小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

藤圭子と新宿という街:

2013年08月24日 | 社会戯評
藤圭子と新宿という街:
歌は、いつでも、万人を平等に、その歌われた当時に記憶を運んでくれる媒介である。そして、歌と共に、その当時の想い出や臭いすらも、思い起こさせてくれる。それが、楽しかったことであれ、辛い日々であったとしても、、、、、。人は、生活が苦しいから、自死しても、生活に疲れたのかしらとか、その理由を詮索、納得するが、それが、お金に全く、困らなく、歌謡史に燦然と輝く足跡を残して、その子供が、大ヒットを飛ばしたとしても、金銭的に何不自由なく(?)暮らしていたとしても、どこかに、その自死する理由は、心の奧底のどこかに潜む暗闇のように、本人にだけしか分からないものなのかも知れない。1960年代の後半・末頃から70年代初めに掛けては、確かに、高度成長期も一段落つき、構造不況なる言葉が、囁かれ始め、中国では、文化大革命が起こり、ベトナムでは、北爆に伴う反ベトナム戦争運動が、巻き起こり、我が多感だった世代にも、受験勉強をしながらも、ヒシヒシと、時代の激変しつつある感じが、肌身にしみじみと滲みて来るような時代だった。豊かさという言葉を、物質的には、享受できたとしても、まだ、本当の意味での生活の豊かさは、実感できにくく、むしろ、貧乏という言葉が、まだ、人々の記憶の片隅で、実感されるような新宿の街に、後に、広告看板というフェンスで、蔽われて行き交う電車が見えなくなってしまった新宿東口広場も、近くのション便横丁も、まだ、学生で賑わっていた歌舞伎町・花園界隈も、何か、今ほどは、よそよそしくなくて、学生の街だったような気がしてならない。作詞家、石坂まさをに見出された薄幸を演じ切った当時の藤圭子は、「新宿の女」、「圭子の夢は夜ひらく」、「女のブルース」、「命預けます」等、により、当時の新宿の街に象徴されるような、「怨みの歌」、何か、影を引きずる女の情念のようなものを一つの時代背景と相俟って、若い私達の心の片隅にある、罪悪感のようなものに、どこかで共鳴振動、増幅されたような気がしてならない。流石に、忘れかけた頃に、宇多田ヒカルの母親だということを知ったときにも、驚かされたものの、或いは、米国入国時に、千万円単位の現金を所持していて、見つかってしまったという奇行も、世間知らずのお馬鹿さんであると思わなくもなかったが、流石に、転落死か、分からぬが、死んでしまったとは、何とも、当時の「新宿」という街の雰囲気自体が、或いは、その時代の「暗闇のような感じ」そのものが、消失してしまったかのような気がしてならない。当時のアングラの女王と騒がれた浅川マキも逝き、石坂まさをも、又、奇しくも、闘病の末に、今春に亡くなり、いまや、黒い、ドロドロとしたどす黒い「情念や怨念」を醸し出すような歌手が、観られなくなってしまったことは、おおいに、残念である。と同時に、都市も、自ずと、ビルの建て替えに伴って、変貌して行き、人々の心も記憶も、やがて、移ろいゆくことになるのであろうか?「15・16・17と私の人生暗かった!」と勇気を持って断言出来る人も、少なくなってしまった!もう、新宿という街にも、あまり、足が向かなくなりそうである。用事もないかな?