今日9月16日は1939年「ノモンハン事件」(日本軍と蒙古・ソ連の連合軍の戦闘)の停戦協定がモスクワで結ばれた日です。実は日本人の大半(当時の軍人も含めて)がこの事件を知らないのです。1939年(昭和14年)は日本が太平洋戦争に突入した2年前です。
舞台は現在の中国モンゴル自治区東北部ホロンバイル市の近くの中ロ国境付近です。興味のある方は地図でノモンハンを見てください。
(写真は知合いの撮った最近の満州里の草原です。戦闘はここではありません)
見渡すかぎりの草原です。身を隠す高い草、葦のようなものもありません。このような草原でソ連側の機動部隊と日本側の歩兵と戦ったのです。司馬遼太郎の聞き書きによると長野県在住の元兵士は日本側の機動力を「まるで元亀、天正のような」(織田信長の時代です)と語ったそうです。伊藤桂一「静かなノモンハン」(講談社1961)によると戦車に対して匍匐前進の歩兵がサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶を投げ、効果が相当あったようです。当時の戦車は時速10㌔もなく空冷でマフラーが外付けですからすぐ引火したのだそうです。燃えあがる戦車の中で泣き叫ぶソ連兵の声も聞かれたそうです。
戦いの趨勢は決します。将棋の途中投了というか、囲碁の中押し負けというか、ヘビー級とフライ級の試合です。8月31日ごろには草原から日本軍は一掃されます。
1939年5月4日から8月末までの戦闘です。
半藤一利「ノモンハンの夏」(文藝春秋1998)
両軍の損傷について調べました。はっきりしないのです。Wikipediaなどによりますと
戦死者 7720 戦傷者 8664 戦病者 2363
行方不明 1021 合計 19768
出動人員 58925
ソ連側
戦死、行方不明者 7975 戦傷者 15232
飛行機の損傷 350機 装甲車両 300輌
ソ連側の損傷も大きいのです。日本側の飛行機、戦車の損傷の数はアイマイです。数字だけ見ると日本が勝ったみたい。戦略はともかく日本兵は勇敢でした。
日本側の死者は1966年靖国神社の慰霊祭では18000名と発表されているそうです。数字が合わないのだ。いずれにしてもこの戦闘の情報は徹底的に隠蔽されたようです。したがって数字も確かなものかわかりません。明らかになって行くのは1945年以降です。いま某国の国営放送の場面を見て笑っていますがあれと変わりません。
伊藤桂一「静かなノモンハン」(講談社文庫1961)
司馬遼太郎はこの本の中で著者と対談しています。戦車隊の経験のある司馬さんはこの事件を追って12年間取材を続けたそうですが断念したそうです。「頭の血管が破裂する」といって。この対談の中で「将校商売、下士官道楽、お国のためは兵士ばかり」という言葉を知りました。
この戦争で自決(自殺教唆です)した将官は10数名。自決拒否の人もいます。捕虜で帰ったもの戦場から撤退したものに拳銃を与えたようです。生存した兵士は帰国することなく他の戦場に回されます。
一方、高官は帰国の後、予備役等に配属されています。
「一将功もならず万骨枯るる」です。
写真は満州里、国境の検問所です。草原以外に何もありません。古くから漢人でもなく日本人でもなくロシア人でもなくモンゴル人の部族が住んでいたのです。
※2018年9月15日のブログ⇒クリック⇒「中国・旧満州の旅の終りは・・・内モンゴル・・・ソ満国境・・・70数年前のノモンハン 戦跡を尋ねて」
舞台は現在の中国モンゴル自治区東北部ホロンバイル市の近くの中ロ国境付近です。興味のある方は地図でノモンハンを見てください。
(写真は知合いの撮った最近の満州里の草原です。戦闘はここではありません)
見渡すかぎりの草原です。身を隠す高い草、葦のようなものもありません。このような草原でソ連側の機動部隊と日本側の歩兵と戦ったのです。司馬遼太郎の聞き書きによると長野県在住の元兵士は日本側の機動力を「まるで元亀、天正のような」(織田信長の時代です)と語ったそうです。伊藤桂一「静かなノモンハン」(講談社1961)によると戦車に対して匍匐前進の歩兵がサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶を投げ、効果が相当あったようです。当時の戦車は時速10㌔もなく空冷でマフラーが外付けですからすぐ引火したのだそうです。燃えあがる戦車の中で泣き叫ぶソ連兵の声も聞かれたそうです。
戦いの趨勢は決します。将棋の途中投了というか、囲碁の中押し負けというか、ヘビー級とフライ級の試合です。8月31日ごろには草原から日本軍は一掃されます。
1939年5月4日から8月末までの戦闘です。
半藤一利「ノモンハンの夏」(文藝春秋1998)
両軍の損傷について調べました。はっきりしないのです。Wikipediaなどによりますと
戦死者 7720 戦傷者 8664 戦病者 2363
行方不明 1021 合計 19768
出動人員 58925
ソ連側
戦死、行方不明者 7975 戦傷者 15232
飛行機の損傷 350機 装甲車両 300輌
ソ連側の損傷も大きいのです。日本側の飛行機、戦車の損傷の数はアイマイです。数字だけ見ると日本が勝ったみたい。戦略はともかく日本兵は勇敢でした。
日本側の死者は1966年靖国神社の慰霊祭では18000名と発表されているそうです。数字が合わないのだ。いずれにしてもこの戦闘の情報は徹底的に隠蔽されたようです。したがって数字も確かなものかわかりません。明らかになって行くのは1945年以降です。いま某国の国営放送の場面を見て笑っていますがあれと変わりません。
伊藤桂一「静かなノモンハン」(講談社文庫1961)
司馬遼太郎はこの本の中で著者と対談しています。戦車隊の経験のある司馬さんはこの事件を追って12年間取材を続けたそうですが断念したそうです。「頭の血管が破裂する」といって。この対談の中で「将校商売、下士官道楽、お国のためは兵士ばかり」という言葉を知りました。
この戦争で自決(自殺教唆です)した将官は10数名。自決拒否の人もいます。捕虜で帰ったもの戦場から撤退したものに拳銃を与えたようです。生存した兵士は帰国することなく他の戦場に回されます。
一方、高官は帰国の後、予備役等に配属されています。
「一将功もならず万骨枯るる」です。
写真は満州里、国境の検問所です。草原以外に何もありません。古くから漢人でもなく日本人でもなくロシア人でもなくモンゴル人の部族が住んでいたのです。
※2018年9月15日のブログ⇒クリック⇒「中国・旧満州の旅の終りは・・・内モンゴル・・・ソ満国境・・・70数年前のノモンハン 戦跡を尋ねて」
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残った私たち、彼らの死を、犠牲を、青春を忘れているような気がします。言葉は足りませんが、つくづく申し訳ない自分です。