小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

呉 善花著、「日帝だけでは歴史は語れない」を読む:

2013年08月09日 | 書評・絵本
呉 善花著、「日帝だけでは歴史は語れない」を読む:
前作に引き続き、なかなか、センセーショナルな題名をつけるものであるが、反日の源流を検証するという命題について、歴史認識の違いを、李朝と幕末明治初期の歴史の中で、経糸に、東亜細亜の政治情勢を横糸にして、余り、学校で教えられなかった史実を基に、論じた著作を、なるべく、同女史の著作内容に従って、読み進めて行きたい。
どうして、どうして、なかなか、日韓の間の「歴史認識は埋められない」と。、、、、、、結論づけているが、、、、、、、。詳しく、その後を追って行くとしよう。
1945年の終戦まで、そんなに、長きに亘って、一貫して、日本に対して、朝鮮民族は、所謂、70年戦争を闘ってきたのか?その本当に意味するところは、一体、何なのであろうか?
日本民族の固有な資質による野蛮で侵略性によるとまで還元されてしまう歴史認識とは、
反日の姿勢を一貫してとることこそが、「愛国」に通じるし、これこそが、「日本蔑視の裏返し」に過ぎないと。謂わば、歴史認識の中に、無意識かどうかの如何を問わず、「反日の国是」が、「民族アイデンティティーの核」を形成しているのではないだろうか?
中国による「大中華主義」と朝鮮民族による「小中華主義」に根ざすものであって、植民地支配による反日思想ではないのではないかと、李承晩による日本蔑視観による民族国家の統一もこの延長線上で読み解けると、明治初期の「征韓論」という日本側の危機意識の一面も、影響はしているものの、、、、、中国を中心とする東亜細亜の秩序の破壊、世界秩序から、離脱、独立させることが「日本の国益」であるとの判断からか?。ここから、具体的な歴史的な史実の考察へと入ってゆく。
「金玉均」(キム・オッ・キュン)らの朝鮮独立党の歴史的位置、「甲申クーデター」の失敗、明治17年、1884年「日清戦争」、1894年、「天津条約締結」へ、という流れのなかで、考察されるべきものであると、李朝とは、どんな国家だったのか、李朝の亡霊とは、一体何なのか?ヘンダーソンによれば、それは、嫉妬深い中央集権主義、血縁小集団が上昇志向の共通性によって維持されたものであると。両班による不毛な争い、子孫へと世襲される憎悪の系譜、大院君による李朝末期の復古的改革と専制政治への復古とキリスト教徒への弾圧と殺戮、自らへの「縦の忠誠」を徹底的に強化し、「個人独裁」を可能にしたが、この手法は、「反共・反帝」という戦後の韓国、李承晩や北朝鮮の金日成に、そっくりそのまま、継承されたる「政治手法」であると。だとすれば、その後の展開は、今日、その亜流で在りつつけているのであろうか?継続性は、民政移管でも断ち切れていないのか?
幕末の頃の「釜山の倭館と長崎の出島」の違いは、そのまま、江戸幕府と李朝の鎖国の違いを物語っているのかも知れない。1865年、ロシア船、1866年のアメリカ・シャーマン号、フランス極東艦隊による所謂、洋夷を、幸運にも撃退してしまったことによるに李朝の鎖国攘夷政策の貫徹という成功体験と日本の黒船との蹉跌の違いをどのように、歴史は、評価するのか、
何故、中国や日本が欧米列強による圧力に屈服し、開国したのに対して、皮肉にも、国力の劣る李朝が攘夷を貫徹できたのであろうか?それは、英独仏米国を含む西欧列強による東アジア戦略上の単なる一時的な退却という情勢判断だったのであろうか、
皮肉にも、この李朝による成功体験である、「正を衛り、邪を斥ける」(衛正斥邪:えいせいせきじゃ )の決意を固めて、中華文明を「正」とし、中華文明に従属しない民族を「邪」とする「小中華主義」が、謂わば、日本的な尊皇攘夷のイデオロギーの対局に、国家スローガンとして、敷衍されてゆくことになったのであろうか?
日本新政府の政権樹立の国書受取を拒否したのも、倭夷が、単に、洋化して、「仮洋夷」となって来襲したとして、衛正斥邪の対象に過ぎぬと、排斥の声を大きくしていった。(何とも、国書ならぬ、首相の親書を、竹島問題を理由に受け取らぬのは、今に、始まったことではないことが、改めて、思い知らされる。)
当時のこの間の日本国内での征韓論と、その世界観、対朝鮮観、そして、李朝の世界観、対日観は、今日でも、国書陰謀・謀略策についても、冷静に、双方の共同研究で、比較検証されなければならないと思われるが、、、、、。
皇帝(エンペラー)と王(キング)との解釈の違いは、何を意味するのか、
仮洋夷と化した順化を遂げない夷族の日本と、攘夷を乗り越えて維新を遂げた日本からは、李朝こそが、時代錯誤も甚だしい、許しがたい存在そのものに映ったのかも知れない。所謂、「世界文明・歴史観の激突」だったのかも知れない。もっとも、それは、粗暴な帝国主義の覇権争いという事実にも重なろうが、、、、、、、。
この10年間に及ぶ復古主義が、外には強固な鎖国攘夷主義と中国への忠誠を進める李朝という国家は、日本側からみれば、国家防衛戦略の観点からして、「著しく、大きな危険な頼りない障害」に見えたのかも知れない。この間、欧米への視察使節団派遣、電信・鉄道・新聞・学制改革など、欧米に追いつき追い越せと近代化と富国強兵策をとることになるのであるが、、、、、、、一方、李朝では、大院君の失脚(1873年)後、再び、「外威勢道政治の復活」と政争・内部抗争が繰り広げられることになる。
日本人の歴史認識には、「皇国史観と侵略史観」とがあると韓国側は主張するが、考えてみれば、日本側から、それでは、「韓国の歴史観・世界観は、どんなものであろうか」とする議論は、確かに、著者が云うように、あまり、マス・メディアには、耳にしたことがないのも事実であるし、取り上げられることはないのが実情であろう。ましてや、韓流ブームの中で、冬のソナタの中で、真面目に、論じられ、解析された試しはないような気がしてならないが、、、、、。どうなのであろうか?
「中華主義」、それは、こう考えることになる。即ち、「自らが世界のまさに中心に在り、その中心から遠ざかれば遠ざかる程に、野蛮で侵略的な者達が跋扈する文化果つる夷族の地となる。中心にある優等なる中華が、周辺の劣等なる夷族に文化・道徳を与えて感化・訓育し、中華世界の支配下に組み入れて行かなければならない」、こうして成立した世界秩序を、「華夷秩序」と呼ばれ、これに参加しない周辺国家・諸民族は、常に、「夷狄」として、征討の対象にとなることを覚悟しなければならないことは、言を俟たない。何やら、何処かの島嶼防衛や離島の不法占拠を、身近に、想い出すと、このキー・ワードで、謎解きも、出来なくはないが、、、、、、、。
何も、「朝貢外交」を例に出すまでもなく、地理的に遠い日本に対しては、当然、「侮日観」が、あってもおかしくはないであろう。成る程、「Kポップス」も「韓流ドラマ」も、このキーワードで、読み解くと、なかなか、興味深い側面が見てとれようか?文化・道徳を与えて、訓育すべき対象の国なのか?それらを差し引いても、「英国と米国」の「植民地・被植民地」の関係性と違い、植民地戦争を闘いながらも、今日、「共通の価値観」を有する国柄とは、随分と大きな差異が日韓にはあるように感じられてならない。
「華夷秩序」から、「常に一定の距離を保つ」ようになった古代からの日本という国は、ある種、特異な存在だったのかも知れない。やがて、それは、学ぶ対象から、克服する対象へ、そして、夷族扱いされることすらも、何とも思わない「独立心」が、独自の文化的な発展の中に「以小事大」(小を以て大に事(つか)うる者はその国を保(やす)んず)という孟子の言の如く、小国が大国に礼を以て仕える「事大主義政策」と「交隣外交」に徹することになると、
李朝による、仏教を抑圧して儒教を崇める「(抑仏崇儒)政策」の遂行、皮肉にも北方の夷狄である女真族が、明を滅ぼし、清を興すと、心では、「事大主義」を信奉するにもかかわらず、心の底では、清を夷狄として、蔑視するという精神構造、大中華なき世の小中華思想の樹立という「現実と理念との乖離」の弊害、「事大主義と交隣外交」、これも、何処かで、今日、聞いたことのあるような気がしないでもない。今日でも、振り子は、常に、大きく、右に左に、北に南にと、揺れ動いているのであろうか?
韓国人は、「先祖(民族)が、受けた被害に関わる限り、歴史の中で現在を見る」という見方が強く出るようである。歴史意識の根本に、先祖の功績も罪責も子孫が受け継ぐという根深い発想があるのだろうか?。
日本には、夷族秩序に抗して自立しようとする一連の自主独立の国の流れが当時は、あったようである。秀吉は、夷族秩序を破壊しようとしたのではなくて、トップに立とうとした天下取りであり、「明治期の所謂、征韓論」とは、異なる側面があろうかとも、後者はむしろ、夷族秩序を明らかに破壊して、自らの手で、「東亜細亜の新秩序」を創出しようとした違いがあるのかも知れない。韓国の云う所謂、「古代からの侵略思想の系譜」、或いは、「民族的な残虐的な固有な侵略性格」という延長線上では、議論にはならないのではないだろうか、
江戸期の国学の勃興は、一見、漢的なるもの、仏教的なるものを排除してはいるものの、日本的なるものの中で、異質な文化すらも天皇制に矛盾しない限り、底流では、受け容れてきたものかも知れない。佐藤信淵による日本版中華主義、自民族優位主義、及び、西欧列強によるむき出しの帝国主義に潜むレイシズム(他民族蔑視に伴う自民族優位主義、劣等視、蔑視)、侵略主義の共通性、等というものは、指摘できなくもないけれど、、、、、、。
吉田松陰が、異なるところは、西欧近代化との接触によって、皇国史観の外征論に合理的な根拠を与え、より現実的なものとしたことなのか?この辺の理解の仕方には、少々、時間を費やさなければならないであろう。これだけでも、一冊の本が書けそうである。「所謂、征韓論」とは、世界制覇の非現実制の中で、形を変えた東亜細亜での一種の夷族秩序の破壊、覇権争いになったのか?その延長線上で、考察されなければならない内容のものではなかろうか?
中国・朝鮮での民族的な世界観と「鏡の裏表のような関係」で、日本でも互い同士を、劣等視、蔑視したことになるのか?征韓論、外征論の内実とは、こういう側面があったのであろうか?当時の意識からすれば、今日でも、「馬鹿でも、チョンでも」と言葉上の民族差別だと云われている如く、言葉だけでなくて、世界観の底流に、そうした意識がなかったとも思われないことはないが、、、、、しかし、それだけでは、解き明かされないのではないだろうか?
 明治期の征韓論の背景」は、単なる往古の復古主義では無くて、こうした背景があったのか?我が地から、彼の地から、双方で、同じ土俵の上で、考察されるべきものなのかも知れない。李朝の夷族秩序からの離脱、(開国、独立)こそが、日本にとっての安全保障上、外交上の喫緊の課題だったのかも知れないが、、、、、、、。それこそが、まさに、唯一無二の当時の国益だったのだろうか?そうかも知れないし、別の途があったのかも知れないが、それが、何であったのであろうか?又、当時、冷徹なむき出しの帝国主義争いの中で、そんなきれい事や理想主義を語っている暇があったのであろうかとも思える。歴史に、仮の議論は通じないことは確かであるが、、、、、。
1873年末、大院君に代わり、閔氏政権が、日本との武力衝突を回避するために、外交交渉に臨むことに転換するが、結局、挫折して、日本は、1875年砲艦外交に出ることになる。
そして、日朝修好条規の締結に至るも、李朝側には、国際法、不平等条約への理解が本当に、なかったのか?それは、果たして、人材不足で、片付けられるのか?
李朝に於ける「開化派と旧主派との対立」、閔氏政権は、国論不統一。対立を抱えたまま、開国・開化策へ移る、不完全な軍制改革と腐敗・汚職・内部分裂、クーデター未遂など、
金玉均らの青年官僚のもう一つの開化グループとしての(独立党)の存在、そして、1882年にソウル反乱が起こり、閔氏一派を追放し、大院君の復帰に至る。目まぐるしい展開である。この間、開化派の官僚等が、天津に滞在していて、李鴻章に開国策に反対する大院君のクーデターで日本軍が居留民保護の名目で出兵軍事衝突の恐れがあり、清国に調停のための派兵を要請することになる。この清国の派兵に伴い、反乱軍は一掃され、大院君派は、捉えられ、再び、閔氏一派が、清国の庇護下で、復帰し、清国の影響力が強まることになる。まさに、振り子は、右に左に、目まぐるしく、ブレ始める訳である。
この壬午軍乱は、日本・清国に、それぞれ、「外交政策に大きな変更」をもたらすことになり、清国は、「対朝鮮干渉を強化」する方向をあらわにした。やがて、これが、ソウルの軍事制圧・進駐下、不平等条約、中国式軍制改革などへと繋がり、1882年10月には、実質的な属国化されることになり、「これまでの宗属支配」から「近代的な帝国主義支配」へと移行することになる。
清国は、1879年日本政府による琉球領土の組入れ後、日本の朝鮮への独占的な進出を牽制する姿勢をとることになる。この辺は、まるで、今一の沖縄・尖閣諸島を巡る中国の歴史的な認識を垣間見るようで、実に、面白いが、朝鮮半島情勢も沖縄の歴史的な戦略的な位置づけは、全くと言って良いほど、19世紀後半と、今日、変わっていないことが、再認識される。
日本は、この時点で、飽くまでも金玉均(キム・オッ・キュン)らの「独立党を支援」することで、「朝鮮の独立と近代化」を図るという基本線に変わりはなかったものの、「清国による干渉強化」により、対外的な「外交政策の修正」を迫られてきた。
そんな中で、開化派は、二つのグループに分裂する、閔氏一派と連帯し、清国による干渉が強化されようと、清国の影響下でも近代化を推進しようとする金弘集、等と、飽くまでも、清国からの独立を目指す近代化を強く唱える金玉均等の「二派に分裂」する結果になる。この80年代の対立は、必ずしも、親清派、親日派、或いは、現実派、理想派、或いは、穏健派、過激派という構図ではないのかも知れない。当時の朝鮮の国益と日本の国益は、果たして、朝鮮独立と言う点で、如何なるものだったのであろうか?何故、開化派は、一丸となって、近代化が出来なかったのであろうかと言っても、仕方の無いことか?歴史の史実の中では、それは、ないことか?
官吏の腐敗と科挙試験制度の堕落と官職の事実上の売買と李朝末期での安東金氏勢道政治時代、大院君執権時代、閔氏勢道政治時代、際限なき悪貨私鋳造の泥沼化に陥った李朝末期、そんな中での2度に亘る金玉均の来日(1882年)と福澤諭吉との出逢いと自主・独立思想の影響、李朝・清朝・日本の近代化に伴う洋学理解の人材の相違、中国の近代化を見限った福澤の真意と文明論の概略、(これは、丸山真男の本を、もう一度読み直さなければならない)、福澤の目論んだ、文化的手段による李朝改革・朝鮮維新への援助と近代化政策の頓挫、悲劇的な文士肌の新任公使竹添進一郎と金玉均のすれ違い、清国外交顧問のメルレンドルフの険悪な関係、国債委任状に関する竹添報告に伴う日本借款問題の実現の困難化、或いは、米国との借款交渉の不調、ベトナム進出中のフランスからの借款も頓挫、
1884年、借款失敗後に、帰国すると同時に、日本の対韓政策が変更されることになる。
メルレンドルフによる当五銭貨問題を契機とする排斥運動と独立党に対する閔一族による圧迫、清仏戦争を契機にしたクーデター計画のアウトラインと西欧列強の動きとロシアの南下政策、高宗の金玉均への密かなる期待、福澤・井上による後方支援への、日本への期待と不安、果たして、クーデター後の展望とは?本当に、何通りのシナリオは、きちんと、準備されていたのであろうか?
英米に期待する朝鮮半島での「日本・清国の影響力の排除」と「ロシアの南下政策」、当時の日本の力を過大評価することは出来ないが、ロシアや西欧列強の干渉を排除する力は、当時の日本には、この時点では、未だ、無かったであろうことは容易に想像される。
そして、1884年明治17年、12月4日、甲申10月、クーデターは決行されることになる。翌々日には、袁世凱等の清国軍による攻撃開始、竹添公使と村上中隊長の意見不一致による公使館への撤収と仁川への退却、そして、12月13日長崎着へ、日本亡命へ、清仏による和議成立と日本政府の対韓政策の再びの変化、何故、竹添公使への政府訓令が遅れてしまったのかという謎!、慎重案である乙案が、即座に伝達されなかった謎!、公的文書だけでは解き明かせないもう一つの謎!、
まるで、いつの時代も、「現場の独断専行」という何処かで聞いたことのある言い訳、何とも、不可解な成り行きである。12月下旬に、三田の福澤諭吉邸での再会、その後の民間人融資等による亡命援助支援活動、結局、甲申クーデターの半数以上の処分者は、日本の陸軍戸山学校の士官・下士官出身者や留学生たちであった。国家反逆罪により、その一族にも、凌辱刑が及んだことは、非情な過酷な政治の結果以外の何ものでもない。その後、1885年の「漢城条約」と伊藤博文と李鴻章との交渉による「天津条約」の締結、双方駐留軍のの撤収に至ることになる。この間、「朝ロ密約の暴露」が起き、メルレンドルフが解任される。今や、日清両国による覇権争いから、「ロシアも含めた三極すくみ」になる。既に、時計を逆廻しに見てくれば、日清戦争、日露戦争という構図が、底流には垣間見られることになる。イギリスによる巨文島のウラジオ港戦略的封鎖意義とロシアとのアフガン対峙。何とも、今日でも、何故ロシアが、アフガン侵攻したのか?日露戦争での日英同盟が締結されたのかという時間の逆廻しが、極めて、分かりやすい。
幽閉中だった大院君の帰国による閔一族内部での袁世凱一派とロシア派の暗闘、やがて、世界情勢の中で、歴史に翻弄されるように、日・清・朝各国間で、厄介者扱いされるようになった金玉均の立場、9年3ヶ月に及ぶ日本での亡命生活、そして、国外退去問題、1885年の大井憲太郎による大阪事件の発覚等、榎本武揚・犬養毅・中江兆民・福澤諭吉等の民間人からの亡命生活中での支援と福澤による忠告にもかかわらず、巧妙な上海への誘い出しと1994年3月28日の暗殺。4月14日の凌辱刑の実行。
翌5月、「甲午農民戦争(東学党の乱)」が起こり、これをきっかけに、日清両軍による「日清戦争」が始まる。戦後、1895年下関講和条約が締結される。そして、後の三国干渉へと繋がる。旧独立党派も開化派もやがて、完全に、壊滅してしまい、「李朝によるロシア接近」へと繋がって行く。
歴史の不幸なツキのないタイミングに見放され、翻弄された金玉均の理想と現実、
著者は、同書の中で、飽くまでも、歴史の史実を読み解くことで、歴史認識が、只単に、日本帝国主義による悪しき植民地主義教育や反日的な感情ではなくて、むしろ、歴史を遡ることで。朝鮮民族に潜む「無意識の中で、日本及び日本人に対して、劣等視してしまうことから来る予断」、これが、「朝鮮に於ける歴史理解である」と、歴史認識のズレは、中華主義や、小中華主義から、来ているので、「本当に埋めることの出来ない溝」になってしまっているのか?様々なキー・ワードの中で、歴史認識を解析しようとしてきたが、甲申クーデターの歴史的な評価は、どのように、各国で下されているのあろうか?又、日本での教育では、この間の幕末・明治初期の外交政策、とりわけ、対李朝・清国・ロシアとの関係が、どちらかと言えば、「米国」との黒船・開国以降の関係で主として、語られてばかりで、あまり、本格的に、教えられていないような気もする。今日の国際情勢、とりわけ、東亜細亜の情勢は、これらの歴史認識との議論とも読み合わせてみると、実に、興味深いものが見えてこよう。本の題名に、惑わされることなく、客観的に、読み解くと、なかなか、面白い側面が見えてくるような気がしてならない。