小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

朝の長い行列:

2016年02月09日 | 社会戯評

朝の長い行列:

10時開店なのであろうか?パチスロも携帯のゲームもやったことがないから、長い行列をしてまで、朝の開店前から、50人程の長い行列を作る理由が理解しかねる。10人程の列が、5列程も、スマホを眺めたりして、ポケットに、手を突っ込んで、寒そうに、並んでいるが、そのどの顔も、というよりも、その雰囲気が、どうも、暗くて、感じが悪い。まるで、ナチス時代のゲットーにいるユダヤ人みたいである。どうみても、愉しそうな生き生きとした雰囲気は、そこからは、感じられない。若い人達もいれば、又、明らかに、中高年とおぼしき人達が混じっている。年寄りは、余り見受けられない。一体、パチスロで、如何ばかりかの人達が、パチスロ御殿を建てることが出来るのであろうか?流石に、競馬で、馬主が、誇らしげに、勝ち馬と一緒に、記念撮影をしているところは、見かけるものの、パチスロのプロで、御殿を建てたという話は、皆目、聞いた試しがない。それにしても、朝の10時前から、如何にも、非生産的である。時間の無駄でもあろうし、この人達は、一体、どのくらいの金額を、どのくらいの時間を掛けて、稼ぎ出すのであろうか、それとも、どのくらいの損失を、否、お店に、銭を献上するのであろうか、しかも、その費やされた時間を勘案したら、どんなものであろうか?それにしても、一の時間とエネルギーを盗んでおいて、如何にも、夢とか遊戯とかという言葉で、語られると、エンタテイメントやゲームの世界とは、本当は、どんな世界なのであろうか?

 


防衛関連企業へのサイバー攻撃:

2016年02月08日 | 社会戯評

防衛関連企業へのサイバー攻撃:

年金機構の情報の漏洩は、今から、時間を巻き戻してみれば、『エムディビ』の攻撃であったことが、窺えるということは、穿った見方をすれば、被害者側にも、そんなに、被害者面して、本当に、一方的に、情報の漏洩ばかりを冴えているのであろうか?サイバー空間での闘いというものは、如何にも、1000単位での被害というこれまで類をみないほどのダメージを受けているということになっているらしい。確かに、国家的なある一定の使命を帯びた国外からの犯行グループによる攻撃に対して、その手口と経路が分かっていれば、考えてみれば、被害者側も、実は、巧妙に、逆スパイではないが、或いは、二重スパイではないが、イスラエル辺りならば、とうの昔に、そんなことをモサド辺りは、やっているに違いなく、日本の諜報機関も、そんなことは、充分考えられることもなかろうかと思われる。そうするに、一見、被害者が、一方的に、やられっぱなしで、加害者が、水飲み型攻撃を、マルウェアに仕込んで、一方的に、やっているとも、実は、考えにくい。むろん、気が付かずに、やられてしまったと云うことが、実態なのであろうが、或いは、どんな情報が、流出・漏洩されたかが、分からないなどと報道されても、如何にも、暗号コードを解明できたなどと、報道する馬鹿は、何処にもいないであろう。先端情報などは、防衛産業の周辺企業でも、当該の官庁でも、漏洩攻撃をされる側の情報も、おとりの罠ではないが、情報の漏洩を前提にした、ウィルスの罠を仕込んだ情報を、逆に、仕込んでいないとも限らない。無論、そんなことをやっているとか、実は、既に、あちら側の情報も、しっかりと、筒抜けに入手出来ている仕組みを張り巡らせているやかも知れない。根こそぎ情報を盗み取ることは、知的財産を知らぬ間に、蝕まれることになっており、食い荒らされていることすら、分からないように、しているのかも知れないが、それでも、身も知らぬ第三者を乗っ取ったり、なりすましで、複数のサーバーを経由して、巧妙に、行われているのであろうが、それでも、追跡が出来ないわけではないであろう。むしろ、記録の追跡による真相解明が出来なければ、今後は、全く、別の『眼には眼を』という被害者側からの反撃が、執られることは、間違いないであろう。冷戦下で、かつて、ソ連のスパイ網が、米国における原爆開発情報を盗み取ったように、今や、ソーラー・パネルも、ステルス戦闘機開発も、先端産業、知的財産権スパイも、すべて、そのような意味合いから、慎重に、考えておかなければならないであろう。被害者側は、決して、被害者然としては、これからは、していることは、あり得ないであろう。特定の悪意を有した攻撃者に対して、これまでの善意を前提にした対応だけでは難しいのも、事実であろう。敵の攻撃から、自らを防御するには、まずは、味方から、騙さなければ難しいのかも知れない。

 


ワースト経営者とは

2016年02月07日 | 社会戯評

ワースト経営者とは:

ネットのニュース記事を読んでいたら、ワースト経営者に、あのワタミの参議院議員の渡辺某が、読者から、選出されたらしい。それによれば、悪名高い、『ブラック企業』のイメージが、ついて回ることになった、『過労自殺死』の裁判の件が、大きく影響したそうである。しかも、日経ビジネスの『敗軍の将、兵を語る』という記事の中でも、自分の主張する真意が、伝わらず、もっと、早めに、和解しておけば、よかったなどと言うコメントが、原因であるともされている。だいたい、この『敗軍の将、兵を語る』などという記事自体に、私は、大変、不快な想い出がある。そもそも、昔、日経が、確か、経営者オブ・ザ・イヤーとか、ベンチャーオブザイヤーとかを、散々、囃し立てていた頃に、確か、一世を風靡していた、VTRのモーターを手掛けていた、確か、記憶が間違っていなければ、その経営者を、礼賛する提灯記事を書いていたのに、数年後には、それが、破綻した途端に、この記事のコーナーに、登場したのを、今でも覚えているし、それ以来、この類の出版物や記事は、読まないことにしたものである。世の中というものは、そんなものなのかも知れない。それにしても、多かれ少なかれ、外食業などの創業者には、ある種の『狂気のようなカリスマ性』を有していないと、生き馬の目を抜くような激しい業界の競争の中では、新しいビジネス・モデルを、作り出せないのも、事実なのかも知れない。もっとも、だからといって、24時間・365日働きづめを強いたり、或いは、労働監督局から、労働条件の改選命令を、勧告されても一向に構わないと言うモノでもなかろう。そんなワタナベの次期参議院の再選は、間違いなく、ないであろう。ネットで、評価というモノは、なかなか、面白いモノである。これに対して、人気一番手は、稲盛某であると、成る程、人の評価というモノは、藤田田ではないが、『勝てば官軍』で、私が若い頃には、京都セラミクスなどは、低賃金、長時間労働で、全く、人気がなかったモノであるが、流石に、40年余りも経過すると、評価が、変わるモノである。面白いことに、どこかの大手外食チェーンのカサノバ社長も、ワースト10に顔を出しているのは、なかなか、興味深いモノである。早く、髪の毛をブロンドに、ヒラリー・クリントンみたいに、何故、染めないのであろう?それだけでも、全く、イメージが、違って、日本人には、好感度が、上がるというモノであろうが、、、、、、10年後、20年後の経営者ワースト10には、誰が、顔を出すのであろうか?歴代の東芝の社長が、既に、顔を出しているらしいが、シャープなどは、どうなるのであろうか?鴻海(ホンハイ)との買収に傾きつつあるシャープの経営者の判断は、後世の人には、どう映るのであろうか?

 


鴻海(ホンハイ)のシャープ買収は、成功するのか?:

2016年02月05日 | 社会戯評

鴻海(ホンハイ)のシャープ買収は、成功するのか?:

「鴻飛千里、海納百川」(鴻(大 きな雁)は千里を飛び、海はすべての川を納める) という意味で、企業が大きく羽ばたくよう期待し た縁起がいいネーミングであるそうである。

もっとも、70年代半ばには、所詮、テレビの選局チャネルのプラスチック部品を生産していたという中小企業が、後に、EMS事業でパソコン生産・アップルとの協業などへ、進出成功しようとは、同業者や、創業者ですら、想像だにしたであろうか?実際、数多くの当時の同業他社は、消え去ってしまったのも事実であるが、、、、、、。これまでの鴻海が辿ってきた『勝利の方程式』が、将来も、そのまま、通用するのであろうか?中国での安い労働力を活用して成長した、OEM事業や、BTOから、CTO(Configuration to order)へという流れや、その最中でのアップルのスマホ事業も、必ずしも、今や、盤石とは言い切れない、中国国内での人件費の高騰やスマホの成長の鈍化と新規商品の不透明性など、様々な不安定要素が、顕在化しつつあるのも、事実である。実に、『国外への技術の流出を阻止する』などというお題目は、圧倒的な、買収金額の前には、何の意味がないことを、今般の交渉は、皮肉っぽく、考えさせられてしまう。それなら、何が何でも、いくら金を積んででも、そうするべきではないかと思うし、尤も、その反面で、ホンマかいな?という懐疑心が、心の底にないわけではない。そんな産業再生機構へ国家官僚が、自分の責任と命を懸けた様な決断をするわけがないだろうに、、、、、、とも、思ってしまうのは、困ったものである。今日、後藤新平のような、そんな骨太の官僚などは、いるのであろうか?可笑しなことに、散々、高付加価値を追求してきたブランド側も、実際、これまで、その歴史的な発展を辿ってみれば、ナショナルでも、初めは、電灯のソケットや、自転車のランプの電池から、或いは、オランダのフィリップスから、技術を買いまくって、研究したのであるから、鴻海のことをとやかく言う立場にないのも、事実であるが、日本人というモノは、いつまでたっても、やる側から、『やられる側』にまわってしまったことに、気が付くのも遅いモノである。実に、別の意味からすれば日本人には、よいチャンスなのかも知れない。どうみても、おぼこい、のほほんとしたシャープの経営者の面構えと、山東省出身の創業者とでは、既に、勝負は、何年も前から、ついていたのかも知れない。それを日本人は、訳の分からぬ、『技術の海外流出の阻止』などという民族主義的な、感情的な、情緒に訴えるところから、始めては、既に、この時点で、官僚は、負けてしまっているのかも知れない。堪らないのは、それでも、そこで、働く労働者であり、その家族であることは間違いない。残念乍ら、いつも、日本には、そういう『メニュー』が、初めから、用意されていないし、経営者は、用意することをしない。郭台銘(テリー・ゴウ= Terry Gou)は、将来に向けてのそんな準備は、しているのであろうか?気に掛かるところである。

 


鴻海(ホンハイ)のシャープ買収は、成功するのか?:

2016年02月05日 | 社会戯評

鴻海(ホンハイ)のシャープ買収は、成功するのか?:

「鴻飛千里、海納百川」(鴻(大 きな雁)は千里を飛び、海はすべての川を納める) という意味で、企業が大きく羽ばたくよう期待し た縁起がいいネーミングであるそうである。

もっとも、70年代半ばには、所詮、テレビの選局チャネルのプラスチック部品を生産していたという中小企業が、後に、EMS事業でパソコン生産・アップルとの協業などへ、進出成功しようとは、同業者や、創業者ですら、想像だにしたであろうか?実際、数多くの当時の同業他社は、消え去ってしまったのも事実であるが、、、、、、。これまでの鴻海が辿ってきた『勝利の方程式』が、将来も、そのまま、通用するのであろうか?中国での安い労働力を活用して成長した、OEM事業や、BTOから、CTO(Configuration to order)へという流れや、その最中でのアップルのスマホ事業も、必ずしも、今や、盤石とは言い切れない、中国国内での人件費の高騰やスマホの成長の鈍化と新規商品の不透明性など、様々な不安定要素が、顕在化しつつあるのも、事実である。実に、『国外への技術の流出を阻止する』などというお題目は、圧倒的な、買収金額の前には、何の意味がないことを、今般の交渉は、皮肉っぽく、考えさせられてしまう。それなら、何が何でも、いくら金を積んででも、そうするべきではないかと思うし、尤も、その反面で、ホンマかいな?という懐疑心が、心の底にないわけではない。そんな産業再生機構へ国家官僚が、自分の責任と命を懸けた様な決断をするわけがないだろうに、、、、、、とも、思ってしまうのは、困ったものである。今日、後藤新平のような、そんな骨太の官僚などは、いるのであろうか?可笑しなことに、散々、高付加価値を追求してきたブランド側も、実際、これまで、その歴史的な発展を辿ってみれば、ナショナルでも、初めは、電灯のソケットや、自転車のランプの電池から、或いは、オランダのフィリップスから、技術を買いまくって、研究したのであるから、鴻海のことをとやかく言う立場にないのも、事実であるが、日本人というモノは、いつまでたっても、やる側から、『やられる側』にまわってしまったことに、気が付くのも遅いモノである。実に、別の意味からすれば日本人には、よいチャンスなのかも知れない。どうみても、おぼこい、のほほんとしたシャープの経営者の面構えと、山東省出身の創業者とでは、既に、勝負は、何年も前から、ついていたのかも知れない。それを日本人は、訳の分からぬ、『技術の海外流出の阻止』などという民族主義的な、感情的な、情緒に訴えるところから、始めては、既に、この時点で、官僚は、負けてしまっているのかも知れない。堪らないのは、それでも、そこで、働く労働者であり、その家族であることは間違いない。残念乍ら、いつも、日本には、そういう『メニュー』が、初めから、用意されていないし、経営者は、用意することをしない。郭台銘(テリー・ゴウ= Terry Gou)は、将来に向けてのそんな準備は、しているのであろうか?気に掛かるところである。

 


老犬・老猫の介護:

2016年02月04日 | 動物・ペット

老犬・老猫の介護:

何でも、最近では、ペットの介護が、親や兄弟などの介護よりも、話題になっているらしい。もっとも、かく言う私も、個人的には、両親の介護を、(もっとも、如何にも、自分が手を患わせたかの如き物言いであるが、実際には、女房殿が、その大半を担ったモノである。)足かけ、3年+4年の間、その間、介護保険が実施されたお陰で、随分と、助かったモノであるが、それでも、肉体的、精神的に、介護施設に、預けた訳ではなかったから、自宅で、介護の末、最期は、病院付属の施設で看取ったものである。そんなことあってか、我が老犬の場合には、私が、主として、その晩年には、なるべくすべての面倒をみるという約束で、一生懸命、介護にあたったモノである。随分と、その間、色々と、人生の終末医療に関して、我が愛犬から、学ばせてもらったモノである。口がきけなくても、我が愛犬から、その命を如何に全うするかという重い課題を、人生の教訓として、学ばせて貰ったことは、大変よい勉強であった。確かに、一人暮らしの老人であれば、そのペットの行く末は、とても、心配であろうし、又、人によっては、自分の老後のことよりも、ペットの老後のことが心配になってしまうと謂う逆転現象が、分からなくもない。散歩にも、一緒に行けず、面倒も、みられなくなると云う心配は、切実なモノであろう。災害によって、やむなく、ペットを手放さざるをえなくなったり、自分が年取ることで、手放さざるをえなくなるとか、事情は、様々ではあろうが、誠に、考えさせられてしまう。我が愛犬の場合には、元々、殺処分をされるところを三ヶ月の子犬で身受けして来たもので、何事も、最初から、決めこととして、自然の天命に任せるという大方針の下、18歳4ヶ月という誠に、長寿を全うしたモノであり、死に際も、誠に、私には、勉強になりました。亡くなる前、2年くらい前から、お漏らしと夜泣きが激しくなってきたので、オムツを当てて、庭先から、玄関内へと移して、家族みんなと一緒に、暮らすことになり、最期には、私の書斎で、一日中、一緒に、暮らし、最期には、私が、隣の部屋で、夜鳴きと徘徊に、対応したモノである。事前に、ネットなどで、老犬の異変を検索して、学習していたから、特に、驚くことは無かったし、覚悟もしていたから、冷静に対処できたが、それでも、目が見えなくなり、昼間から、居眠りを始めて、昼夜の違いが分からず、夜鳴きするようになると、流石に、夜中でも、起きてきて、安心するように、身体や顔を撫でてやると、一安心して、又、眠りに入るが、それも、数時間後には、今度は、オムツが濡れてびっしょりで、気持ちが悪いのか、オムツ替えという繰り返しである。まるで、赤ん坊であり、年寄りそのものである。間違いなく、自分も、きっと、いずれは、こうなるのであろうなと思い描きながら、身体を撫でながら眠い目を擦りながら、介護したモノである。晩年の夏には、一緒に、隣に、添い寝しながら、大丈夫、安心して、寝て良いから、、、、、、と身体を撫でて、安心させたモノである。動物の看病というモノは、犬や猫に限らず、考えてみれば、子供の時から、カナリア、ジュウシマツ、インコ、金魚、アメリカザリガニ、カブト虫とか、想い出せば切りが無い。その死を様々な形で、体験して、更には、両親の死を、経て、今、愛犬の介護から、看取りへ、そして、やがて、間違いなくやってくる、自分の被介護・死へと繋がって行くのであろう。そう考えると、実に、興味深いモノであり、又、反面、おおいに、考えさせられるモノがある。

 


徘徊防止責任は、どこまで問われるのか?:

2016年02月03日 | 健康 医療

徘徊防止責任は、どこまで問われるのか?:

徘徊によって、鉄道死亡事故を起こしてしまった夫の徘徊防止責任を、その事故の損害賠償責任を、老々介護の老妻にどこまで、その責任を問えるのであろうか?何とも、悩ましい議論である。そう言えば、我が母も、痴呆症になりかかった頃には、足腰が弱ったからと云っては、家の周りを手押し車を押しながら、グルグルと、一日に何回も歩き回っていたことを想い起こす。健常者と認知症患者との共生を目指そうとする社会的な目標と、一方で、介護医療金額を自宅介護で、抑制しようとする政府の思惑とでは、如何にも、その着地点が、見えずらいことも、事実であろう。それでは、老々介護ではなくて、もっと、若かったら、それが、息子やその嫁だったりしたら、責任義務があると云う事にでもなるのであろうか?これから、ますます、こういう事件が多発してくる可能性があろう。認知症に伴う様々な事件とか、認知症に起因する問題や、それらに伴う損害賠償の責任範囲は、何処までとされるのであろうか?そんな心配よりも、今度は、こっちの方が、加害者になってしまうかも知れないし、困ったことである。介護する方も、介護される方も、どんなスタンスで、この問題を考えたら良いのであろうか?共生を目指すならば、そこに、存在する損害賠償というリスクも、何らかの形で、同時に、背負う覚悟を、考えなければならないのであろうか?どういう法律的な判断が示されるのであろうか?

 


Dynabook は生き残れるのか?:

2016年02月02日 | 社会戯評

Dynabook は生き残れるのか?:

1980年代初め頃、米国に、赴任した頃に、初めて、現地で、canonのワープロを、大枚、2000ドルだったと思うが、身分不相応に、購入したことを想い出す。その当時は、まだ、FAXですら、米国では、事務所に無かった時代で、しかも、このワープロには、ほとんど、メモリーらしい、保存メモリーの容量が小さかったから、いつも、タイプしては、紙のロールにプリント・アウトしては、保存しなければならなかった。一番悲惨だったのが、長文をタイプしているときに、たまたま、電話でもあったりすると、一寸、目を離した隙に、インプットした文章が、すべて、パーになって消失してしまい、全く、困ったものであった。それでも、このワープロの購入は、私にとっては、次のWindows95やE-mailへと繋がるPCへの序曲であったことを懐かしく想い起こす。その点、90年代には、既に、IBMでは無くて、国産PCを愛用すべく、NECでも、IBMでもなく、東芝のPCを使い始め、これが、後のDynabook ラップ・トップへと繋がっていくことになる。その意味からすれば、この頃が、今日、東芝の不正経理で、一世を風靡している米国東芝社長出身の西田が、一番輝いていた頃だったのであろうか?何とも、今日、富士通・ソニーのPC部門との3社統合のなかで、極だって、3社統合・PC部門の分離・分割への緊急性が、一番、同社が、望まれているというのも、誠に、往事を振り返ると、皮肉な結果である。東芝の青梅詣でと呼ばれた当時のビル・ゲイツや、幻のIBM買収提案の話など、全く、今日では、千夜一夜物語ではないが、誠に、遠い昔の夢物語だったのであろうか?あのマイクロソフト社も、当時は、MSNのプロバイダー事業を、いち早く立ち上げたので、これを利用していたら、その後、何年か後には、その事業事体を切り離し、最期には、サービスの停止と事業の切り離しを決定したことも、まだ、記憶に新しい。誠に、『カスター・フレンドリー』等という言葉は、一体全体、企業利益確保の前には、どのような価値があるのであろうか?私には、もはや、『カンパニー・フレンドリー』という意味にしか、聞こえてこないのは、どうしたものであろうか?既に、Windows10のソフト準備を促すPCからのメッセージが、眼に入ってくるが、一体、パソコン事業は、どうなってしまうのであろうか?そして、日の丸コンピューター、東芝Dynabookは、生き残れるのであろうか?長本人の東芝のみならず、我々素人ユーザーには、実に、悩ましい選択の瞬間であろう。

 

 


飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

2016年02月01日 | 動物・ペット

飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

何でも、最近、犬・猫を、飼っている人の中で、散歩が、余り、必要では無いという理由で、犬よりも、猫の方を飼うことを、優先する傾向が目立ち初め、その飼育頭数が、逆転間近であるらしい。自分の個人的な体験からして、老犬は、初めから、老犬ではなく、子犬の時から、毎日、朝・晩、或いは、朝・昼・晩の散歩は、欠かさずに、一緒に、散歩に出掛け、こちらも、その恩恵とは言っては何であるが、お陰様で、強制的に、運動をする機会を与えられ、もちつ、もたれつで、お互いに、ストレスの解消をも兼ねて、一挙両得であった訳である。しかしながら、そういうことも、徐々に、お互いに、歳を重ねるに従って、自分も、そうであるが、犬の方だって、同じように、歳をとってゆく訳で、とりわけ、相手の方は、人間さまの6倍ものスピードで、どんどん歳をとって行くのである。そして、終いには、人間さまも、散歩が億劫になり始めると、御犬さまの介護が、待ち受けているのが、昨今の厳しい事情なのであるのかも知れない。成る程、そうなると、動物病院への出費も、自分の医療費用よりも、ずっと、嵩んでくるし、食費だって、老犬食は、若干、高めになってくるし、、、、、、という訳で、犬よりも、猫の方が、食費も少なく、食べる量も少ないし、何よりも、自分で、この寒い最中に、一々、散歩や風呂場で、シャンプーをしてやる必要も無いし、、、、、ということになってしまったのであろうか?誠に、犬の犬種も、昔は、番犬で、外で飼っていたのが、当たり前だったのに、毛足の短い、抜け毛の少ない、しかも、大型犬ではなくて、室内で大人しく、あまり、キャンキャン騒がない室内犬へと人気が移ってゆき、そして、とうとう、それよりも、究極の選択である、諸々の諸般の事情を勘案してみると、総合的に、犬より、猫の方が、人間さまには、問題が多くなく、都合がおおいに宜しいということになってしまったのであろうか?何とも、世の中、世知辛いモノなのであろうか?

 


飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

2016年02月01日 | 動物・ペット

飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

何でも、最近、犬・猫を、飼っている人の中で、散歩が、余り、必要では無いという理由で、犬よりも、猫の方を飼うことを、優先する傾向が目立ち初め、その飼育頭数が、逆転間近であるらしい。自分の個人的な体験からして、老犬は、初めから、老犬ではなく、子犬の時から、毎日、朝・晩、或いは、朝・昼・晩の散歩は、欠かさずに、一緒に、散歩に出掛け、こちらも、その恩恵とは言っては何であるが、お陰様で、強制的に、運動をする機会を与えられ、もちつ、もたれつで、お互いに、ストレスの解消をも兼ねて、一挙両得であった訳である。しかしながら、そういうことも、徐々に、お互いに、歳を重ねるに従って、自分も、そうであるが、犬の方だって、同じように、歳をとってゆく訳で、とりわけ、相手の方は、人間さまの6倍ものスピードで、どんどん歳をとって行くのである。そして、終いには、人間さまも、散歩が億劫になり始めると、御犬さまの介護が、待ち受けているのが、昨今の厳しい事情なのであるのかも知れない。成る程、そうなると、動物病院への出費も、自分の医療費用よりも、ずっと、嵩んでくるし、食費だって、老犬食は、若干、高めになってくるし、、、、、、という訳で、犬よりも、猫の方が、食費も少なく、食べる量も少ないし、何よりも、自分で、この寒い最中に、一々、散歩や風呂場で、シャンプーをしてやる必要も無いし、、、、、ということになってしまったのであろうか?誠に、犬の犬種も、昔は、番犬で、外で飼っていたのが、当たり前だったのに、毛足の短い、抜け毛の少ない、しかも、大型犬ではなくて、室内で大人しく、あまり、キャンキャン騒がない室内犬へと人気が移ってゆき、そして、とうとう、それよりも、究極の選択である、諸々の諸般の事情を勘案してみると、総合的に、犬より、猫の方が、人間さまには、問題が多くなく、都合がおおいに宜しいということになってしまったのであろうか?何とも、世の中、世知辛いモノなのであろうか?