小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

うつ病の時代をどう生きるのか?:

2013年04月05日 | 社会戯評
うつ病の時代をどう生きるのか?:
今の時代は、懐の深さを失ってしまった社会であり、且つ、一部の人にとっては、空気を読むこと自体が、負担に感じられるような時代であるそうである。バランスを欠く自己愛偏重や他人を責めたり、他人の言動に傷つき易かったり、ストレスにうまく対応できずに、環境適応が不適格であったりと、更には、病気とは云えないような適応障害とも思われるものまで、範囲が、今や、現代では、拡がる一方で、何が、健康で、何が、健康的でないのかすら、分からないような状況であるようである。しかしながら、少なくとも云えることは、そうしたこれらの症状で悩んでいる人々が、顕在的にせよ、潜在的にせよ、多いことは、どうやら、間違い事実のようである。もともと、人類の進化(?)の過程で、飢餓から生き延びるために必要不可欠なシステムとして創り出されたモノが、逆に、糖尿病のようなものを誘発する羽目になってしまったのは、実に、皮肉なことではないだろうか。同様に、環境にうまく適応し、秩序を維持することが、そもそも、生存上でも必要だったシステムそのモノが、今日では、逆に、「鷹揚さ」とか、「寛容さ」とが、徐々に失われてきて、やがて、他人のことには、あまり関わっていられるような余裕すらなくしてしまいITの進化とも相俟って、異常に敏感な社会と個々の人間関係までもが、その中で、閉塞状況下に置かれてしまうことになってしまったのだろうか。そう言えば、まだ、子供の頃には、フーテンの寅さんのような何をしているのかよく分からぬオジサンが、不思議に、いたものであることを想い出す。もっとも、病まないためには、無理せずに休みを取ったり、ライフ・スタイルや生き方を軌道修正したらよいとか、言われても、そう簡単には、出来るモノではないだろう。しかしながら、どうやら、一つだけは言えそうである。それは、「気分転換」や、「疲れを溜めないこと」、精神的にも、肉体的にも、この二つは、肝心要のキー・ワードのようである。FBなどのコメントをみていると、若い人達は、本当に、労働時間が長くて、今日は、、、、と思いきや、既に、時間を見る限り、もう、明日になっていたり、いくら若いからと言っても、そんなに短い睡眠時間で、脳細胞が、金属疲労を起こさないのかなと誠に、年寄りから観ると心配になる人達が実に多い。確かに、自分も仕事を持っているときには、かなり、働いた記憶があるが、1960年代後半に、ヘルベルト・マルクーゼが、その著作、「純粋寛容批判」という本の中で、体制が有する寛容さを「抑圧的寛容」と称したものであるが、今や、今日では、そんな寛容さや鷹揚さは何処へやら、どこの国でも、グローバリゼーションとやらの世界標準という名の下、訳の分からないギスギスした社会関係性が、会社組織でも、その人間関係の中にも、或いは、本来盾となるべき家族関係の中にも、ヒタヒタと忍び寄って来つつあるようである。まずは、一風呂浴びて、頭の中の老廃物を全て、スッキリさせて、我が老犬と散歩にでも、行くことにしようか、、、、、、、。まずは、疲れを取り、美味しい空気を腹式呼吸で吸い、副交感神経を蘇生させ、太陽を浴びることが、大切かも知れませんね。