加藤周一『羊の歌』余聞 鷲巣力=編 ちくま文庫880円
は、「自伝的性格を帯びる著作や対談・講演」です編者解説。・・しかし、内容は多面的に世界を語っています。
加藤氏は、戦後すぐの時代では、率直に戦闘的に語っていてすがすがしい文章です。
この本での、晩年に近い段階での、文章は、基本を曲げてはいませんが、わかりやすさに配慮していることや、ふっと力がぬけるようなやわらかさも感じます。
加藤氏自身の認識の発展や主張の仕方の配慮があるのかもしれませんが、ますます好きな人物になりました。
1990年代から2006年までのものですから、その発展が感じられました。
ただ、一番最後に、1972年1月の「私の立場さしあたり」は、当時の仮借のない立場でかかれており、他とはすこしちがうようです。
私は、氏のマルクス主義への評価にずっと注目していますが、(日本共産党の科学的社会主義の路線と歴史に直接ふれるのはすくないように思いますが)
「人は常に、合理的に基礎づけることの出来ない信念から出発するのである。その信念は、おそらく、歴史的、社会的、生理的、心理的諸条件の複雑な相互作用からうまれてものである。たとえていえば、多くの変数を含む関数のようなものである、関数の形は分からない」と氏の立場を語り「(マルクスやフロイトは、変数を一つに絞って、関数の形を定めようとした人たちである」とのべています。
日本共産党の史的唯物論の立場は、自然の法則性とともに、人間の歴史の発展の法則性を認めています。一人の信念はいろいろであっても、人間全体としては存在が意識を決定すること。人間自身が自覚して社会をすすめる力になることを認めています。
わたしは、加藤氏が「9条の会」や「京都見立て会」など、観察者から変革の立場へ発展していったのではないかと思うのですが。
だいぶ前ですが、有る集まりで有力者と軍事力のあり方にあついて論争になったことがあります。その時、別の方が「おたがい日本人なんだから、論争はやめたほうが良い」と言われ、中断しました。そのまま、議論がすすめば、なかなかおもしろかったと思うのですが。それで、止まってしまいました。
加藤氏はこの本の中で日本型ナショナリズムについて語っています。民族でも国家主義とでも訳せないものとして解明されています。
日本人について「参加意識じゃなくて自然ナショナリズムだとおもう」「同質的な共同意識です」「銭湯のようなものですね。お湯につかっているナショナリズム」加藤氏は、「日本文化における時間と空間」の中で詳しく述べています。
科学的社会主義の理論について加藤氏は「70年代にベルリーン自由大学に行った時に、私が驚いたことの一つは、ドイツでは長い空白があったということです。
彼らはマルクスを全然知らない。共産党系の文献も知らないで、新マルクス主義みたいなものが流行に流行った。・・・世の中の出来事を全体として一括理解するためには、何らかの知的枠組みが必要です。マルクスを忘れてその代わりを見つけることは、今のところ難しいようですね。」と語っています。
日本共産党が、マルクルをその発展の中でとらえるとして、現代に適用する理論的発展を続けている一方、諸外国での理論的な発展が感じられないのは、こうした背景もあるのかもしれないと思ったのですが。
私にとって加藤周一氏は、広い世界へ目を開かせてくれた方であるとともに、その違いも含めて、日本共産党の存在異議を確認できる大きな存在でもあり、自らの小ささを知ることが出来る方でもあります。
ただ、私は、観察者ではなく、変革者でありたいと思っています。