小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

めちゃイケにみる笑いの世界:

2016年02月29日 | 映画・テレビ批評

めちゃイケにみる笑いの世界:

『適者生存』という言葉の英語の訳はSurvival is the fittestであるということを随分前に、教えられたことを想い出す。成る程、生存するには、環境に適合しなければならないのか?もう5年程も前になるのであろうか?当時、精神を病んでいた岡村への愛故なのかどうかは、知らぬが、唯一のズブの素人として、めちゃイケ新メンバーに、選出されたにも拘わらず、結局、みちのくプロレス修行も途中放棄したり、局側の温情を自らが、お笑いという仕事の戦線から敵前逃亡する形で、逃げていた一出演者を、まるで、公開処刑するような、要するに、自らの嘗て選出した『笑いの目利きの罪』を、引き受けることなく、国民投票なるdボタン方式なるもので、無自覚に、首を切るなどと言う企画自体が、既に、フジ・テレビという局の芸能番組という分野で、現在おかれているところの地位と問題点を浮き彫りにしているようにみえて、その意味では、なかなか、面白い。それにしても、お笑いの芸人の発掘なるものは、別の意味からすれば、流石のメディアをもってしても、要するに、紹介するプラットフォームが、あっても、非常に、難しいものなのであると云うことではなかろうか?或いは、演劇で云えば、舞台が、大きくても、小さくても、物理的に、確保されていても、もっとも、キャリアのない芸人や俳優というものは、そういう『舞台』にすら、既に、立てるものは、ごく一部の限られた『選ばれし者』だけが許されるものであって、大半は、生活を維持するために、毎日毎日、アルバイトで、働いて行かねば、そのエントリーさえも、出来ない現実があるのかも知れない。この主人公が、一体、過去、五年間に、出演料をどれ程、補償されていたのかは、定かではないが、番組の中で、いみじくも、ダイノジが、涙ながらに、語っていたように、玄人のお笑い芸人は、当時、藁にもすがる思いで、必至に、争ったものの、唯一、玄人ではない、『素人』という一点のみで、敗れ去った、その無念さは、逆に、そっちの方にこそ、芸人魂を見てとれるのはどうしたものであろうか?エアー・ギターでも、必死になって、舞台へ上がろうとした、ダイノジの方こそ、応援したくなってしまう。それにしても、お笑いというものは、一発ギャグでも、30年、50年、やり続ければ、一発『芸』になる可能性を秘めているものの、それをやり続けるという『恐怖』、それで、本当に喰っていけるのか、家族を養って行けるのかという重圧は、並大抵なことではなかろう。成る程、芸人というものは、お笑いの世界も、俳優もそうなのかも知れないが、企画して、或いは、ある種の作られたプラット・フォームが、事前に、与えられても、所詮、その俎上に挙げられた素材が、好機と捉え、活用しなければ、ものにしなければ、全く、機能しないということが、これからも、証明されようか?それにしても、子供の頃に見慣れた、公開オーディションなども、今や、全国的な第二の石原裕次郎オーディションではないが、どうも、この種の第二の○○とかというオーディション企画や、国民的な○○というものが、流行らなくなってしまったのは、何か、関連や理由があるのであろうか?どうやら、少なくとも、云えることは、お笑いの世界には、カネも、血縁や地盤や看板は、全く、通用しないということなのであろうか?20年後か、30年後には、きっと、『あの人は、今!』などと、性懲りもなく、又、二次・三次加工するのが、この業界の常なのではなかろうか?そんな後味の悪い番組だから、投票もしなければ、最後には、結果を確認することもなく、床についてしまった。案の定、不合格になってしまったらしい。そりゃ、そうであろう。それにしても、めちゃイケ自体が、或いは、その出演者自身こそが、そんな他人事で、いられるのであろうか?明日は、我が身であることをうすうす、感じてはいるのであろうが、、、、、。