小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

白梅を生ける:

2016年02月20日 | 自然・植物・昆虫

白梅を生ける:

何か、こう、描写すると、如何にも、高尚な趣味でも有していて、春先になると、庭の白梅を、生け花にでもして、観賞するのではないかと、錯覚を起こしてしまうから、面白いモノである。何と言うことはない。先月、女房殿の実家に、顔を出したときに、庭先の黄色いろうばいの花が、匂い立って、綺麗だったから、帰り際に、貰ってきて、玄関の花瓶に、挿しておいたところ、その香りが、何とも言えず、ほのかに、春先の香りを届けてくれたものの、やがて、その花達も、ひとつひとつと、落ちてしま、今では、そのかぐわしい臭いどころか、羞悪な枯れた花弁が、廊下に、落ちている始末である。書斎のシャッターも、冬場は、寒くて、暖房効率が悪いからと言う理由から、滅多に、開け放たれることもなかったが、先日、天気の良い日に、布団を干そうとベランダ越しに、二階から、階下に眼をやると、何と、知らぬ間に、白梅が、見事に咲いているではないか!特に、お礼の追肥をやるわけでもなく、何もしないでいるにも拘わらず、未だ寒い冬の2月には、毎年、決まって、蕾が大きくなり、やがて、これから、華々しく咲き乱れる春の花達の魁として、開花する。何と言うことはない、気まぐれに、シャッターを開け放てば、一瞬、その窓越しの風景が、パアッとその限られた空間だけが、一瞬にして、明るくなったのである。そこで、高枝切りを持ち出して、単に、徒長枝を、何本か、切ってきて、花瓶に、挿しただけの話である。その時に、恐らく、もう花時は、満開を少し、過ぎていたのであろうか、何片かの白い小さな花弁が、ひらひらと、廊下やフローリングの上に、落ちる。何とも、その花弁の落ち方が、堪らなく、宜しいではないか!まるで、それは、春の訪れを、自ら、その魁の役割を、終えたことを暗示するかの如きで、、、、、、、、。誠に、美しいと想う。花の美しさなどというものはないなどと、小林秀雄を想い起こすことも、必要ない。只、その一瞬の花弁の散り際だけを愉しめば宜しい。やがて、5輪の花弁が、開き尽くして、それは、散り始めることを暗示しているのかも知れない。無造作に、活けられたピンク色の桜草の花と一緒に、只、一枝、スックと伸びた短い枝振りに、密集した白梅は、まるで、『凜』とした孤高を、しばし、愉しんでいるかの如くである。敢えて、廊下やフローリングに、落ちた一枚の白い花弁は、きっと、間違いなく、誰かによって、『こんなところに、花びらが、落ちているわよ!誰も、気が付かないの?、誰も拾わないのかしら?』とばかり、綺麗さっぱりと、ゴミ箱に、消え去る運命にあることは、100%間違いないであろう。それまで、しばしのあいだ、そのゴミと間違われるまでの時間を、愉しもうではないか?この次、外国人に生け花の神髄を説明するときには、活けるまでの過程と、活けた後の散りゆくさまに関して、講釈を垂れてみたいとも考えてしまう。一輪挿しというものは、なかなか、面白いモノである。ホテルのロビーの大きな創作生け花も宜しいが、貧乏でも、金持ちでも、関係なしに、存在することのない花の美しさ(?)を愉しめるから、面白いのかも知れない。白梅の後には、雪柳、白木蓮、小手毬、沈丁花、ハナミズキの花達が、順番を争うかのように、蕾を大きくしながら、控えている。文学的には、やはり、白梅の一枝を手折ると言う表現のほうが、響きが宜しいであろうか?