今日は何の日・・・
4月1日・・・沖縄本島読谷村の海岸に上陸太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸・・・
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
6月22日夜半、沖縄守備軍最高指揮官牛島中将自決。6月23日朝から組織としての戦闘は終結します。
沖縄県民にとっての地獄の日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。
★沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19余万人(うち沖縄県人12万人・・・実際のの犠牲者はこれを上回るといわれます)。 米軍側1万数千人。
★太平洋戦争における日本軍の死者230万人、一般人80万(沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
★太平洋戦争における日本以外のアジア諸国の死者・・・2000万人を越えるといわれます。
6月23日・・・1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。
沖縄泡盛「島唄」を飲みながら、ロックバンドTHE BOOMの「島唄」のことを思っています。
島唄
歌:THE BOOM 作詞:作曲:宮沢和史 1993年リリース
でいごが咲き乱れ風を呼び嵐が来た
くり返す悲しみは島渡る波のよう
ウージの森であなたと出合い
ウージの下で千代にさよなら
島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
島唄よ風に乗り 届けておくれ私の涙
・・・・・・・
★デイゴ(梯梧、沖縄の県花、落葉高木、初夏に真っ赤な花を咲かせる)の花が咲くころ、戦さがはじまり鉄の嵐が吹いた
人々は戦さの犠牲になり島は哀しみで覆われた
ウージ(砂糖黍)の畑で出逢った愛する人、
ウージの畑の下のガマの中で永遠の別れが・・・
島唄よ・・・どうか風に乗ってあの人の魂を海の彼方のニライカナイ(楽園)に連れて行っておくれ
島唄よ・・・どうか風に乗って私の思いを海の彼方のあの人に伝えておくれ
☆この曲の作者、宮沢和史( 1966年山梨県生まれ)は1991年(25歳のとき)演奏活動のため沖縄を訪問、1945年の沖縄戦争の戦場となった南部の「ひめゆりの塔 平和祈念資料館」でひめゆり部隊の生き残りのおばあさんから沖縄戦争の話を聞いて衝撃を受けます。そして沖縄旋律(レとラの抜ける5音階)を取り入れながら作ったのが「島唄」。1992年ウチナワグチ(沖縄方言)ヴァージョンで発売、1万枚を売り上げ、泡盛のCMソングに。沖縄音楽の真似事、ウチナンチュウでない本土の人の歌と批判する人もあったが喜納昌吉、BEGINの比嘉栄昌らのエールを受け1993年ヤマトグチ(標準語)ヴァージョンを発売して150万枚のヒット。やがてアルゼンチンでアルフレッド・カセロが日本語そのままでカバーした「SHIMAUTA」が大ヒット。加藤登紀子、夏川りみ、はじめカバーしたアーチスト10数人。
宮沢和史は・・・遠いむかし沖縄で戦争があったことは知っていたが、ひめゆりの塔で語り部の老婆の話を聞いて・・・その凄惨さに衝撃を受け、無知だった自分に怒りを覚えた・・・ガマに眠ってる魂を空に飛ばせてやりたいと思った・・・と語っています。
★今日は、この歌を思いながら、沖縄に思いを馳せています。2004年、沖縄を訪れたときの思い出写真です(クリックでズームアップ)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/51/c0a8fe06a1165cae0b4cdfa256b83130_s.jpg)
4月1日・・・沖縄本島読谷村の海岸に上陸太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸・・・
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
6月22日夜半、沖縄守備軍最高指揮官牛島中将自決。6月23日朝から組織としての戦闘は終結します。
沖縄県民にとっての地獄の日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。
★沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19余万人(うち沖縄県人12万人・・・実際のの犠牲者はこれを上回るといわれます)。 米軍側1万数千人。
★太平洋戦争における日本軍の死者230万人、一般人80万(沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
★太平洋戦争における日本以外のアジア諸国の死者・・・2000万人を越えるといわれます。
死屍累々・・・「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが目に浮かんできます。
6月23日・・・1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。
・・・黙祷・・・
沖縄泡盛「島唄」を飲みながら、ロックバンドTHE BOOMの「島唄」のことを思っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/23/cb1a832d4103962009a874e581298cb6.jpg)
歌:THE BOOM 作詞:作曲:宮沢和史 1993年リリース
でいごが咲き乱れ風を呼び嵐が来た
くり返す悲しみは島渡る波のよう
ウージの森であなたと出合い
ウージの下で千代にさよなら
島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
島唄よ風に乗り 届けておくれ私の涙
・・・・・・・
★デイゴ(梯梧、沖縄の県花、落葉高木、初夏に真っ赤な花を咲かせる)の花が咲くころ、戦さがはじまり鉄の嵐が吹いた
人々は戦さの犠牲になり島は哀しみで覆われた
ウージ(砂糖黍)の畑で出逢った愛する人、
ウージの畑の下のガマの中で永遠の別れが・・・
島唄よ・・・どうか風に乗ってあの人の魂を海の彼方のニライカナイ(楽園)に連れて行っておくれ
島唄よ・・・どうか風に乗って私の思いを海の彼方のあの人に伝えておくれ
☆この曲の作者、宮沢和史( 1966年山梨県生まれ)は1991年(25歳のとき)演奏活動のため沖縄を訪問、1945年の沖縄戦争の戦場となった南部の「ひめゆりの塔 平和祈念資料館」でひめゆり部隊の生き残りのおばあさんから沖縄戦争の話を聞いて衝撃を受けます。そして沖縄旋律(レとラの抜ける5音階)を取り入れながら作ったのが「島唄」。1992年ウチナワグチ(沖縄方言)ヴァージョンで発売、1万枚を売り上げ、泡盛のCMソングに。沖縄音楽の真似事、ウチナンチュウでない本土の人の歌と批判する人もあったが喜納昌吉、BEGINの比嘉栄昌らのエールを受け1993年ヤマトグチ(標準語)ヴァージョンを発売して150万枚のヒット。やがてアルゼンチンでアルフレッド・カセロが日本語そのままでカバーした「SHIMAUTA」が大ヒット。加藤登紀子、夏川りみ、はじめカバーしたアーチスト10数人。
宮沢和史は・・・遠いむかし沖縄で戦争があったことは知っていたが、ひめゆりの塔で語り部の老婆の話を聞いて・・・その凄惨さに衝撃を受け、無知だった自分に怒りを覚えた・・・ガマに眠ってる魂を空に飛ばせてやりたいと思った・・・と語っています。
★今日は、この歌を思いながら、沖縄に思いを馳せています。2004年、沖縄を訪れたときの思い出写真です(クリックでズームアップ)。
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宮沢和史さんは同県人、今の音楽活動をされていますし、今年も屋外でのコンサートが予定されているようです。
まだお若い方なのに、こんなに素晴らしい唄を作ってくださったことに感動していましたが、こんないきさつがあったのですね。
いつの世でも命の重さに変わりがない筈ですが、ひとたび戦争が起こると、たちまち軽いものに様変わり!戦争は絶対起こしてはならないものです。
宮沢和史は甲府市千塚生まれ、山梨の人として誇っていい人です。
ひめゆりの塔で聞いたおばあの話しでこの歌を作った、いままで新聞や、雑誌やラジオやテレビで語っています。
独特の節回しは沖縄特有の5音階。
沖縄、明るい空、海、緑の国なってもらいたい。