小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

久坂玄瑞的なる生き方とは、:

2013年04月09日 | 社会戯評
久坂玄瑞的なる生き方とは、:
京都の何処の寺だったのか、どうしても想い出せない。何か、絵馬が奉納されていたが、肝心のその絵馬に何が書かれてあるのか、古くて、色褪せてしまっていて、読めなかったことを覚えているが、それが、久坂玄瑞が奉納したと言うことだけが、その説明文に添え書きされていた。松下村塾の吉田松陰の妹婿という立場であり、且つ、高杉晋作や入江九一とともに、松下村塾四英傑と謳われた久坂も、僅か、24歳という若さの中で、その短い人生を「蛤御門の変」の渦中で、自刃して果ててしまったとは、、、、、、。八重の桜の中で、桂小五郎に向かって、「君の思うところに従って、君はゆけ、僕は残る」と、言ったかどうかは、定かではないが、如何にも、「逃げの小五郎」とは異なった生き方を選択したものである。何故、来島又兵衛らの出兵にも、一度は、応じなかったにも関わらず、この時点で、真木和泉も含めて、戦略的に、「退く」と言う選択をしなかったのであろうか?陽明学的な、「やむにやまれる思いこそが大切であり、結果ではない」という一言の有する情念なのであろうか?それとも、死生観なのであろうか?歴史に、もしもは、あり得ないのであるが、その2年後には、歴史の歯車は、大きく、転換することになるわけで、それは、今日、生きている我々だから、未来から過去を眺めうる唯一の特権を有する人間だからこそ、云えることなのであろうか?福澤諭吉にしても、明治の時代になっても、ガス灯が点るようになっても、暗闇を怖がって、歩きたがらなかったと言うが、古来、源頼朝や徳川家康ではないが、「怖じ気づく」ことは、決して、大将としての資質が欠けていることであるとは、必ずしも言いがたいものであろう。そんなことは、分かっていたのであろう。人生設計に、「戦略と戦術」というモノがあるのであれば、何故、そんなに、「生き急いで」しまったのであろうか?所詮、歴史は、生き残ったものの、(勝ち残ったとは言わないが、)そういう人間が、残したものなのであろうか?池田屋で、自刃して果てたと言われている宮部鼎三にしても、この久坂玄瑞にしても、どんな人物であったのか、著作でも、残しておいてくれないと、その思想性なり、人物像が、見えてこないのは誠に残念である。皮肉にも、「留魂録」等は、獄中に居合わせた人間が、後に、その口述するところを、謂わば、テキストのように書き写したものを持ち出したモノで、やはり、行為・行動だけでは、なかなか、思想性が見え難いものがあるのか、、、、。とりわけ、君子豹変するではないが、思想的な一大転換が、きっと、生きていればあったことをみてみたかったものであるが、、、、、、。まさに、「草莽」の中で、蹶起して、潰え去って行ったモノの生き方に、何か、坂本龍馬や高杉晋作や土方歳三らとは、違った未完成に終わってしまった者の見果てぬ夢のほうに、より興味と魅力を感じられるのは、不思議なことである。もっとも、坂本等も、未完であるが、、、、、。