軽井沢から北軽井沢へ・・・JR中軽井沢駅から峰の茶屋を経過して18㎞、約20分で北軽井沢の交差点あたりにつきます。
《薀蓄》草軽電鉄・・・国鉄軽井沢駅のそばの新軽井沢駅から旧軽井沢、三笠、二度上、地蔵川、上州三原、万座口を経て草津温泉駅まで全長55.5㎞、1914年から工事をはじめて1926年全線開通。長野原、嬬恋、草津、六合村の観光、流通、農産物、硫黄鉱石の搬出を担ったが、車社会の進化により、1960年~1962年全線廃線。北軽井沢・・・群馬県長野原町大字北軽井沢・・・むかし上州吾妻郡応桑村地蔵川。この地が開発されたのは明治の初期、国策的な意味で皇族の北白川宮親王が「浅間牧場」を開設、旧館林藩士が入植、北白川宮没後は官有地は民間に払い下げられ、農場、別荘地に。太平洋戦争後、満蒙からの引揚者が入植して寒冷地対応の高原野菜、酪農が行われている。
本格的に開発が始まったのは1918年に草軽電鉄の「地蔵川駅」が開通してから。
地蔵川駅から「北軽井沢駅」になったのは1926年。当時の法政大学の総長松室到がこのあたりの土地を取得、大学の職員、学者、文化人、政財界の人に勧め法政大学村という別荘地を開発、松室は駅舎を寄贈。そのとき駅名が「北軽井沢」と改称された。
地籍名が北軽井沢になったの1980年代以降のようだ。古代から続く信州の軽井沢とは全く関係ない。ただ軽井沢の北のほうにあるだけだが、こういう地名のつけ方(模倣地名、パクリ地名)は今では珍しくなくなっている。
さて映画「カルメン故郷に帰る」の話です。
映画は最初、無声映画から始まり、トーキーという音声入りの映画に、もちろんモノクロですが、映像に色をつけるという夢は初期のころから試みられていたようです。アメリカでは1932年にディズニー映画で、1939年には長編劇映画「風と共に去りぬ」で本格的に。日本では1937年ころから試みられていたようですが本格的になったのは「カルメン故郷に帰る」からといわれます。総天然色という今では使わないヘンな言葉ですが、アメリカの技術によらない松竹と富士フィルムによる共同研究のような形で撮影されたそうです。とうじのカラーフィルムの能力、光学機器の能力では光度が暗くてはダメ、したがって晴れた日の野外撮影が多く浅間山麓の美しい風景が見事だそうです。
1951年公開、総天然色映画「カルメン故郷に帰る」木下恵介監督。高峰秀子主演。
あらすじは・・・浅間山麓から東京に出てストリッパーになった娘が草軽電鉄に乗って故郷に錦を飾り、大騒ぎするというようなものらしいです。
写真は2009年発売されたDVDです。2006年発売のもの、2012年発売のものもあります。
一度は見て見たい映画です。DVD探そう。
日本初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(1951年公開)のふるさと・・・北軽井沢です。
峰の茶屋から北軽井沢に入って2つ目の信号のある交差点を右折して、すぐ左折すると、こんな建物が。
旧草軽電鉄の北軽井沢駅舎跡・・・1927年(昭和2年)建造,1960年廃駅、文化庁登録有形文化財。
屋根の切妻が善光寺の屋根を模し、欄間のHはこの地を開発した法政大学グループを表しています。
駅舎内の待合室から、改札口の向こうの風景。
駅舎側のホームの向こうに島式ホームが。待合室もあります。停まっているデキ12型電気機関車は実物大木製模型です。
北軽井沢駅舎跡の向かい側にある観光協会に貼ってあった「カルメン故郷に帰る」のポスター。
峰の茶屋から北軽井沢に入って2つ目の信号のある交差点を右折して、すぐ左折すると、こんな建物が。
旧草軽電鉄の北軽井沢駅舎跡・・・1927年(昭和2年)建造,1960年廃駅、文化庁登録有形文化財。
屋根の切妻が善光寺の屋根を模し、欄間のHはこの地を開発した法政大学グループを表しています。
駅舎内の待合室から、改札口の向こうの風景。
駅舎側のホームの向こうに島式ホームが。待合室もあります。停まっているデキ12型電気機関車は実物大木製模型です。
北軽井沢駅舎跡の向かい側にある観光協会に貼ってあった「カルメン故郷に帰る」のポスター。
《薀蓄》草軽電鉄・・・国鉄軽井沢駅のそばの新軽井沢駅から旧軽井沢、三笠、二度上、地蔵川、上州三原、万座口を経て草津温泉駅まで全長55.5㎞、1914年から工事をはじめて1926年全線開通。長野原、嬬恋、草津、六合村の観光、流通、農産物、硫黄鉱石の搬出を担ったが、車社会の進化により、1960年~1962年全線廃線。北軽井沢・・・群馬県長野原町大字北軽井沢・・・むかし上州吾妻郡応桑村地蔵川。この地が開発されたのは明治の初期、国策的な意味で皇族の北白川宮親王が「浅間牧場」を開設、旧館林藩士が入植、北白川宮没後は官有地は民間に払い下げられ、農場、別荘地に。太平洋戦争後、満蒙からの引揚者が入植して寒冷地対応の高原野菜、酪農が行われている。
本格的に開発が始まったのは1918年に草軽電鉄の「地蔵川駅」が開通してから。
地蔵川駅から「北軽井沢駅」になったのは1926年。当時の法政大学の総長松室到がこのあたりの土地を取得、大学の職員、学者、文化人、政財界の人に勧め法政大学村という別荘地を開発、松室は駅舎を寄贈。そのとき駅名が「北軽井沢」と改称された。
地籍名が北軽井沢になったの1980年代以降のようだ。古代から続く信州の軽井沢とは全く関係ない。ただ軽井沢の北のほうにあるだけだが、こういう地名のつけ方(模倣地名、パクリ地名)は今では珍しくなくなっている。
さて映画「カルメン故郷に帰る」の話です。
映画は最初、無声映画から始まり、トーキーという音声入りの映画に、もちろんモノクロですが、映像に色をつけるという夢は初期のころから試みられていたようです。アメリカでは1932年にディズニー映画で、1939年には長編劇映画「風と共に去りぬ」で本格的に。日本では1937年ころから試みられていたようですが本格的になったのは「カルメン故郷に帰る」からといわれます。総天然色という今では使わないヘンな言葉ですが、アメリカの技術によらない松竹と富士フィルムによる共同研究のような形で撮影されたそうです。とうじのカラーフィルムの能力、光学機器の能力では光度が暗くてはダメ、したがって晴れた日の野外撮影が多く浅間山麓の美しい風景が見事だそうです。
1951年公開、総天然色映画「カルメン故郷に帰る」木下恵介監督。高峰秀子主演。
あらすじは・・・浅間山麓から東京に出てストリッパーになった娘が草軽電鉄に乗って故郷に錦を飾り、大騒ぎするというようなものらしいです。
写真は2009年発売されたDVDです。2006年発売のもの、2012年発売のものもあります。
一度は見て見たい映画です。DVD探そう。
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