影日は2月22日。
嘉義市・・・台湾南西部の中核都市、人口267800人(2019年)、林業、製糖業の町として発展。亜熱帯、熱帯の境界。北緯23度26分22秒、北回帰線通過の町。林業、玉山観光の阿里山鉄路の始発駅。阿里山鉄路は東に72㎞、高低差2250m(後述)。日本統治時代の旧制嘉義農林学校を前身とする国立嘉義大学。嘉義農林学校は2014年公開の台湾映画「KANO1931海の向こうの甲子園」のモデル校(後述)。
ここでは嘉義駅から西に20数㎞、小さな漁村の福瀬村の「富安宮」に・・・
「住民に神様として祀られた日本人警察官・・・森川清治郎」の物語り・・・
森川清治郎(1861~1902年)。日本が台湾を統治した時代の警察官。1897年台湾の嘉義県東石郷副瀬村に赴任。自費を投じて日本の教科書を取り寄せ住民に文字を教えたり、公衆衛生の改善のため排水溝を施工するなど、住民のために尽くした心優しいお巡りさん。当時の日本の台湾総督府の徴税は警察官の仕事であり、貧しい農漁村の福瀬村の住民は減免を森川巡査に懇願、聞き入れた森川巡査は上長に上申したが、厳しく叱責され訓戒処分に、1902年巡回のあと村田銃で自決。心優しきゆえに心を病んだのであろうか。
ときが過ぎ1923年嘉義地方に疫病が蔓延、村民は森川巡査が公衆衛生に注意したことを思い出し、これを守って疫病の蔓延を免れたという。
村民は森川巡査の「義と愛」に感謝して「義愛公」(別称「日本王爺」)と名付け「富安宮」に祀った。
★日本統治時代の日本人のことを書きました。わたし的には日本帝国時代の植民地政策を肯定するものでも否定するものでもありません。人と人との出逢いについて語りたかった。それだけです。
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この様な風景を桃源郷と言うのでしょう。
コロナ社会、俗界を離れ仙境の地、ユートピアの様な国へ行きたい心地すらします(しばらく辛抱哉・・・・)。
ヒキノさんの画像が盛り上がって見え、構図がバッチリgoodですから見栄えがすばらしいです。
森川巡査の「義と愛」を貫いたのでしょう。
個人の生命身体財産の保護、公安の維持、法律を忠実に守って人間愛を前面に出して、職務を執行したのでありましょう。
「義と愛」は”有名な歌・雨にも負けず”を一身に貫き
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
・・・・・・・・・・
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宮澤賢治の歌のような人だったのでしょう。
森川巡査はあくまでも自己を貫いたのでありましょう。
愛は正義を信じて!!歴史は人を創る!
よく人の功績は「死して名を残す」と言われますが、森川巡査も歴史上の人物になったのでしょう。
言葉に
「虎は死して皮を残す。 人は死して名を残す」と言われますが、凡人は死しても凡人です。
、
カメラの進化です。
同じテーマの写真でいろいろ50~100枚撮ります。デジタルは何枚撮ってもフィルムと違ってコストゼロです。多くの写真からあれやこれやと迷いながら思い切って、構図のイイの、ピントのイイの、5~6枚を残します。
ブログの写真は、写真芸術では無く、仲間内の情報交換で無く、ネットを通じて知らない大勢の人に見てもらうのが目的・・・と思ってます。
分かりやすく、風景ならどこで・・・その地のシンボル的なものを入れてやる。これと思うものはズームで紹介。写真で見るレポートですね。
北海道から九州まで、海の向こうの外国にいる日本の人にも見てもらう、そんな気持ちです。
縄文人さんの五行市、短歌、俳句・・・そこにはホッコリとする郷愁を誘うような写真、気に入っています。
ブログで山の写真、花の写真、生き物の写真を見て・・・写し手がその対象を愛してるか,どうか、わかります。
森川巡査の話し・・・
日本統治時代の台湾、最初は治安維持、徴税に悩み、警察組織で当たったようです。
飴と鞭の植民地政策・・・お巡りさんも悩んだでしょうね。お巡りさんも人の子。貧しい農村から行った人もいたでしょう。
森川巡査は人を同じ目線で見られる人だったのでしょう。
統治する側とされる側の付き合いでなく、人と人の出逢いです。
村びとの重税への嘆願・・・秩父事件を思い出します。
貧しい村びとが異民族の一介の巡査を神様に祀る・・・イイ話でした。
台湾では今も反日ではなく親日、年寄りは日本語で話しかけてくる。
こうした人たち(警察官、教師)のおかげです。
キョロキョロと・・・好奇心がある・・・素晴らしいです。
今後よろしくお願いいたします。