驚くべきことが起こっている。山崎貴監督作『ゴジラ−1.0』が北米公開され、字幕付きの外国語映画としては歴代2位のオープニング興収を記録。アメリカで公開された日本映画としては歴代1位の大ヒットを飛ばし、12月11日時点で総興収は2500万ドルを超えているのだ。さらに注目すべきは批評家からも大絶賛を集めていることで、年末に発表される各批評家賞では視覚効果賞のみならず、外国語映画賞でも本作の名前が挙げられ、アカデミー賞の視覚効果賞1次先行も突破している。近年、“モンスターヴァース”として展開されてきたハリウッド版ゴジラシリーズでは再現し得ない、製作費1500万ドルのセンス・オブ・ワンダーに全米が脱帽している格好なのだ。
最も重要なことは本作の北米配給を東宝自らが行っていることだろう。コンテンツホルダーに正しく利益が配分される様は、2023年上半期に任天堂自らが『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』をヒットさせたように、ハリウッドが弱体化した今年を象徴するトピックである。
最も重要なことは本作の北米配給を東宝自らが行っていることだろう。コンテンツホルダーに正しく利益が配分される様は、2023年上半期に任天堂自らが『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』をヒットさせたように、ハリウッドが弱体化した今年を象徴するトピックである。
ここ日本では山崎のネームバリュー故かネガティブな評価も多く、確かに手放しでは褒められない部分もあるにはある。VFXマンでもある山崎のフィルモグラフィを見渡せば、大ヒット漫画やベストセラー小説から、ドラえもん、ドラゴンクエストといった人気IPに頼ったものまで実に節操がなく、『ゴジラ−1.0』も巻頭早々、ろくなタメもなく出トチリのような出現をするゴジラの姿に“借り物感”はつきまとう。
しかし、ハリウッド製“モンスターヴァース”が怪獣プロレスであるのに対し、山崎の単独脚本としてクレジットされている本作の肝は人間ドラマにこそある。終戦直後、特攻に怖気づいた主人公敷島(神木隆之介)は機体の不調を偽り、整備基地へ帰還。その夜、ゴジラの襲撃によって整備兵たちが皆殺しにされるのを、怯え立ちすくみ見るばかりだった。やがて終戦を迎え、帰国。焼け野原の東京に両親は既に亡く、敷島には生き残ってしまった罪悪感だけがつきまとう。ここから日本が復興へと向かう数年間をスケッチした筆致には、戦後多くの人々の口述によって伝えられてきた人生の重みと真実があり、中でも夫婦同然に一つ屋根の下で暮らす敷島と典子(浜辺美波)が床を分けているディテールには抉られるような衝撃があった。戦争のPTSDが正確に検証されてこなかった日本だが、この痛みは幾度も自国民を戦地へと送り、当人のみならずその家族までもが苦しむ歴史を繰り返してきたアメリカの観客に、身近な描写として受け容れられたのではないだろうか。神木の誠意ある熱演には観る者の胸を強く打つものがある(おっと、ゴジラよりも強烈な安藤サクラも忘れてはならない)。
ゴジラはそんな戦争の傷痕、戦争という歴史の負債(=マイナス)として具現化し、愚かにも過ちを忘れ、今なお殺戮を繰り返す人類の前に現れては破壊の限りを尽くし、ついには東京にもキノコ雲を出現させて、黒い雨を降らせるのである。2023年、原爆の父と呼ばれたオッペンハイマー博士の伝記映画『オッペンハイマー』が異例の大ヒットを飛ばした全米市場において、このヴィジュアルインパクトが放たれた意義は非常に大きい。
映画は中盤の銀座でのカタストロフを経て、ゴジラ撃退という定番プロットに入るとこだわりの薄い山崎のストーリーテリングではやや物足りないが、「戦争責任を問う作劇がない」とする批評は本作を“正しさ”だけで測り過ぎだろう。かつて特攻をお涙頂戴の愛国映画に仕立てた山崎が、ここでは政治の無策無能を事ある毎に揶揄し、「政治が頼りにならないなら」と帰還兵たちが勝手連で対ゴジラ作戦に挑む“なしくずし”とも言える国民性、メンタリティを描こうとしている。それは彼の地の虐殺を指をくわえて見るばかりのアメリカの観客により響いたのかもしれない。北米での大ヒットは『ゴジラ−1.0』という映画に、新たな一面を加えた。2023年の記憶されるべきモーメントである。
『ゴジラ−1.0』23・日
監督 山崎貴
出演 神木隆之介、浜辺美波、山田裕貴、田中美央、遠藤雄弥、吉岡秀隆、安藤サクラ、佐々木蔵之介
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