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山高きを厭わず 海深きを厭わない

信長所縁の地を行く旅 Day3前編 小谷城

2016年10月03日 | 信長公雑記
この旅三日目。
福井駅から早朝の電車に乗り込み、滋賀県の河毛駅へ向かった。
目的は、信長の天下布武の計画を狂わせた男、浅井長政の居城で、その最期の地となった『小谷城』。
それと、信長が小谷城攻略の為に小谷城の目の前の山に築いた城『虎御前山城』。

8時21分、河毛駅に到着。
河毛駅は駅舎内がコミュニティハウスになっており、そこはお土産屋兼観光案内所の様な役目を果している。
ここでレンタルサイクル(500円)を借り、小谷城へのアクセスと登山ルートを教えてもらった。
(対応してくれたのは60歳以上の男性だったと記憶。非常に丁寧で、細やかな説明をして頂いた)

この後、安土に行き安土城を見る予定なので12時位には河毛駅に戻るつもりだ。
となると、3時間ほどで見て回らなければ成らない。
教えてもらったルートだと、小谷城は所要時間1時間。
しかしこの旅は、ただ小谷山を登るのでは無く、史跡を見て周り、文献と照らし合わせたり、信長公記をその場で読んで落城の様子を想像したりするのが目的なので、そういった事に時間が要する。
だから時間は足で稼ぐ必要がある。
兎に角、急ぐ事にする。

~ 小谷城へ ~

ペダルをグングン漕いで小谷城資料館に至る。
ここに自転車を駐輪しておいて、服を登山用の物に着替える(デニムのパンツ&シャツだったので)
でっかいザックはデポして、スタッフバック(防水の巾着袋)にカメラとタオルと飲み物だけを入れ『金吾丸』方面からの登山口へと向かった。
虎御前山から撮影した小谷山

小谷城絵。 図上の写真と比べると分かり易い

最初は舗装された道路を登り、その後、未舗装の山道を登る事になる。
かなり急な登りだったので、木の杖(登山口にあった)を握る手に力が入ったが、何の事はなく、すぐに平場に出てこれ以降急な登りは無かった。
振り返れば当時も信仰を集めた『竹生島』が琵琶湖に浮んで見えた。(左下の写真)

馬洗い池を過ぎると『首据石』なるものがある。(右上の写真)
浅井亮政(長政の祖父)の代『今井秀信』を誅した亮政はその首をこの石の上に晒したそうな。


さらに登って行くと、右手の脇に狭い郭の入り口がある。そこが浅井長政の生害の地『赤尾屋敷跡だ』。

赤尾屋敷跡とその最奥にある『浅井長政公自刃の地』を示す石碑

天正元年(元亀四年)八月二六日、越前の朝倉氏を滅ぼした織田勢が虎御前山へ帰陣する。
翌二十七日、織田勢は小谷城への総攻撃を開始する。
二十七日の夜、羽柴秀吉の軍勢に長政の拠る本丸と長政の父久政の拠る小丸の間にある京極丸を占領され、分断される。
これにより本丸と小丸の連携は断たれ、追い詰められた久政は自害。
残された本丸の長政は、お市と三人の娘を信長の下に届けるとともに嫡男万福丸を場外に逃れさせた。
山頂側から(大嶽・小丸・京極丸)と山下からの攻撃に曝された長政は、これが最後と討って出たのか、はたまた本丸を支えきれずに逃れたのか、本丸下の赤尾屋敷へと入り、ここで自害したと伝わる。


私がこの赤尾屋敷跡に足を踏み入れた時、印象に残る出来事があった。
入り口から最奥の『浅井長政自刃の地』を示す石碑へと歩を進める間、一陣の風が赤尾屋敷跡を吹き抜けるとともに、桜の花びらがはらはらと舞い落ちてきたのだ。
桜吹雪の中の石碑は、あまりにも詩情的な風景で、29歳で散った長政の人生そものの様に感じ、もう一度その現象をカメラに収めようと風を待ったのだが待っている間、風が吹く事も桜の花が舞う事も無かった。

一旦、桜の馬場へ戻り、黒金門跡を通って本丸跡へと登る。

                          黒金門跡の石段と石垣


黒金門跡を通り抜けるとそこは本丸跡。

南側から大広間に入り北側(本丸・鐘丸)を映した写真。
写真奥(桜の下)に鐘丸の石垣が見える。
説明文
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北二段の構造で、北側の上段に櫓を付属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造を持っていた。
北側の大堀切で、小谷城主要部は南北に分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵が存在した事がわかっている。
大広間南側には黒金門があった。

『おそらく長政や、お市とその子供達はここで暮らしていたのだろう』と思うと感慨深いものがある。
この本丸跡には石垣は言うに及ばず、礎石に使われたと思われる石なども散在していて戦国期の古城跡の姿を今に残している。
大広間から見た鐘丸の石垣

本丸(長政)と京極丸(久政)の間にある京極丸跡にでる。

上に記した様に、ここ京極丸を織田勢(秀吉)に占領された事により、長政の本丸と久政の小丸は分断され、浅井氏と小谷城は最後の時を迎える事となったのだ。
因みに、秀吉の兵が攻め寄せると、京極丸を護っていた大野木土佐らの武者は降伏したのだが、小谷城落城後、『落城際の謀反が見苦しい』として信長に処刑されている。

さらに進むと浅井久政最期の地『小丸』跡。

天正元年八月二十七日、鶴松大夫の介錯により、久政はここで腹を切ってその生涯を終えた。
久政の介錯をしたのは浅井福寿庵とする説もあるが、私は信長公記の記す通り、鶴松大夫だったと思っている。
何故ならば森本鶴松大夫とは舞楽師であり、舞楽師とは『衆道』(男色・同性愛)の相手をする存在だからである。
これを久政が寵愛しており、最後時まで共に居たと言う事は『そういう関係』だからである。

因みにこの時代、『男色』は武士の嗜みの一つと言って良く、秘め事でもなく、主君と家臣の間の男色などは特に大変名誉な事で、信長の男色の相手であった前田利家などはそれを自慢している。
また、この絆は大変強い物で、男色関係の二人が死を共にする事例が歴史上多く見られる一方で、男色間の関係もつれから起きた事件も日本史上に珍しい事ではない。
武士にとって、特に戦場で共に命を賭け助けあう戦国期の武士にとっては、男女間の絆より男色衆道の関の絆は大変強い物であったのだ。


さてこの『森本鶴松大夫』も久政の介錯をした後、自らも久政の後を追い、この場所で自害したと信長公記に記されている。


小丸跡を通り、その奥の『山王丸』(標高400m)にでる。
(山王社を祭っていたので山王丸)
山王丸からは小谷山最高所で朝倉の兵が拠っていた大嶽(おおづく)砦あとを見上げることが出来る。
山王丸跡から見る大嶽

山王丸の先、少し下ったところ『六坊』に至る。
(久政の時代、領国内にあった六つの有力寺院の出張所があった場所)
大嶽へ行く場合、ここから登るのだが(所要1時間)、今回は時間の関係上断念した。

しかし、『大嶽』はDay2で先に記したとおり、朝倉氏と一乗谷、浅井氏と小谷の滅亡の切っ掛けの場所であり、天正元年八月十二日の嵐の夜中、信長自ら馬回り衆を率いてこの大嶽を奇襲した地でもあり、『その時、信長が間違い無くそこに居た場所』である。
『近いうちに絶対行く』そう心に決めて大嶽と六坊の間の谷『清水谷』から下山した。
(清水谷は家臣達の館が多くあったとされる場所)


木の杖を肩に担ぎ、その杖にスタッフバックを掛ける、そんなまるで飛脚の様な格好で清水谷を駆け下りた。
下山すると麓の『小谷城戦国歴史資料館』が開館しているので、300円を払い入館。
資料館は小さいし、大した物も展示しておらず・・・
『小谷城はまた訪れるつもりだが、ここはもういいかな?』って感想だ。

ふたたび自転車に乗って、信長が小谷城攻めの為に築いた城跡『虎御前山』へと向かった。

~ 虎御前山 ~

北陸自動車道の下を潜ったところにある登山口『伝柴田勝家陣地跡』から登る。
 左の写真山が『虎御前山』
ここも少し登ったところでザックをデポする。
因みにこの日、小谷城・虎御前山 双方でも人に合う事は無かった。

『伝柴田勝家陣地跡』の辺りからは『小谷城』が良く望まれた。(下の写真右)

昔の中国の王が、征服しようとする国を、台を築いて望み見る事で『呪』をかける、そんな姿から出来たと云う字『望』由来の通り、信長はここ虎御前山から小谷城を『望』み見ていたのだろう。

『伝柴田勝家陣跡』を過ぎて、さらに登ると『伝羽柴秀吉陣跡』に至る。
この旅に持参した本『信長の城』の著者千田喜博が『最も複雑な構造・極めて厳重な防御』とその本に記してあるとおり、土塁と古墳を利用した『伝羽柴秀吉陣跡』は、私の目には『土で出来たサザエの貝殻』の様に見えた。

更に進むと、虎御前山の山頂部にある『伝織田信長陣跡』へ至る。

信長の陣であり本丸と言えるこの場所は、やはり『最高所』にある。
信長の居城であった、小牧山城・岐阜城・安土城と同じだ。
(浅井氏の小谷城本丸は最高所ではない事と比べると面白い)
因みに、現在、小谷山虎御前山双方とも木々が生い茂っているが、当時は高い樹木の無い禿げ山だったと想像できる。当時は、煮炊きは言うに及ばず、建築やその他にも材木が必要だったので、日本の山は禿山ばかりだったのだ。明治期の写真を見ると禿山が多いのが分かる。
現在、日本の山々(特に平野部に近い)に木々が生い茂っているのは、その多くが植林に拠るものだ。
(おかげで花粉症に悩まされる


この虎御前山の登り、小谷城を見て、実感した事がある。
それは、小谷城と虎御前山のあまりの間近さが示す当時の情勢だ。

信長が虎御前山を城塞化した頃の織田と、対する反織田勢力の情勢は、反織田の戦略的にも圧倒的優勢にある。(すでに叡山は焼かれた後だが)
信長の虎御前山築城(もしくは陣地構築)は、元亀三年七月二十七日で、武田信玄と徳川家康による三方ヶ原の戦いが、同年の十二月である事を思えば、当時の情勢が反織田優勢である事は歴史好きならお解かりだろう。
しかし、浅井の居城小谷の目の前(城内の様子が見て取れ、声すら届く)に陣城が築かれた事実は、我々が思う程織田の劣勢ではなかったのかも知れないと、私は感じたのだ。
この時、朝倉義景自ら15000ほどの軍勢を率いて小谷に援軍に来ていたのだが、虎御前山築城を阻止出来なかった事もそれを物語っている。

もう一つは、『虎御前山城』が、浅井氏とその配下の諸勢力に与えた影響だ・・・。
浅井の居城の目の前に付け城を築かれた事実は『浅井は、もう仕舞』と実感させる情景だったのではないだろうか?。
実際、八月に下った朝倉の臣前波吉継親子を始め、この頃から信長に下る浅井朝倉の家臣達が多くなる。
前波吉継親子の出頭後、虎御前山の陣城は竣工する。

信長公記は虎御前山城を『この城の設計は見事なもので、山の景観を生かした仕上がりに誰もが、これ程のものは見た事が無いと目を見張って驚いた』
『座敷から北を眺めれば浅井朝倉勢が高山の大嶽に登って篭城し、堅固に守備している様子が見える』
『琵琶湖・比叡山・石山寺などを望む景観その景観の素晴らしさ』を記されている。
また、『虎御前山から宮部村まで幅三間(約6m)の道路を高く築き、敵方に向かった方(小谷城)の道には高さ一丈(約3m)の築地を五十町(5.5km)にわたって築かせた』とある。
そりゃあ、1500の朝倉勢も躊躇するだろうし、小谷城の目前に築かれた見事な虎御前山城を目にすれば、城に篭る浅井勢もその周りの諸勢力も戦意が萎えた事は容易に想像できた。
(これは信長が良くやる手ではあるが)
やはり、こういった事も、書物やTVで見ただけでは中々感じたり気が付くことが出来ず、その場に足を運んで虎御前山と小谷山の近さを実感した者だけが、出来る事なのだと、改めて思った事だった。

虎御前山には、柴田・羽柴・信長の陣跡だけではなく、堀秀政や滝川一益の陣跡もあるのだが今回は時間が無く、残念ながら山を下りて河毛駅へと戻る事にした。


河毛駅に着くと、駅舎の扉を開け『ああ良かった、間に合った~』と言いながらコミュニティハウスの男性が迎えてくれた。
どうやらもうすぐ安土方面へ行く電車が来るらしい。(一時間に一本しか電車が来ないらのだそうだ)
私としては次の電車でも構わないので気にしていなかったのだが、朝の説明と言い、この男性は『気の好い人』だなと感じた瞬間だった。
駅舎に入ると、見知らぬもう一人の男性50~60歳台?)に『ああ、この格好なら登れるわ~』と言われる。(北アルプスへ行く格好なもので)
どうやら、12時21分発の電車までの3時間で、小谷城と虎御前山を見て回り帰って来れるのか心配していてくれた様だ。
その直後、電車がホームに入ってくると、その見知らぬ男性に『さあさあ、この電車だよ』と導かれるままに車両に乗せられた。
俺としては、コミュニティハウスの男性に、一乗谷や虎御前山の何処を回ったか、その感想や、感謝の言葉を言いたかったのだが、それを伝えられなかったのが今でも残念で、心残りだ。

電車に乗り込むと俺を列車に導いた男性が、この旅で何処を回ったのか等、色々と聞いてくる。
俺は、自分が信長が好きであり、『信長公記』と『ルイス・フロイスの日本史』片手に旅をしている事。岐阜から一乗谷を見て、これから安土、そのあとは愛知を見る予定だと答える。
『信長を知るには、信長公記は一番正確な資料だもんね』と男性。
(『おっ?わかってるなこの人』と心の中で思う俺。)
一乗谷遺跡の素晴らしさと、その土地を買い上げそれを残し、そこに足を踏み入れて見学できる様にした福井と一乗谷の人の凄さを話すと、その男性は
『あそこは大昔から文化度が高いんだよね、この辺とは各が違うよ』と言われる。
滋賀県は京の都に近く、文化も歴史もある土地だと認識していた俺にとって、その土地の人がそれを否定する事には驚いた。
(まあ、言いたい事はわかる気がする)

さて、こんな車中の会話で、この男性の日本史に詳しい事を知ったので『御詳しいですね』と俺が言うと『ボランティアでガイドしてるもん』と男性。
『ああ、なるほど、恐らくあのコミュニティーハウスの人の同僚で、俺が河毛駅に帰ってくるまで俺の事を話してたんだなぁ』と心の中で納得。
男性は長浜駅で電車を下りたが(もしかして長浜でガイド?)、その間あれやこれや歴史の話をしていた。

また小谷城へ訪れた時には、河毛駅で出会った御二人に再会したいものだと思う。


                                   後編に続く

信長所縁の地を行く旅 一乗谷のおまけ(夏の一乗谷)

2016年09月23日 | 信長公雑記
『信長所縁の地を行く旅』は、2016年4月上旬に行った旅の記事ですが・・・。
じつは、この夏にも一乗谷へ行って来てしまいました。
あまりに感動したもので、リピーターって奴です。
実は、じつは、夏には北アルプスにも行っております・・・。
放置しすぎてブログ更新がメンドクサクなっちゃっているのですが、夏の一乗谷も素晴らしかったので、ここに記して置こうと思います。


福井駅に到着したのは16時くらいだったと記憶。
その日、8月21日は、ちょうど『越前朝倉万灯夜』の日でした。
なので福井駅から出ている無料シャトルバスで一乗谷へ!

因みに『越前朝倉万灯夜』とは、約15000個のキャンドルで朝倉氏遺跡(朝倉館跡)をライトアップするイベントで、この日は演歌歌手二~三名(大江裕さん)や、二胡奏者の女性(名前を忘れた)と雅楽の演奏も行われていました。
ライトアップのメインは朝倉館跡の礎石の上にキャンドルを乗せたものでした。
写真奥の門と土塁の内が朝倉館。

越前朝倉万灯夜のMovie


個人的には、二胡の演奏も良かったが、雅楽の調べは蝋燭や松明の灯りと良い調和がとれていて幻想的でした。
朝倉一門への良い供養にもなったのではと思っています。

こんな良い御祭りなのに、客層に10代~20台の人が少ない事が少し気になりましたね・・・。
まあ、あまり人が増えてワイワイガヤガヤしてもアレなので、コレはこれで良いのかな?

この日は福井駅側のホテルルートインに宿泊。(日曜なせいか、店が閉まるの早くて驚いた~)
翌日も朝から一乗谷を見て回り家路に着きました。(もう一日どこかを見て回る心算でしたが台風が接近していたので…)


来年も『越前朝倉万灯夜』を見に行こうかな?

信長所縁の地を行く旅 Day2 一乗谷

2016年09月21日 | 信長公雑記
3時30分頃に起床。
冷蔵庫から、良く冷えた目覚まし時計とアイスティーを取り出して、おにぎりの朝食をとる。

シャワーを浴びたら出発。

今日は以前から行きたい!行きたい!と思っていた『一乗谷』へ向かいます。
(ほんと不便なんだよねここ)

ホテルを出た直後、昨晩買っておいたビニール傘の骨が強風によって折られる・・・。
『まぁ、今日一日もてば良いよ・・・』と割り切る。

5時23分発の東海道本線で米原へ、そこから北陸本戦で敦賀へ。
大垣から敦賀へ向かう間には、関ヶ原・佐和山城・長浜城・小谷城など戦国絵巻の舞台になった場所がゴロゴロしている。
(と言うか、滋賀県自体が戦略上重要な土地なので古戦場やら古城が多いいのだが)
なので、山間を進む車中では、信長公記の小谷城攻めから朝倉勢を追撃した織田勢の場面を読つつ、その情景を車窓の景色に当てはめ、想像して過ごす。

武具を捨て敦賀方面へ逃げる朝倉の兵達をおうのは、返り血を浴びた悪鬼の様な形相で追う織田の武者達、その腰には首が一つ二つぶら下っている。
どうせ首の無い屍を野に晒すなら、名の残る死に方をと立ち止まり又、引き返し、名乗りを上げて織田方の武者を迎え撃つ朝倉の武者も居ただろう。
だがそんな者も織田の武者数人が飛びついて組み敷き、瞬く間に首と胴が異になる最後を遂げたのだろう。

刀根山や余呉の辺りの美しい自然の風景に、そんな約400年前の壮絶な景色を重ねる。

敦賀で乗り換えて越前花堂へ、九頭竜線が来るまでの待ち時間『なんと80分!』。
なので、この駅の駅舎でレインウェアを着込む。
九頭竜線に乗り込み一乗谷駅で下車。
駅舎すら無い駅に降りるのは、ここ一乗谷が初めての経験だ。
九頭竜線のホームにある小屋の様な待合室で電車を待ち、やっと来た電車に乗り込む。

9時25分一乗谷駅に到着。
先ずは『一乗谷朝倉氏遺跡資料館』へと向かう。
ここは一乗谷の発掘調査により出土した品々の展示と一乗谷往時の文化を紹介している所なのだが、その内容の濃さに驚いた。
〇〇城跡などの資料館は大抵、時代の異なる物が展示してあったり(戦国時代の城跡なのに江戸後期の刀剣や甲冑など)、興醒めする事が多いのだが、流石一乗谷!
一乗谷由来の出土品の多さに驚いたし、一乗谷と朝倉氏、いや越前の文化度の高さを示す内容の濃さに驚いた。
特に面白かったのは、一乗谷の町と人々を映像化した『一乗谷城下町図屏風』で、屏風の中の人々が動いている様や、たまに表示されるクイズで、個人的には2時間は見ていられるほどだった。
こうして雅な一乗谷の往事を心に焼き付けたら、現代の一乗谷を見に行く。

写真は下城戸の土塁と石垣。門や木戸は残って居ないが、巨大な土塁と水掘りが残っており、扉が在ったであろう入り口は食い違い虎口になっている。(DAY1の岐阜の虎口と同じ)

それにしても驚くのは、この巨石群だ!
城郭の門など人目に付く場所には権威を示す為に巨石を用いる事は、安土桃山時代から常識になって行くが、その起源は信長だと思っていたのだが違ったのだろうか?
この石の大きさは安土城のそれよりも大きいと思われる物もあり、驚きだった。(安土は高石垣なので、より高度な技術と労力が必要だが)
しかし、この石は本当に朝倉氏時代の物なのだろうか??
朝倉氏滅亡から柴田勝家が北ノ庄に入る間の時期に積まれた物ではないのだろうか?(それとも近代か?)
その辺の説明が無かったので良くわからない。
兎も角、ここより先、下城戸と上城戸の間の山間の地が『一乗谷』である。
その広さは南北3km東西500m、面積は278ヘクタール(東京ドーム58個分)に及ぶ。

城戸を通り、一乗谷を一目見て驚いたのは、『これだけの土地を遺跡として残している事』だ。
この狭い日本で『貴重な戦国大名の城下町が、そのまま埋蔵されているから』と言ったところで、それを保存する自治体がほかにあるだろうか?
しかもその遺跡に足を踏み入れて見て触れるのだからまた凄い!
(貴重な遺跡や遺構のを破壊し、家やビルが建っている愛知や神奈川などと比べて欲しい)
後に知り合う小谷城のガイドの方が、一乗谷について言っておられた言葉
『あそこは大昔から文化度が高いから』『この辺とは格が違う』
に納得してしまった。
『目先の利益に流されず、貴重な物を後の時代に残そうと、伝えようとする姿勢』こそ文明や文化の高さを示す証しだとつくづく感じた。
鎌倉なんぞと比べるべくも無い、一乗谷こそ世界遺産に相応しい(世界遺産自体、金の臭いしかしないので、好きではないが)

下城戸跡を抜けて一乗谷遺跡の中に足を踏み入れると、その規模に圧倒される。

春の雨に濡れ、満開の桜に彩られる、かつて栄華を誇った一乗谷の遺跡・・・。
この物悲しい雰囲気が『兵どもの夢の跡』を強くイメージさせて・・・。

私は、一目で一乗谷に惚れ込んでしまった。
 ↓動画も撮影↓
一乗谷遺跡と蛙の鳴き声


一乗谷遺跡に足を踏み入れた時から聞こえて来た蛙の鳴き声がまた良い!!
『おお!?これ、もののけ姫の、コダマじゃん!』と叫び
『もののけ~達ちぃ~だけぇ~♪』と歌ってしまった。

神奈川では聞いたことが無い鳴き声なので調べたが、恐らくシュレーゲルアオガエルだと思う。

遺跡・雨・桜・蛙の鳴き声・・・素晴らしい雰囲気だった。

この地区は町人・職人・武家や寺院の遺跡が数多く残っていた。
(細かく記せば、礎石・土塁・井戸・側溝・庭園など)

遺跡に足を踏み入れて、あれやこれや見て廻り(これが出来るのも素晴らしい点)。
普通の人の数倍、いや、十倍位時間をかけて復原町並みに至る。
諏訪庭園から見た復元町並み。

復原町並みの中は一部の武家屋敷や商家が復原されている。
薄暗い建物の中の、のっぺらぼうなマネキンがちょっと怖いのは、ご愛嬌。
それと、着付け(お姫様&具足)をしてくれる建物の女性が、武井咲さん似の美人なのは覚えておきたい・・・
復原町並み周辺の復原模型

復原町並みの後は、一乗谷の主いや越前若狭二ヶ国の戦国大名朝倉義景の館跡へ。
朝倉館 湯殿庭園跡から撮影
館の前には犬追いの馬場があったそうで、館の後ろには朝倉義景プライベート空間が広がる。(これは信長岐阜城の館群と同様だ)
具体的には、朝倉義景の母の館と伝わる湯殿庭園跡、その並びには中の御殿跡や南陽時跡、義景の愛妾小少将の諏訪館庭園跡などが残る。
この背後の山は一乗谷城で、いわゆる詰の城だ。(緊急時に篭る城)

湯殿・南陽寺・諏訪の庭園跡は、その面影を未だ残していて、清原宣賢を初めとする貴族や文化人が移り住んだと云う一乗谷と朝倉氏の雅さの痕跡もまた、現代に伝えている。

ここ一乗谷へ来るまで私には、朝倉義景=凡庸な武将とのイメージしか無かった。
一乗谷へ足を運んだ今も、信長に勝つチャンスを幾度もふいにした決断力に乏しい武将とのイメージは拭えない。
しかし、この文化と繫栄の跡を目の当たりにすれば、朝倉孝景に比肩するとは言わないが、義景もまた文化や治世面に置いては優れた人物だったのかも知れないと思うようになった。
生まれて来る時代を間違った、織田と朝倉の因縁が無ければ、とも思うところだ。
まあ、信長と同時代に生まれた事が不運だったのかもしれない。

こんな事を思いながら義景の慰霊碑に手を合わせ、保存の為の募金箱に寸志を入れて一乗谷を後に。
今日の宿がある福井駅へと向かった。


始めて来た福井の町の印象は、道が広い!商店街が多い!

道が広いのは名古屋と通じたのか徳川親藩の城下町は道が広いのか?との疑問がでた。
また商店街が多いのは城下町の特徴(複合商業施設が少ない)で、百貨店だらけの町で買い物をしている私からすると、この雰囲気だけで異質に感じられるのだ。
そして、福井の町で一番驚いたのが、路面電車が走っている事だ!
(路面電車を生まれて初めてみたのだ)

ホテルにチェックインした後は町を2時間ほどブラブラ散歩し、『越前おろしそば』の『てんこもり』なる物をを食べた。
ずいぶんボリュームがあったので会計時に『食いでがありました』と言うと『三人前ですからね』との事。
後で分かったのだがこの店、フードファイター等が来る店なんだとか・・・ビックリ丼やたまげた丼を頼まなくて良かった・・・。

その後はホテルに帰って21時に就寝。


信長所縁の地を行く旅 Day1 岐阜城

2016年07月16日 | 信長公雑記
2016年4月の上旬から岐阜県・福井県・滋賀県・愛知県を3泊4日プラス一日で巡ってきました。

旅のお供は『信長公記』『日本史(ルイス・フロイス)』『信長の城』三冊の本と『青春18きっぷ』。
そう、資料を頼りに城跡や古戦場で往事を想像する。
そんな兵どもが夢の跡を巡る旅に出て来たのです。



山に行く時も旅に出る時も、限られた日数でどこを巡るかなど考える、そんな計画時は楽しのだが、出発前日から出発直前は行くのが面倒くさくなって・・・(荷物のパッキングと忙しさが原因か?)
でも、いざ玄関を一歩出た瞬間から体の中から『わくわく』溢れてくるのは、これも毎度の事。
そう、今回も同じだった。 笑

富士川駅辺りから見る「どーん」と、そびえる富士山の「ばかでかさ」に感動し、列車が西へすすむほど、少しずつ変わってゆく乗客たちの言葉(なまり)に耳をそば立て、またその土地土地の景色の違いに気が付いたり、(風土の違いって奴だ)のんびり鈍行で行く旅ってのは、まったくもって面白いもんだ。
(乗換えが多かったり、時間がかかるので多くの場所を巡るのには適さない点もあるが)
決して鉄道オタクでは無い俺だが、普通列車で行く旅ってのは本当に味わいのあるものだと思う。

さあ、そんなこんなをやったり思ったりしていると、11時に岐阜駅に到着。
旅初日は、岐阜県岐阜市の岐阜城へ!

山頂にちょこんと建つのは模擬天守。

じつは今回で三回目の岐阜城。(もう慣れたもんで、帰って来た感すらある 笑)
JR岐阜駅からバスで岐阜公園に向かい、とりあえず岐阜歴史博物館に入館。
ここも三回目なのだが、今まで巡ってきた歴史博物館の中でも、ここは結構好きな博物館だ。
特に『楽市立体絵巻』が好きで、その展示の一つ、信長が供応に出したと伝わる料理の模型(食品サンプル)を見る度に腹の虫が鳴るのは毎度の御約束。
そうそう、岐阜県の郡上八幡は盆踊りで有名だが、食品サンプルでも有名。
一度行って見たい所なのだ。(キンキンに冷えたビールの大ジョッキのサンプルが欲しい)

近くで当時の遊戯(双六や独楽回し等)を説明しているボランティアの方に「この料理を再現して、食べさせてくれたら最高なんですけどね」と言ったところ「いや~難しいんじゃない?」と返される。

確かに食材に『鶴』とかあるので完全再現は難しいだろうが、9割は再現は可能だろう。

うるか・鮑などの珍味と高給食材が多いいので、値は張ると思うが・・・
予約制にしたら結構需要もあるのでは??と思うのだが、どうだろう。


博物館を見て回ったら岐阜城(金華山)の山裾にあった信長の御殿跡に行く。
信長は山頂の城で家族と供に生活していたが、政務は麓の館で執る事が多かった様で、山頂と山裾の御殿を行き来していたのが当時の記録に見られる。
因みに、用のある家臣は館へ至る道で待っていて道端で信長に話しかけるのが通例であったそうな。堅苦しい『儀礼』や『しきたり』を省ける立ち話の形で来訪者や家臣と面会していた訳。

約四百年前、山頂から七曲口を下りて来た信長を御殿と七曲口の間の何処か、今は岐阜公園として整備されている辺りでフロイスや山科言継と立ち話をしていた様子を想像してみる。
また、当然だが、この公園の辺りに柴田勝家や佐久間の館や、当時出頭激しい秀吉の館もあったのだ。
『どの辺りに住んでいたのかなぁ~この辺かな?』などと想像しながら公園内を歩く。
その場所へ行き『あの人は間違いなく、あの時この場所に居たんだなぁ』と実感する。
この感動(寂しさの様な)は歴史好き且つその場に行った者だけに感じられる物だと思う。
(歴史ってのは、想像力と感受性が無いと好きに成れない物だと思うのだ)


天下第一の門(岐阜公園の案内ではこうある)をくぐり、石段を登ると信長の御殿群があったとされる場所。
この門の前あたりは表空間、即ち対面とか儀礼に使われた建物や広場とされる。(いわゆる表)
金華山の山裾の谷間にあった信長の奥空間だが、谷の奥は現在発掘調査中でその様子を見る事はできない。
『日本史』によれば複雑で豪華な館群、茶室と滝や庭園がここにはあったとあるが、発掘ではそれを裏付ける調査報告が出てきている。早く結果が知りたいところだ。

上の写真は山裾館の『食い違い虎口』の跡!
ここから先が山裾館のプライベート空間。いわゆる『奥』。
ここから少し上がった先から発掘調査の為立ち入り禁止なので、柵越しに覗いて当時の様子、フロイスが記した御殿群の建築や、いくつかあったと言う庭園を想像します。
フロイスが「バビロンの賑わい」と表現し、8千から1万人の人口を数えたと記す。岐阜城下町の中心がここだったんだなぁ~と。
この先が下記の山裾の邸が建っていたわけ。

フロイスは『日本史』に岐阜城山裾の御殿を事細かに記しています。

驚くべき大きさの加工されない石がそれを取り囲んでいます。第一の内庭には、劇とか祝祭を催す為の素晴らしい木材でできた劇場風の建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと(現在の天下第一の門の石段か)、ゴアのサバヨのそれよりも大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます。

ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次に様に言いました。
『貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがする様に思われるかも知れないので、見せた物かどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう』と。

信長の習慣及びその性格から、例え寵臣であっても、彼が明白な言葉で召喚したのでなければ、誰もこの宮殿の中には入らぬのであり、彼は入った物とは外の第一の玄関から語るのであります。当時一緒に入ったかの殿達にとっても、宮殿を見るのはこれが初めての事でありました。その他、同所には大工達と建築に立ち会う四人の若い貴人が居るのみでありました。

宮殿内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何も無く終わりであると思われる所に、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語る所によれば、それらの幾つかは、内部に置いては事に、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとの事です。これ等の部屋の周囲には、極めて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、その厚板地は燦然と輝き、あたかも鏡のようでありました。円形を保った前廊の壁は、金地にシナや日本の物語描いたもので一面満たされていました。この前廊の外に、庭と称する極めて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本に置いて甚だ稀有なものであります。それらぼ幾つかには、1パルモほどの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩しい白砂があり、その中に泳いでいる美しい各種の魚多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花弁や植物がありました。下の山裾に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています。そこに美しい泉があり、他の場所にも、宮殿の様に思いのまま使用できる泉があります。

二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側も全てシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、極めて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見る事ができます。

三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に洗練された甚だ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望する事ができます。



この後、茶器を見せてもらったり、「小人の踊」(道化?)りや、「オヤツ」で、もてなされたそうな。



さて、次は岐阜城跡へ向かう。
岐阜城は山城なので、主郭跡へ向かうには山を登る必要があるのだが、ここには金華山ロープウェイがあるので楽ちん!
初めて訪れた時は歩いて登ったのだが、今回は楽をさせてもらう事に。(何せ荷物が多いもので…)
ロープウェイが上がる時に信長の山裾屋方跡の上を通るので、窓に貼りつくようにして屋方跡を眺めつつ、山頂下の駅に到着。

ここから徒歩10分程で模擬天守へと至るのだが、その順路には馬場跡や門跡など歴史&城跡好きの興味を引く痕跡が残っている。
とは言っても城の主郭があったとされる山頂には、ロープウェイの駅を始め、模擬天守、レストラン、電波塔、リス園などが建っている為に往事の痕跡は絶望的に破壊されている、残念。

山頂の模擬天守の内部は資料館となっているが、正直あまり見るべき物は無い。

しかし模擬天守高欄からの景色は歴史好きならずとも一見の価値がある!

南は濃尾平野を一望にでき、西は伊吹山、東は御嶽山(中央アルプス)が見え、北には以北アルプスも見えた。
この360°の大パノラマは一見を訂正して必見である。
(夜景も素晴らしいと聞く)

この山頂で信長は家族と生活していたわけだ。
信長自ら膳を持ってきてフロイスを饗応したのもこの山頂の御殿。
この場所から西を眺めて天下布武の策を胸中に描いていたのかと思うと、感動もひとしお。

模擬天守を出て人が少ない展望レストランの展望台へ、フロイスが信長からもてなしを受けたのとほぼ同じ場所で、その時の記述を読んで過ごす。

フロイスが記した山頂の城の様子。

同所の前廊から彼は私達に美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で山から展望する事が出来ました。
この前廊に面し内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました。
彼は私に、インドにはこの様な城があるか、と訊ね、私達との談話は二時間半、または三時間も続きましたが、その間彼は、四大の性質、日月星辰、寒い国や暑い国特質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦を示しました。
この談話の半ばに、年少の息子(茶筅)を呼び、密かに内に入らせて私達の為に晩餐の仕度をさせました。(中略)

その後しばらくして彼は内に入り、私はひとり前廊に留まっていました。そこへ彼は思いもよらず自ら私の食膳を持って戻って来、次男はロレンソのために別の食膳を運んで来て、信長は「御身らは突然来られたので、何もおもてなしする事ができぬ」と言いました。

そして私が彼の手から食膳を受け取って、彼が私に示した親切に対し感謝の意を表してそれを頭上におし戴いたところ、信長は、「汁をこぼさぬよう、真直ぐに持つように」と言いました。まだ幼かった彼の息子達は不思議に思い、かつて彼らは、彼がした事が無いような特別扱いをするのに接して、じっと眺めていました。

私たちがこの座敷で食事を取りました後、信長がまだ内にいました間、その息子である君は袷と称する絹衣、および他の甚だ美しい白い亜麻布(帷子)一枚を携えて来て、父君は、貴殿がさっそくこれを着る様に申されました、と語り、ロレンソ修道士には別の上等な白衣を送りました。私たちがそれを着ました時に彼は自分が居た場所へ私たちを呼びました。そして私達を見ると非常に満足し、『今や汝は日本の長老のようだ』と言いました。そして彼は息子達に向かい、『予がこうしたのは、伴天連の信望や名声を高めさせる為だ』と語りました。また私に向かっては、しばしば美濃に来訪するように、夏が過ぎれば戻るがよいと言いました。そして彼は私たちに別れを告げながら、柴田殿を呼び、私たちに城の全部を見せるように命じましたが、彼はそうした事を大いなる愛情に満ちた言葉でしたのでした。


この様に信長は一般のイメージと違って、人に対して細やかな気遣いをする人だったとする資料が多く残っています。(稀に激昂するとフロイスも記していますが)

また、岐阜城の急峻な山の上で暮らし、麓の舘の先から山頂の城へは自分が呼んだ者意外は何人も入れさせななかったのは、見る者&仕える者に、一目で信長を頂点とする権力構造を理解させる為の物だったといわれています。

誰でも理解できる『偉い物ほど高いところに暮らす』という単純明快な表現ですな!

これは岐阜城の前の居城であった小牧山城から見られる点で、後の安土城へと繋がって行くものなんですねぇ。

「戦国大名=独裁」と思われがちですが、実際は国人領主や一門の代表者的存在であり、独裁と言えるほどの権力を持っていなかったのです。
なので戦国大名と言えど合議制が一般的であり、いわゆる家臣達の意見を無視すれば、最悪殺されたり、クーデターを起こされて隠居に追い込まれてしまうのがこの時代の現状でした。
一方信長は、居城を名護屋から清須としていた頃までは、権力の掌握に苦労していた事が見受けられますが、小牧山をへて稲葉山城を奪取後、岐阜と命名し、これを居城とした時には、己を家臣達とは隔絶した存在である事を認めさせていた事が見受けられます。
(将軍や大友氏などと接した居たフロイスも、信長に対する家臣達の異様な奉仕の仕方に驚いていますからね)



約400年の時を経て、同じ場所でその時の記録を読んでいると、様々な思いが浮んで来てる。
日が暮れるまでこうして居たいのだが、明日も始発で一乗谷へ向かうので・・・ロープウェイにのって麓へおりる。

岐阜駅からJRに乗って予約を取ってあるホテルの最寄り駅大垣へ。
大垣と言えば大垣城だが、残念ながらあまり興味が無い上に、なにより時間が無いのでホテルのチェックインを急ぐ。
それを済ました後は、少し歩いた場所にあるイオンタウンへ!(事前に調べておいた)
そこで、夕食とビニール傘を購入。

実は出発前から、二日目の一乗谷の天気は雨+風速15mの風と分かっていた。
その為に、重たくて歩きにくいが防水の登山靴、レインウエア、ザックカバーを持ってきていたのだ。
風があるのでレインウエアーを着ても中の衣類が濡れる恐れもあり、その分の着替えを余計に持ってきたりで荷物が多くなり、75ℓのザックを背負ってきた今回の旅だった。
『この装備と+ビニール傘があれば濡れないでしょう』と言う計算だ。(その分荷物が多くて大変だったけど)

そんな訳で、タバコ臭いビジネスホテルの一室で21時ごろに就寝。
と行きたかったのだが、部屋の目覚まし時計が「カチカチ」とうるさい!

冷蔵庫に目覚まし時計をぶち込んで、今度こそ就寝。

エピソードから見る信長の実像④ 山中の猿御憐憫の事

2014年08月11日 | 信長公雑記

この記事、書いておきながら1年ほど放置してました。

勿体無いって事で・・・アップデス。

今回は、信長公記から『山中の猿御憐憫の事』を、現代語訳で御紹介。

 

『山中の猿御憐憫の事』天正三年(1575年)

~雨露にうたれる頑者~ 

この頃、哀れな事があった。

美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境に山中(岐阜県不破郡関ヶ原町)と云うところがある。その道のほとりに、頑者(カタハモノ 片端・方輪者=身体障害者)が雨露にうたれ乞食をしていた。

信長公は、京への上り下りに、この者を目にして、余りに不憫に思いまた『乞食は一つ所に留まらない者なのに、この者は、いつも変わらず此処に居るこれには、どの様な理由があるのか』と、ある時不審に思い、その土地の者に尋ねてみた。

 

~山中の猿が背負った業~

土地の者が語るには

『昔、この山中の宿で、常盤御前(源義経の生母)を殺した者がおります。その因果か、子孫の者は代々頑者(カタハモノ)と生まれて、あの如く乞食をしているのです』

『山中の猿とは、この者の事で御座います』と由来を申し上げた。

~信長が見せた憐憫の情~

天正三年(1575年)六月二十六日、信長公は急に京へ上る事となった。

準備に忙しい最中、山中の猿の事を思い出した信長公は、木綿二十反を自ら出して来て、それを家臣に持たせると上洛の途に就いた。

一行が山中の宿に到着すると、信長公は

『この町の者ども、男女に係わらず皆この場へ出てくる様に、申し付ける事がある』と仰せになった。人々が、どの様な事を命じられるのかと、不安になりながら罷り出てみると、信長公は木綿二十反を猿にと下された。

土地の者共が受け取ると(ここ注意※)

『この半分を使い、隣家に小屋を建て、かの者が餓死しない様に、情けを懸けて置いて欲しい』

『この隣郷の人々も、麦が出来た時は麦を一度、秋の後には米を一度、一年に二度づつ、毎年、皆の負担に為らない程度に、少しずつ、かの者に分けて与えてくれれば、信長は嬉しく思う』と仰せになった。

この勿体無い仰せに、乞食の猿は言うに及ばず、山中の町中の男女は皆泣き、袖を絞るほど涙でぬらした。これに立ち会った御供の人々も、上下に係わらず涙を流し、信長に習って、猿の為に町の人々に米や金品を与えたので、皆、お礼の言い様も無い様子であった。

かくの如く、信長公は御慈悲深き故に、諸天の御冥利(天上界と仏法を守護する神々の助け)あって御家門は長久であろうと皆言っていた。

ここからはこのエピソードの解説と謎解き、そして誰も指摘しない点を・・・。

~山中の猿への差別と、その思想~

本当に常盤御前がこの土地で殺害されたのか、その真相は謎です。しかし、猿への差別は、当時の思想を知っていれば、さもあらん、と言ったところ。

この時代、日本に『人権』と言う言葉は無く、その観念すらありませんでした。

『今生の苦しみは、前世の業によるもの』こんな仏教的考えが信じられていた時代だったのですから。

それ故、障害者である猿は、『前世で悪行を犯したか、祖先が罪を犯したから、この様な障害を持って生まれた』と言う論理になるわけです。

同時に、この地で殺された常盤御前の伝説と結び付けられ(前世の悪行と今世の障害を)山中の人々から、文字通り『自業自得』と差別されていたと考えられます。

~木綿の価値と、直接猿に木綿を与えず村人に与えた信長~

興味深いのは、信長が絹や金、銭を『猿』に与えなかった事です。

記録によれば、信長は事ある度に家臣や他国からの使者に、『しじら織りの反物や錦の小袖、金銀』を褒美や礼としてあげています。

しかし、猿には、『木綿』です。

当時を知らない現代人は、『木綿かよ、けち臭い!』と言いそうですが・・・

実は当時、絹は勿論贅沢品でしたが、木綿は用途多様な高級品だった事を記して置きます。猿に、度の過ぎた財を与えても、『良い事にはならない』事が、信長は解っていたのでしょう。

そして、その木綿を村人に与えているのは何故でしょうか?

これは『信長の考え』と、『猿の置かれた状況』そして『猿の秘密』(隠しているのは現代の人々ですが)を現していると思います。

ここを知ると、山中の猿の真の姿が垣間見れてきます。

~猿の障害とは?何故猿なのか?~

実は、歴史学者や作家の間では、この山中の猿と呼ばれた人物を『身体障害者』と、しており。私が読んだ書籍全てで、猿の事を『手・足に障害を負った男』と書いてあります。

本当に猿は『手・足に障害を負った男』なのでしょうか?

私は、『山中の猿』なる人物は、『知的障害者』だったと推測しています。そしてその推測は、ほぼ間違い無いでしょう。(注:辞典には『片端・片輪者』とは、『片方がかけている者』との意味だが、そこに知的障害者も含まれるとある)

知的障害者とする説の根拠は『山中の猿御憐憫の事』を、よく読んで頂ければ解ると思うのですが、あえて書きます。

・下賤の者とも言葉を交わす信長が『猿』とは言葉を交わして居ない。(聴覚障害者の可能性もある?)

・猿の為の木綿を、町の人々に渡している。(※)これは、猿が木綿の(財産)管理が出来ない事を現している。

・山中近隣の人々は、この障害者を『猿』と呼んでいる。(サルは手足が不自由な動物でしょうか?その逆では?)

・手足の障害なら、言語が理解できる=名を名乗れる筈、であるのに名で呼ばれず『猿』と呼ばれている。

さて、こんな事は、信長公記を読めば、ピンと来る人も多いはず。

では、何故?学者&作家の先生方は『手足に障害』と書いたり、時には『戦で、手もしくは足が不自由に・・・』などと、信長公記に記されていない事を勝手に書くのでしょうか?

はっきり言いましょう。

一つには、諸先生方は『知的障害者』と書く事で『差別』との批判する声が上がる事を恐れているのです。

もう一つは、『手足の障害は口にしても良いが、知的障害は駄目』と言う観念が我々の心の中にある証拠です。

これでは、四百数十年前、猿を差別していた土地の者達と変わらないのでは?

現代の日本では、『差別や人権』と言う言葉で攻撃される事を恐れるあまり、それが目に触れない様に隠そうとするところがありますが、現実にある物を見ない様にする、隠す事こそ忌避している証拠であり、それこそが差別だと思うのです。

因みに、秀吉の右手の指が6本あった事もテレビ等ではタブー

山県昌景は三口もしくは吃音者、これもタブー


差別とは、その人の外見上の特徴を指摘する事ではありません。
例えば、肌の黒い人が居て、その人物を肖像画に残す時に、事実にの沿って肌を黒く描くのは差別ではありません。
「肌が黒いからうちの学校には入学出来ない」とするのが差別です。
秀吉や昌景の身体的特徴は、当時は差別や蔑視の対象でしたが、だからこそ、その人物の人格形成や行動にに大きく影響を与えた筈であり、そこも加味して、正確に歴史に残す事、その生涯を考える事こそ歴史学だと信じます。

また、信長を知る上で『信長公記』は1・2を争う一級資料&一次資料であり、そこに記されているこのエピソードは、冷酷非情なイメージを付けられている信長の真の人となりを知る貴重な資料です。ところがこのエピソード、NHK大河ドラマで一度も目にした事がありません。

歴史は過去の人の行いを知る学問の筈ですが・・・・。

私は、作り手によって『イメージ操作された歴史ドラマほど見るに耐えない物は無い』と思っています。

人の子が犬の子の様に取引され、人権など無い時代。

持って生まれたハンデキャップも自業自得と差別・迫害するのが常識の時代。

しかし、そんな時代に、仏教的、業の観念に囚われず。

差別を行う人々に対し『そんな事をしないで、助けてあげてくれないか?』と頼んだ織田信長。

人々は、信長の優しさと、己の行いの醜さを見たが故に涙したのでしょう。

観念や常識が違う時代でも、この人々の心は、現代のそれと変わらない物なのでは無いでしょうか。

信長の非情な一面ばかりクローズアップするTVドラマや番組。

一方で、信長が見せた一面を無視するのはアンフェアだと思う次第です。

あまり知られて居ない、信長が見せた哀れみ深い一面をここに記して置きました。