8月6日・・・東松山市の原爆の図・丸木美術館に行ってきました。
埼玉県東松山市に原爆の図・丸木美術館が開かれたのは1967年。1950年に丸木位里,赤松俊(そのご丸木に改姓)夫妻の共同制作で始まった「原爆の図」は1982年までで15部作終了。
なぜ、こんな田舎に原爆の図美術館が・・・田舎とはいえ首都圏に近い東松山市、遠い広島に行けなくても原爆の惨状をここで見てもらいたい、外国から来た人にもここなら見てもらうことができるかも知れない・・・そんな思いがあったようです。
東松山市下唐子、県道から市道、さらに小さな道を歩いて行くと美術館が見えてきます。車ですと前まで行けます。東武東上線つきのわ駅から2km。
原爆被爆者の西本宗一さんの被爆体験の話し。爆心地から1400m、自宅崩壊で姉(11歳)、妹(5歳)は焼死、宗一さんは7~8歳ではなかったかと思います。お母さんは重症、お父さんは屋外で被爆。近くの日赤地下室に避難、そのご10kmくらい離れた親戚の家に。その間の地獄のような出来事を淡々と語られました。
20歳で上京、キリスト教関係にいて夏休みにフィリピンの田舎の尼僧院に泊ったとき請われてはじめて被爆体験を話したそうです。このときあるシスターの強い視線を感じてそのあと話し合い「あなたにとって不幸な出来事は私たちのとってハッピーな出来事であった」というようなことを聞かされます。戦時下のフィリピンの日本軍の行動のことをいわれたのです。そのとき戦争は加害と被害と両方併せ待つということを知らされた(認識させられた)といいいます。
自分の家族のことも淡々と話されました、壁に押しつぶされた姉妹のこと、父がバケツに骨を集めて帰ってきたそうです。姉妹の骨は抱き合うようになっていたといいますから即死ではなかったかもしれないと。父は数十年生きましがあらゆる症状で最後は白血病で。重傷だった母は認知症になるまで長生きしたそうですが・・・「私は人を殺した」と口走ったり」、「お母さん」とうわ言で叫んだり、若くして亡くなった姉妹のことがいつまでも忘れられなかったのでしょうといってました。
東京都江戸川区にお住まい。親江会(江戸川区被爆者協議会)の活動に参加。江戸川区内での被爆者追悼式ではじめて被爆体験を話されたのは上京後20年以上あとのことだそうです。江戸川区の区立滝野公園内(東西線葛西駅近く)には「原爆犠牲者追悼碑」があるそうです。自然石に彫られた平和のハトのモニュメントは1981年丸木夫妻の絵図を多くの人のノミによるもの。被爆地以外の公共の場所にこのような碑が建てられたことは異例のようです。機会があったら訪ねてみたい。
《蛇足です》
都幾川を見下ろす台地の上に建つ丸木美術館。植え込みの中にこんなのが植わっていました。
西本さんは江戸川区の滝野公園内の原爆犠牲者追悼碑のそばにはヒロシマから苗木を分けられた原爆被爆アオギリが育っていて実生もあるから、ここにも植えてほしいとおっしゃっていました。
《蛇足の蛇足》被爆アオギリ・・・1945年広島逓信局の中庭にあったアオギリ。被爆で焼け爛れていたが翌1946年芽吹き、人々に勇気と希望を与えた。1973年平和公園に移植。種から実生した二世が国内外に里木として寄贈された。
埼玉県東松山市に原爆の図・丸木美術館が開かれたのは1967年。1950年に丸木位里,赤松俊(そのご丸木に改姓)夫妻の共同制作で始まった「原爆の図」は1982年までで15部作終了。
なぜ、こんな田舎に原爆の図美術館が・・・田舎とはいえ首都圏に近い東松山市、遠い広島に行けなくても原爆の惨状をここで見てもらいたい、外国から来た人にもここなら見てもらうことができるかも知れない・・・そんな思いがあったようです。
東松山市下唐子、県道から市道、さらに小さな道を歩いて行くと美術館が見えてきます。車ですと前まで行けます。東武東上線つきのわ駅から2km。
原爆被爆者の西本宗一さんの被爆体験の話し。爆心地から1400m、自宅崩壊で姉(11歳)、妹(5歳)は焼死、宗一さんは7~8歳ではなかったかと思います。お母さんは重症、お父さんは屋外で被爆。近くの日赤地下室に避難、そのご10kmくらい離れた親戚の家に。その間の地獄のような出来事を淡々と語られました。
20歳で上京、キリスト教関係にいて夏休みにフィリピンの田舎の尼僧院に泊ったとき請われてはじめて被爆体験を話したそうです。このときあるシスターの強い視線を感じてそのあと話し合い「あなたにとって不幸な出来事は私たちのとってハッピーな出来事であった」というようなことを聞かされます。戦時下のフィリピンの日本軍の行動のことをいわれたのです。そのとき戦争は加害と被害と両方併せ待つということを知らされた(認識させられた)といいいます。
自分の家族のことも淡々と話されました、壁に押しつぶされた姉妹のこと、父がバケツに骨を集めて帰ってきたそうです。姉妹の骨は抱き合うようになっていたといいますから即死ではなかったかもしれないと。父は数十年生きましがあらゆる症状で最後は白血病で。重傷だった母は認知症になるまで長生きしたそうですが・・・「私は人を殺した」と口走ったり」、「お母さん」とうわ言で叫んだり、若くして亡くなった姉妹のことがいつまでも忘れられなかったのでしょうといってました。
東京都江戸川区にお住まい。親江会(江戸川区被爆者協議会)の活動に参加。江戸川区内での被爆者追悼式ではじめて被爆体験を話されたのは上京後20年以上あとのことだそうです。江戸川区の区立滝野公園内(東西線葛西駅近く)には「原爆犠牲者追悼碑」があるそうです。自然石に彫られた平和のハトのモニュメントは1981年丸木夫妻の絵図を多くの人のノミによるもの。被爆地以外の公共の場所にこのような碑が建てられたことは異例のようです。機会があったら訪ねてみたい。
《蛇足です》
都幾川を見下ろす台地の上に建つ丸木美術館。植え込みの中にこんなのが植わっていました。
西本さんは江戸川区の滝野公園内の原爆犠牲者追悼碑のそばにはヒロシマから苗木を分けられた原爆被爆アオギリが育っていて実生もあるから、ここにも植えてほしいとおっしゃっていました。
《蛇足の蛇足》被爆アオギリ・・・1945年広島逓信局の中庭にあったアオギリ。被爆で焼け爛れていたが翌1946年芽吹き、人々に勇気と希望を与えた。1973年平和公園に移植。種から実生した二世が国内外に里木として寄贈された。
>戦争は加害と被害と両方併せ待つということを知らされた
という西本さんの言葉には、本当にそうだと私も思いました。
とても難しいような…もしかしたらとてもシンプルなことなのかと、
いろいろと考えさせられます。
こちらからもTBしようとしましたが、うまくいきませんので
またトライしてみます。
戦地で、戦後外地で・シベリアで家族を故国を恋焦がれながら亡くなった方たちの想いを、若い人に伝えていかなければ・・・・・と改めて思います。
江戸川区の区立公園に原爆追悼日があるなんて知りませんでした。被爆者とそのサポーターの活動が当時の区長、区議を動かしたようです。
65年・・歴史の世界に入りました・
「歴史に学ばないと再び日本国の危機が訪れます」
西本さんたち江戸川区の被爆者会の人たちが江戸川区に原爆追悼碑を作りました。
甲府の平和ミュージアムも市民運動です。
今、こういう催しは、やわらかい表現で誰でも参加できるようにする、それが必要ですね。主張が強いと敬遠されるようです。
井出さんのお話などはそういった面でよかったですね。
毎朝の楽しみとして記事を拝見していますがコメントはなかなかむつかしくて・・・
被爆したアオギリの近くに、被爆したインドハマユウが移植されているのです。
折角平和記念公園で被爆アオギリを見ても被爆したインドハマユウをみている人は少なく感じていますので、久しぶりに紹介するか思って18日に撮影していました。
2002年に編集し2015年再編集した頁です。時間あるときによければ見てください。
http://masuda901.web.fc2.com/page3ax003.html
東京吉祥寺の井の頭公園に北村西望の平和祈念像の原型があります。見に行くほうが絶えないようです。
http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/92f0d9cf2c0231df91c6b71be60b669c
裕さんのブログ、ブックマークさせてください。
関連記事のブログをアップするきと「広島ぶらり散歩」から引用、リンクさせていただきたいと思っています。
よろしくお願いいたします。