アルバイトの届けと同じレベルなのか?:
何とも、表現の自由とか、集会への参加への問題に、関して、とりわけ、18歳選挙権の付与に伴って、論じられている高校生のデモへの参加の届けに関して、可笑しな議論が起こっている。1960年代の後半には、今から、時計を逆廻しにしてみても、世界的に、何処でも、学生、とりわけ、若者による反乱が、そこかしこで、みられたものであるが、一体、どれ程の数の学生が、とりわけ、未成年や高校生も含めて、デモへの届けを出したのであろうか?アルバイトの届けとは、全く、異質の次元の異なるものであるにも拘わらず、公然と、『安全性』の問題に、すり替えられていることに、全く以て、驚いてしまう。どの時代でも、何処の国でも、若者には、『造反有理』が、心の何処かに、共通するものなのであり、決して、そんなものは、大人や親の了見や、社会の束縛から、拘束されるモノではない。五・四運動も、そうであったし、パリのカルチェ・ラタンでの5月革命も、韓国での学生による反軍事政権民主化運動も、天安門民主化暴動も、すべて、例外ではないし、これからも、政治を下から突き動かすムーブメント足りうるマグマのように煮えたぎるような憤りや怒りや不満は、既存のエスタブリッシュメント化された政治体制の枠組みの中で、安穏と治まりうるモノではない。それは、歴史が、証明していることであろう。何故、老人ばかりが、政治的な影響力を有していて、貧困家庭や片親や非正規労働者の政治的な影響力が、声がとどかないのかを、誰かが、したり顔に、分析していたが、本当にそうなのであろうか?今振り返ると、60年代の後半は、全く、不可思議な時代であったのかも知れない。一体、あの頃の若者は、あの紅衛兵達は、今、どうしているのであろうか、拝金主義と腐敗と富の格差にまみれた現実を、どう見ているのか?あのカルチェ・ラタンの街頭を占拠した若者達は、今、どのように、移民問題を考え、プラハの春をくぐり抜けた若者達は、何を思って生きているのであろうか?コロンビア大学で、銃剣をつけられたベトナム反戦デモに参加した若者達は、今、we are 99%に属しているのか、それとも、ITで、成功して、1%になっているのであろうか?アルバイトの届け出と一緒くたにされてはたまったモノではない。