小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

2016年02月12日 | 映画・テレビ批評

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

映画というものは、見終わった後で、何か、悪いものを食べてしまった様な後味が感じを抱くのも、又、ホッと胸をなで下ろすのも、監督の胸先三寸なのであろうか?その意味では、この重苦しいテーマに富む映画のエンディングと、生き詰まるラスト10分間の展開には、ある種の監督へ感謝の意味を伝えなければならないかも知れない。カンヌ映画祭のパルムドール最高賞受賞作品であるのも、成る程、納得される。四半世紀にも及ぶ長いスリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎との内戦によって生じた主人公達・難民が、偽装家族になりすまして、フランスへと渡るが、異国の地で、文化も、宗教も、言葉も、異なる環境下で、互いの絆と愛を深めながらも、現地の麻薬組織の売人チンピラ・グループの抗争に巻き込まれる中で、やむなく、過去に、決別した暴力から、逃れられなくなるという、まるで、昔の任侠路線の映画さながらの内容であるものの、そこには、今日的な重い問いかけとしての、『政治難民』、『異文化・共生』、『宗教の違い』、『学校での虐め』、『家族とは』、『identity』、『二重の差別』、『貧困とは』、そして、人間は、そんな中で、果たして、どのように、生きていくべきなのか?そして、どんな限られた選択肢が、残されているのか?それとも、残されていなかったら、どんな選択肢を選ばなければならないのであろうか?パスポート入手のための偽装家族という形から、本当の真の家族・夫婦・親子へと時間的な経過と共に、露わになって行くフランス郊外の老朽化した団地に巣くう犯罪者集団の抗争を通じて、しかも、そのフランス人チンピラの世界でも、同じくよそ者としての二重の差別と貧困の関係が、描かれてもいる。それは、紛れもなく、表の一見、平和そうな、幸福そうに見えるシャバの世界も、又、裏で、生き抜いている難民達の世界も、同じように、どこか、『暴力』という力による世界の均衡が、微妙に、何かのきっかけひとつで、崩壊してしまうきわどいガラス細工のような壊れやすい世界なのかも知れない。古アパートの管理人という職業も、家政婦という職業も又、生き抜くためには、殺されるよりはマシという限られた選択肢の一つであることを、私達は、頭で、理解出来ても、本当に、理解出来るのであろうか?カメラワークの中で、逆光線を活用したようなシーンが、幾つか、みられるし、又、元ゲリラ兵士であったディーパンの心の奥底に潜むであろうドロドロした鬱積したマグマのような怨念が、崇高なインド象の映像と共に、ジャングルの密林の中から、垣間見られるのは、何かを象徴しているようでもある。それでも、エンディングが、結局、妻の姪がすむイギリスへ渡れたと云う事、そして、二人の子供とおぼしき赤ん坊をあやすシーンには、やはり、胸をなで下ろせたことは、地中海で、難破して溺死したり、チンピラの抗争で、流れ弾に当たって、非業の死を遂げるエンディングよりは、マシなのかもしれない。或る日、突然、管理人に、難民がなったら、我々は、どんな対応をするのであろうか?彼らのidentityや尊厳を、しっかりと、日本人は、人間として、リスペクト出来るであろうか?考えさせられる映画である。