「谷文晁」生誕250周年展の最終日を観る:
もっと、早めに知っていれば、作品が、前期・後期で、入れ替えられているので、両方を観るべきであったと後悔しても、もはや、遅かりし由良之助である。最終日での駆け込み、いつもの出たとこ、勝負だから困ってしまう。残念至極である。今更、悔やんでも仕方ない。アラブの春による政治的な混乱に便乗して、中部エジプトの美術館の歴史的な所蔵品が、ごっそり、持ち去られ、何でも重いモノは、持ち去れないから、破壊にまで及んだというニュースを聞くと、歴史的な遺産は、その保存や継承などは、なかなか、困難なものである。考えてみれば、まだ、子供の頃には、コピーなどという便利なツールは、存在せず、ひたすら、模写や、書き写す作業をしたものである。そう言えば、海外の美術館などでは、画家の卵と思しき学生が、一心不乱に、著名な画家の作品を座り込んで、模写しているのを観ることがある。谷文晁も、確かに、その初めには、まず、模写であると弟子達にも語っている。そして、様式を整えた上で、自分固有の表現に辿り着くことをといているようである。確かに、真似は、学びに通じるものである。そんな風に、考えてみると、成る程、旅日誌の写生画やスケッチも、写本も、文化・芸術・民俗学・果ては、料理や衣装・風俗までも、画家というものは、写真が存在し得なかった時代に、諸国名図、山岳絵図や地図ですら、湾内の様子や街の様子、人々の生活までも、絵巻物でも、木製の版本でも、保存され、今日、我々の目の前に、展開されることになったのかも知れない。パトロンでもあった白河藩主の松平定信や、弟子のその後、シーボルト事件に連座する渡辺崋山にしても、こういう視点から、眺めてみるとなかなか、一人の画家だけの視点とは又、別の何かが見えてこようか、それにしても、石山寺縁起絵巻にしても、400年以上もの時を経て、完成されたとは、誠に驚くべきことである。山水画も、墨絵も、屏風絵、襖絵にしても、花鳥風月画、孔雀図、動物画、草木画、眺望図、仙人図、人物図、観音図、涅槃図、富嶽図、等々、随分と、多種多様なジャンルで、変幻自在な様式で、この絵師は、あまたの作品を残したものである。写本も含めれば、大変な数の作品を残してくれた訳で、それだけでも、美術史だけでなくて、歴史公証学・民俗学的な見地からすれば、大変な足跡にでもなろうか?前期作品を見逃したことは、おおいに、悔やまれてしまいそうである。残念であったが、後の祭りである。影絵のようなシルエットを描いた人物画は、まるで、現代絵画のポスターのようにも思えるものであった。会場を後にすると、そこには、六本木、東京ミッドタウンのコンテンポラリーな容赦ない現実の世界が、迫ってきたような気がした。
もっと、早めに知っていれば、作品が、前期・後期で、入れ替えられているので、両方を観るべきであったと後悔しても、もはや、遅かりし由良之助である。最終日での駆け込み、いつもの出たとこ、勝負だから困ってしまう。残念至極である。今更、悔やんでも仕方ない。アラブの春による政治的な混乱に便乗して、中部エジプトの美術館の歴史的な所蔵品が、ごっそり、持ち去られ、何でも重いモノは、持ち去れないから、破壊にまで及んだというニュースを聞くと、歴史的な遺産は、その保存や継承などは、なかなか、困難なものである。考えてみれば、まだ、子供の頃には、コピーなどという便利なツールは、存在せず、ひたすら、模写や、書き写す作業をしたものである。そう言えば、海外の美術館などでは、画家の卵と思しき学生が、一心不乱に、著名な画家の作品を座り込んで、模写しているのを観ることがある。谷文晁も、確かに、その初めには、まず、模写であると弟子達にも語っている。そして、様式を整えた上で、自分固有の表現に辿り着くことをといているようである。確かに、真似は、学びに通じるものである。そんな風に、考えてみると、成る程、旅日誌の写生画やスケッチも、写本も、文化・芸術・民俗学・果ては、料理や衣装・風俗までも、画家というものは、写真が存在し得なかった時代に、諸国名図、山岳絵図や地図ですら、湾内の様子や街の様子、人々の生活までも、絵巻物でも、木製の版本でも、保存され、今日、我々の目の前に、展開されることになったのかも知れない。パトロンでもあった白河藩主の松平定信や、弟子のその後、シーボルト事件に連座する渡辺崋山にしても、こういう視点から、眺めてみるとなかなか、一人の画家だけの視点とは又、別の何かが見えてこようか、それにしても、石山寺縁起絵巻にしても、400年以上もの時を経て、完成されたとは、誠に驚くべきことである。山水画も、墨絵も、屏風絵、襖絵にしても、花鳥風月画、孔雀図、動物画、草木画、眺望図、仙人図、人物図、観音図、涅槃図、富嶽図、等々、随分と、多種多様なジャンルで、変幻自在な様式で、この絵師は、あまたの作品を残したものである。写本も含めれば、大変な数の作品を残してくれた訳で、それだけでも、美術史だけでなくて、歴史公証学・民俗学的な見地からすれば、大変な足跡にでもなろうか?前期作品を見逃したことは、おおいに、悔やまれてしまいそうである。残念であったが、後の祭りである。影絵のようなシルエットを描いた人物画は、まるで、現代絵画のポスターのようにも思えるものであった。会場を後にすると、そこには、六本木、東京ミッドタウンのコンテンポラリーな容赦ない現実の世界が、迫ってきたような気がした。