寝転んで空を見る

山高きを厭わず 海深きを厭わない

麒麟が来るにおける叡山焼き討ちを観て

2020年11月23日 | 信長公雑記

叡山焼き討ちに際して、光秀が「女子供は見逃してやれ」と指示するのは、大河ドラマ御決まりの主人公美化であり嘘。
史実は、比叡山焼き討ちの10日前に光秀が出した書状が残っており、それには「仰木(大津市仰木町)の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」とある。
仰木とは比叡山麓の村で「仰木の者たちは、撫で斬り(皆殺し)にせよ」と命じて居るのが本当の光秀。
一方で、天台座主が女を側に置いているのは、今までの大河では無かった描写であり、評価に値する!
稚児を抱いているシーンでも有れば尚善しだが、それは流石に無理かな… 笑
叡山が京を中心とした経済をどう牛耳り、宗教的権威と合わせて軍事力すら持ち、闘争も繰り返して来た現実を視聴者に理解させれば、比叡山の悪をもっと印象付けられたのでは?と物足りなくも感じた。

大河では今まで、宗教勢力を史実に基づいて描いて来なかった。
現代でも宗教を敵に回すと「怖い」のは分かるが、天台宗や真言宗は無論、一向宗の真の姿を描かずに、信長やその家臣の戦いを描いた所で、餡の無い饅頭でしか無い。


「麒麟が来る」と信長公記 正徳寺の会見

2020年09月21日 | 信長公雑記
2020年のNHK 大河のタイトルが「麒麟が来る」で、主人公が明智光秀と耳にした時、「あぁこんなんだろ?」と、大まかなストーリーが分かった気がした。
「麒麟」は信長の花王からの発案で、NHK大河の共通した反戦思想的に、こうなるのだろうと。
それは、光秀が信長と出合い、信長こそ天下を平和に、麒麟が現れる世にしてくれると信じて使えるが、最後には「平和のために戦ったのに~海外進出なんて!」と信長に失望して本能寺の変を起こし、秀吉との山崎の戦いを経て小栗栖で光秀も死ぬ。
「麒麟が来る」世の実現は、徳川家康に受け継がれ……「厭離穢土」チャンチャン。
放送スタート前は、こんな風に予想していましたが、ほんとその通りになりそう…。

それは兎も角、本題。
麒麟が来ると信長公記を比較してみたいとおもいます。
今回は正徳寺の会見です。

「麒麟が来る」での正徳寺の会見は、今川に押される織田家の情勢、信長の器量への疑問等から、息子高政に婚姻同盟を非難された道三が「信長を見極め、使えないと思ったら討ち取ってしまう」と言う動機でこの会見が持ち掛けられます。
一方の信長は、帰蝶から謀であると聞かされるや「会見を断る」と言いますが、道三の信頼を得るために会見を行うことを帰蝶促されます。ついで帰蝶は謎の女「伊呂波太夫」に根来衆の傭兵を派遣するように依頼、信長の行列に鉄砲隊という箔を付けて、その上道三好みの衣装まで用意して信長を送り出しました。
当日、道三と光秀は信長の行列を見物するために、民家に隠れて信長を待ち受けます。そこに来た信長の姿は有名な「うつけ」ファッション。しかし、率いる兵の中に300ほどの鉄砲隊を従えている事に道三と光秀は瞠目。ここで次週へ。
先回りした道三は正徳寺内で信長を待っていますが、信長は中々現れず、苛立つ道三。
やっと現れた信長は、うつけファッションから折り目正しい正装に。
信長はこの衣装は帰蝶が用意した事をさらりと道三に話します。道三は鉄砲の事をたずねますが、信長は鉄砲隊の事も帰蝶が用意した「はったり」だと、これもさらりと種明かししてしまい、かつ、道三が信長を討ち取るつもりだと帰蝶から教えられたことも道三に話します。
道三は「なら何故、林佐渡などの家老家達をつれてこなかった」と問います。
それに対して信長は、前田利家と佐々成政を呼びつけ、この者達は家を継げない次男三男の「食いはぐれもの」であるが一騎当千、失う物がないからこそ命を惜しまず戦うと。
成り上がり者の我々は「家を起こし、国を起こし、新しき世をつくる、その気構えだけで戦う」と信長は言い放ち、それを聞いた道三は「見事なうつけじゃ」と信長を気に入ります。

「信長公記」では…
とその前に「信長公記」の説明を、信長公記は信長の家臣で弓衆であった太田牛一が様々な日記や証言を集めて書いた信長の記録です。
他の軍記物、例えば小瀬甫庵の信長記等に比べると、誇張が少く信用出来る物として信長研究の一級資料とされています。年代や日付、方角などはいい加減ですが、我々だって「あれは、何年何月で方角は…」なんて覚えていませんから。


信長公記の正徳寺会見

天文十二年四月下旬の事。
道三に面と向かって「婿殿は大たわけですぞ」と信長を中傷する者が絶えなかったが、その度に道三は「うつけでは無い」と言っていた。しかし、あまりに皆が言うので、「見参して善悪を評価しよう」と正徳寺での会見を申し込んだ。
道三は、信長が実直で無いとの噂があるので、驚かせ笑ってやろうと、古老の者を折り目正しい肩衣袴の正装をさせ、正徳寺御堂の縁に並んで座らせて信長がその前を通る様に手筈した。
その上で道三は、町の小家に潜んで信長の行列を見ものした。
その信長の服装は麒麟が来ると同じ、うつけファッションだが、行列は七・八百も連れており、健脚の
者を先頭に走らせ、三間半の朱槍五百本、弓鉄砲五百挺を持たせていた。
宿舎の寺へ到着すると、屏風を引き回して、髷を折り曲げに結い、いつ染めたか知る人もいない褐色の長袴をめし、これも何時拵えたか人が知らない小刀を差した。
これを見た家中の者は「さては、たわけを装うていたか」と肝を潰し、次第に理解していった。
御堂の縁を信長が上がったところ、道三から遣わされた春日丹後守と堀田道空が来て「早く座に着くように」と言って来たが、信長は知らぬ顔で通りすぎると縁の柱にもたれて座った。
暫くして道三が屏風を押しのけ出座したが、又これにも信長は知らぬ振りでいたところ、堀田道空が「これぞ山城殿(道三)にて御座る」と教えた。すると信長は「であるか」と答え、敷居の内に入り、道三に挨拶をして座に着いた。
そこで道空が湯付けを運ばせ、道三と信長は杯を交わした。
「また近い内に会いましょう」と言って信長は席を立った。萩原の渡しまで計二十町ほど見送ったが、そのとき美濃衆の槍は短く、信長方の槍は長く、朱槍をたて並べているのを見た道三は、面白く無さそうな様子で、無口になり帰っていった。
途中「あかなべ」というところで猪子兵助が道三に「どう見ても信長は、たわけですな」と言ったところ、道三は「だから無念なのだ」と言い「この道三の子供達は、そのたわけの門外に馬を繋ぐ事になるが目に見えている」とばかり言っていた。
これ以後、道三の前で信長の事を「たわけ」と言う者は居なくなった。

さて、どうでしょう。
俄然「信長公記」の方が面白いと思うのですが!
「麒麟が来る」の方は、帰蝶の「でしゃばり」具合が鬱陶しく、不必要だと感じました。
私としては、信長の前半生を考える要素の一つに馬回り衆との絆があると思っていますが、それをうかがわせる「食いはぐれ者」や「新しき世」を信長が語るのシーンだけが、わくわくした瞬間でした。
「なんで光秀がいるんだよ!」と言うツッコミは当然入れて置きます。(大河は、何処へでも主人公を参加させ、みんなと知り合い、じゃないと気が済まないんだよね…)

一方の「信長公記」の方は面白い。(面白いと書きましたが信長公記は愚直なまでにノンフィクションの姿勢)
うつけ信長がパリッとした信長に変身するシーンでは、信長の家臣達も「たわけを装っていたか」と驚かせ、先に着座させ様とする道三側の意図を見て、縁の柱に寄り掛かり、痺れを切らした道三が出て来て来ても知らん顔。
何方が先に座に付くか、駆け引きをしている訳です!
余談てすが、この記事を書いていて思い出したのが、後に信長が朝廷に参内した時に、正親町天皇から目通りが取り計られて、庭で待たされた信長が痺れを切らして岐阜へ帰国し、朝廷が慌てたたエピソードです。
私は信長と天皇の権威を廻る暗闘はあったと考える派ですが、同じ様な駆け引きが正徳寺の会見でもあったのです。
信長を見送った際に道三は、信長の長槍兵達の槍が朱槍で長さが長い事に劣等感を抱いています。
織田勢の槍が三間半で他に比べ長く、それを工夫考案したのは信長で、それを示すエピソードですが、これを「麒麟が来る」では借り物の鉄砲隊に道三が瞠目すると書き換えたのは、劣化エピソードだと思います。
帰路道三に猪子兵助(後に信長の家臣)が信長を「たわけを」と言い、それに対して道三は「だから無念なのだ。私の子供達が信長に従う事になる」と予測していますが、原文の「されハ」は「されば」「だから」ですから、「たわけ」と見られる様な「常識を超越した人間だから」と言う意味なのか、「お前らの様な信長の本質を見抜けない者達ばかりだから」と言う意味なのでしょうか?考えると面白いです。

大河ドラマは尺もあるでしょうが、史実とされるエピソードをカットするに留まらず、そこにフィクションを入れてしまうのが気に入らない点です。
事実は小説よりも希なりと言いますが、歴史には面白い感動を呼ぶエピソードが物凄い数埋れていて、歴史に興味の無い人達はそのエピソードを知らないで、フィクションのドラマや小説に感動していたりする訳です。そういった人達に日本史の面白さを教えるのもNHK 大河の役目だと私は思うのですが、麒麟がえがく正徳寺の会見は逆効果だと思いましたね。




信長所縁の地を行く旅 Day5 設楽ヶ原

2016年10月17日 | 信長公雑記
前日夕方に帰宅して、この日再び早朝に出発。
目指すは織田信長&徳川家康VS武田勝頼決戦の地『設楽ヶ原』!
(本当は『長篠城』へも行きたいのだが、時間的余裕がないので今回は『設楽ヶ原』のみ)

『青春18きっぷ』を使い、東海道線(普通)で豊橋まで行き、飯田線に乗り換え、三河東郷へ向かう。

すると電車の中、向かいの席に黒人女性が座る…。
『おいおいおい、これは…話しかけて来るんじゃ無いか?』と、ドギマギする。
ああっ!やっぱりー 話しかけてキター!!

どうやら彼女は『豊川駅』で下りたいらしく、豊川駅に着いたら教えて欲しいらしい。
あれ? 良く考えたらけっこう横柄じゃねーか?
まあ、そこは、了解しておく。

実家の土地柄アメリカ人は見慣れているがしかし、沈黙が怖い。

何か話しかけなければと思うが、焦って単語が浮ばない…。
『Why did come to Japan?』とでも聞いとくか?とか、数年前の松本駅では白人女性に話しかけられたな…なんて思いだす。

取りあえず『ハイチュー』を献上して許してもらう。

そんな事をしていると『豊川駅に到着』、それを教えてると彼女は降りていった。
因みに彼女は始めての日本だそうな、はて『飯田線の豊川駅になにがあるのだろうか?』聞いて置けばよかった…。


11時27分、三河東郷駅に到着。
ここも無人駅だ。
駅から『新城市設楽原歴史資料館』へ歩いて向かう。
資料館の展示は、『今一』だが、この資料館は武田側の陣地跡である丘の上にあるので、屋上から見る展望は、『武田側の目線』を体感できるので一見の価値ありだ。

資料館の後は織田側の地へ歩く。

歴史物の雑誌などで良く目にする、馬防作が復原されている有名な場所だ。
写真奥の今は木々が生い茂る丘陵に武田勢が布陣していた。

ここ設楽ヶ原に来てまず思ったのは、『こんなに近くに布陣したのか』と『この近さじゃあ、武田勢は戦わずに帰る事は出来ないな』という事。

丘陵地帯に兵を隠し、連吾川利用し馬防作で陣地構築したこの場所『設楽ヶ原』に誘き出された時点で武田の負けは決まっていた様なものだ…。

そう言えば最近、NHKBSの番組で『設楽ヶ原の戦いは、織田側の一方的な勝利ではなかった』などと言っていた。その根拠は『武田側が一部場の防策を破ったから』と言うのに笑ってしまった。
戦死者の数、討ち取られた武将の名を見れば結果は明らかだろうに。
まあ、異説を唱えるのが仕事だからね…。
この近さに布陣したら、もう背を見せて撤退する事は不可能。
武田勢にとって残された道は、織田&徳川勢を打ち破るしか方法は無かった訳だ。
ましてや鳶ヶ巣山も落とされたとなれば…

これも小谷城と虎御前山の近さ同様、現地に行かなければ『実感できなかった事』だった。
グーグルマップで古戦場や古城を見て当時を想像する事は良くするのだが、『実感』は、できないのだ…。

この、のどかな田園と丘陵の地で武田の名将達が数多討ち死にし、織田徳川のオールスターの様な武将達が集結していた事を思うと、実に感慨深い。

この古戦場が宅地開発されない事を願う。(「設楽ヶ原をまもる会」に期待)


資料館の側には信玄塚がある。
武田側の戦死者を埋葬した塚の一つだ。
風化しているだろうが、塚の大きさは中に埋められた首の無い遺骸の量におおよそ比例するだろう事を思えば、凄まじい戦いだった事がうかがえる。

今回は回りきれなかったが、この古戦場の回りには、『〇〇討ち死にの地』の看板や墓石(供養塔)などが点在している。
なんでもそうなのだが、古城や古戦場を見て回ろうとすると、なかなか一日では回りきれない。何度も足を運ぶ必要があるし、運びたいと思う。

15時近くになったので、帰路に着く。

こうして五日間の『信長所縁の地を行く旅』を終えたのだが、まだまだ足を運んでいないだ場所、見たり無い所がある。
来年の春にでもまた旅をしたいと思う。


                                 
                                    おわり



~結びに変えて大河ドラマへの愚痴を少々~

今回の旅で、現地に立って当時を想像する事は非常に楽しかった。
しかし、想像するだけではなく、映像でも見たいと思うのが、現代に生きる私の正直な思いでもある。
ところが、その役目を担うべき昨今のNHK大河は、月代の無い総髪のカツラや(主要人物は、ほぼこれ)黒一色でお揃いの具足がお決まりで、更には現代語を喋るわ、戦はナレーションか、10人規模のスタジオ撮影ときたもんである。

残念ながら、『リアリティーの欠片も感じられ無い』のだ。(陳腐といって良い)

月代のカツラを、眉を剃って鉄漿を塗るのを、俳優が嫌がるのなら、劇団の無名役者をただ同然で使って、その分の浮いた予算で『色々脅しの鎧』や指物、ロケを敢行すれば良いではないか?(NHK職員の給与を削れよ)

ああ誰か『プライベートライアン』の様な、戦国時代の戦を描いた映画を作ってもらえないだろうか!
史実は華やかな戦場

毎度お馴染みの『主人公が全ての歴史的出来事に係わるスーパー主人公な一方で、主人公に不利な史実はカット』にも飽き飽きだ。

そもそも、首を獲らない戦国時代の武士って何なんだ??


こんな陳腐なドラマを見るくらいなら、信長公記片手に古戦場や古城を見て回る方が100倍リアリティーを感じれる。
フロイスの日本史や日欧文化論には、衝撃的な事が書かれている(当時の日本人による赤子の殺し方・間引き方とか)

主人公に『戦は嫌だ』とか『平和が良い』だの『生きろ!死ぬな!』と言わせるのなら、当時の凄惨な様子も描かなければ説得力に欠ける。(真田丸なんて皆ふざけていて、楽しそうじゃないか…)
(笑いながら敵の首を取るなら、唸らされるところだが)
もし視聴者から、血を見たくない、月代も鉄漿も嫌、難しい言葉も嫌、と言う意見があるとしよう。
であるのなら、その人は歴史ドラマの何を見たいのだろうか?

さっぱりわからん。


これが戦国時代だ!






信長所縁の地を行く旅 Day4 小牧山城

2016年10月16日 | 信長公雑記
目が覚めたら早々に、狭くて汚い金園のホテルから退去する。
(ほんと最悪だった)

岐阜駅から名鉄で小牧駅に到着。駅から小牧山へ歩いていく。
駅の近くに小牧山への道を示すマップなどがあれば良いと探すが、見当たらなかったので、自分で作っておいた資料を頼りに小牧山へ向かう。

信長はその居城を名護屋→清洲→小牧山→岐阜→安土と移してきた稀有なな戦国大名だ。
その織田信長が自らデザインした、始めての居城が『小牧山城』だ。
しかし以ほんの10~20年前まで小牧山城は、『信長の美濃攻略の拠点として一時的に作られた城と』解釈され、軽く扱われてきた感がある。
ところが近年、発掘調査で様々な新事実が発見され、恒久的な城として築かれた物と評価を改められている。
また、石垣の発見や整備された大きな城下町の存在、その安土城と似た城の構造は信長の城や城下町のひいては権力構造の雛形を示す物だと考えられ、最近ではその注目度を高めている。
何も無い所(山はあったが)に信長が始めて築いた自らの居城であるこの城は、信長の意思や狙いが見て取れ、大変価値の高い史跡なのだ。
その思想が受け継がれ完成された姿が近世城郭の大本と言える城、安土城となる。(本能寺の変が無ければ更なる居城を築いただろうが)


まあ、その辺の細かなところは、ウィキぺディアでも見て頂くとして…旅の話を進めよう。

小牧山

小牧山は公園になっていて、早朝のここはウォーキングや体操、犬の散歩をしている御老人達が多く、にぎやかだ。
小牧山の麓を囲む様にある家臣達の館跡。その中で一番大きな面積を持ち、信長の館跡と言われている場所に行ってみる。
信長の館跡
小牧山南東の山裾にある土塁に囲まれた一辺100m程の敷地が信長の館跡とされる。
かなり大きな敷地で驚かされる。
やはり『表』の役割があった場所なのだろう。ここにはこの朝、体操?をしている人達の姿があった。

大手道を登り『主郭の入り口にある巨石』を見に行く。

『二つに割られ、上に昭和天皇の銅像が立てられた巨石』
ここは門があったとされる場所で、この石は門、もしくは櫓門を支える『鏡石』の役割をした石だと、千田氏はその著書『信長の城』に書かれている。

千田氏は、小牧山城の石垣は小牧山で取れるチャート岩だが、この石は花崗岩である事、態々この巨石をここへ持って来た(山へ上げた)ことからも、この石が『鏡石』であると信長の意図を説明している。
またその著書には、真っ二つに割られた時期と理由も推理されており、面白い。

ともかく、昭和天皇の銅像を移動させるべきだと思いますな。
(なんでこんな重要な石の上に立てるんだ?)
清洲城跡の遺跡をぶった切る新幹線の線路などなど、愛知『文化度』は、一乗谷には遠く及ばない。

因みに、住宅地にある小牧山が削平され宅地化されていないのは、神君家康公の史跡として尾張徳川藩が保護してきたからであり、昭和天皇が陸軍の演習を小牧山から総監したから。
徳川家にとって『関ヶ原』より重要だった『小牧長久手の戦い』が無ければ、跡形も無かった可能性が高いと思いう次第。

多くの人が素通りする鏡石を過ぎて、主郭に上る。そこには模擬天守(内部は資料館となっている)がある。
開館時間まで二時間位あるので、周りの石垣や他の郭跡を見て過ごす。
すると、模擬天守の前である御夫婦に声を掛けられる。
この旅の目的や巡った土地を話すと、旦那さんも歴史好き(古代史)らしく、御自分が研究されている古代日本と朝鮮との関係について話し出した。
奥さんが『話し出すと止まらないよ』と忠告してくれたのだが・・・
この話が長い・・・長い・・・
奥さんの御蔭で、この話がやっと終った頃に開館時間が訪れた。


模擬天守内の資料館の展示は、秀吉と家康による『小牧長久手の戦いが』メインになっている。
最上階からの展望は、犬山城や岐阜城(金華山)が望まれ当時の風景と信長の戦略が偲ばれる。

この模擬天守の周りには、小牧山城の主郭を取り巻く様に築かれた段石垣も見受けられ、資料館内には『佐久間の墨書き』が残された石も展示されている。
いまだ発掘調査と整備が勧められているので、歴史ファンとしては期待するところだ。

昼前に小牧山城を後にする。
この四日間、重い荷物を背負って歩き回って来たので腰が限界に近づいていた。
そこで、小牧山と駅の間にあるショッピングセンターのフードコートで休憩。
醤油ラーメンを食べる。
『これが美味かったー!』
フードコートと侮る無かれ、こう言うシンプルで低価格&美味い醤油ラーメンて見なくなったなーと思うこの頃。(チェーン店のは好みじゃない)

この日は、これでお仕舞。
家路についた。

信長所縁の地を行く旅 Day3後編 安土城

2016年10月10日 | 信長公雑記
13時20分過ぎに安土駅に到着。
広い田園の中の真直ぐな道を歩いて『安土考古学博物館』へと向かう。
なんどか訪れた事のある博物館だが、展示内容が変わっているかも知れないので450円を払い入館。
しかし、代わり映えせず・・・。
続いて、安土城天守の上部三階を再建した物が展示してある『信長の館』へ(ここも以前紹介した)しかしここも代わり映えせず。(もう4度目かな)

だがしかし、今回安土に来たのは、この二つが目的ではないので問題ない。

今回の目的は三つ。
1.安土城黒金門の礎石をこの目で確かめる事。
2.柴田勝家が越前から信長に送り、信長が安土城に使ったと言う『笏谷石』を見る事。
3.信長廟の石を良く見てみる事。
(以前安土城は紹介した事があるので、今回はこの三つだけ記事にします)

安土城跡の入山料(値上げした?)を払い、安土城大手道を登って行く。
(因みに、安土城跡は摠見寺の鏡内となっている)
伝羽柴秀吉邸跡やら前田利家邸跡などの疑わしさは千田嘉博氏の著『信長の城』を読んで頂くとして、『黒金門跡』へと登って行く。

因みに、『黒金門』とは門に鉄板を貼り、錆止に漆を塗った門で、防火対策と厳示的効果を持たせた門。

ここから先が安土城の核心部だ(ここより外は家臣の屋敷や寺院)。

滋賀県教育委員会と安土考古学博物館によれば、上の写真の手前、左石段を下りた所、城道正面に黒金門があったと復原している。
が、これは防御面や実際の石垣(外枡形)の作りから言って、間違いである事は明らか。
しかも、前出の千田氏が示す食い違い虎口の位置(城道から石段を上って左にクランクした)に櫓門である黒金門の柱が立っていたであろう『礎石』が現存している。
(右側の礎石は確認できないが)
その礎石を確かめるのが今回の目的の一つ。
上の写真でも礎石が確認でる(左したから石段を上った直ぐ左の地面に)


『黒金門の礎石』
構造・防御面・過去の織田系の城の構造・礎石の存在をみれば千田氏が正しいのは明らかだろう。


黒金門跡を通り、安土城の核心部へと入っていく。
ここには清涼殿を模した建物があったとされ、昔は私自信も、その説を疑って居なかったのだが、『現在は、その発掘調査と説のいい加減さ』が指摘され、『完全に否定されている』。
(考古学博物館や信長の館では、今だその説と再現CGを採用しているが)

個人的には、信長公記にその展望の素晴らしさが記され、家康への接待が行われたと伝わる『江雲寺御殿跡』(滋賀県教育委員会が示す三の丸)へ上りたいところだが、ここへは上る石段が無く、当時は御殿群内部の階段で行き来したらしい。


さて、安土城最大の謎である天主があった天主台へと向かう。
その天主台へ上がる石段の踊り場に敷かれた石が今回の目的の一つだ。

これが『笏谷石の敷石』

越前の足羽山周辺でしか採掘されないこの石の特徴は、加工しやすい事とその色で、特に水に濡れると青色になる事だ。

笏谷石はDay2で訪れた一乗谷でも多く利用されていて(石仏・石塔・燈籠・井戸枠などなど)資料館ではそれらを目にする事ができる。
特に2.5mの巨大な燈籠は圧巻で、その灯が一乗谷を灯していた様を想像すると…。

おっと、話を戻そう。
信長は朝倉氏を滅ぼした後、越前は一向宗に奪われるが、天正三年にこれを奪還。柴田勝家に越前を与え、国持ち大名とする。
そのお礼の意味も在ったのだろう。天正九年七月十一日、勝家は特産品である『笏谷石』の切石数百個を信長に献上したと信長公記にある。
(因みに、勝家の居城『北ノ庄城』天守の屋根瓦は笏谷石で出来た石瓦で、『青かった』と宣教師の記録にある)
その笏谷石が、天主地下一階部分、土蔵の入り口にだけ敷かれているのだ。
これは、千田氏が指摘している様に、来客に対し(天主に入れる者は極々限られて居たが)『朝倉や一向宗を倒し、越前を手にした証し』を示しているのだろう。

写真を良く見ると、写真手前の左右に礎石が確認できる。天主石蔵への扉を支える柱が立って居たのだろう。
千田氏の『信長の城』に書かれている様に、私達が『信長も必ず歩いた敷石』の上を歩き、触れられる事は感激だ。
しかし、この場所に、なんの説明も指摘する看板も無い事が、『なんだかなぁ』である。


最後に『織田信長廟の石』だ
信長廟は、安土山の山頂部の安土考古学博物館と滋賀県教育委員会の言う『二の丸』にある。
しかし、『信長の城』の千田氏は、ここを『詰丸』であると指摘している。
信長の奥御殿があった場所だという事。
『詰丸』とは現代で言う『本丸』であり、『奥御殿』とは信長が普段生活していたプライベート空間。
だから本能寺の変後、何者かが(おそらく秀吉、もしかしたら信雄?)信長の遺品を入れた信長の墓を、安土城のこの場所に作った訳。(信長が生活していた場所だから)
しかし、今回私の興味を引いたのは、そこでは無い。

この信長廟、墓としては珍しい形をしている。

当時の墓と言えば石塔が一般的なのに、この作り。
そして不思議なのは、上に乗っている『自然石』。
当時、高位の者の墓石に自然石を使うと事は大変非礼な事であり、異様な事なのだ。

今まではこの自然石をあまり注意して見なかったので、今回はそれを見る事が目的の一つ。


この石を天主台の上から見ると、なかなか大きな石だとわかる。
上記の理由からこの石は信長に関係のある『石』なのだろうと、推測されている。
信長に関係のある『石』と言えば、『蛇石』と『盆山』だが、この石を山頂に上げるのに一万人を要したとは思えないので、『蛇石』では無いだろう。
となると、天主にあって信長の分身とした『盆山』なのだろうか?
なんの変哲も無い石だから、この石を『盆山』とする説は少ないが、井沢元彦氏の説の通り『盆山』が『影向石』(神が降臨した石)であるならば、『何の変哲も無いのが普通』なのだ。
その石が『特別』なのは、色や形では無く『その石に神が降臨した』のが理由なのだから。
この廟の石が『盆山=神信長の影向石』である可能性は極めて高い。と個人的にではあるが、そう思っている。

では、この石は何処にあった石だろうか?
〇〇公腰掛の石の様に信長が腰を掛けた石なのだろうか?
私は、信長出生地である勝幡城から持ってきた石ではないかと、思っている。
このアイディア(自己神格化と御神体)には、宣教師や石山寺の影向石等の影響があったのでは?と思っている。
このひっそりとたたずむ石積みの上の自然石が、最初は天主に、次いで摠見寺に置かれた、信長のあの『盆山』であり、それをこの目で見ているのならば、なんと感慨深い事だろうか。


入山時間が終る少し前に下山(17時だったか?)、この夜の宿をとってある岐阜へと向かう。
電車が米原駅を出た直後、お婆さんに『ここ空いてますか?座っても良いですか?』とたずねられたので、『もちろん!どうぞ!!』と答える。
『優先席に行ったけど若い人が座ってて・・・』との事だ。
この、お婆さんと車中色々と話す事に。

お婆さんは滋賀県出身で、関ヶ原の旦那さんと結婚され、現在は関ヶ原に住んでいるそうだ。
私の旅の話になったのでそれを話すと、『じゃあ関ヶ原にも来て下さい』と、また『関ヶ原祭り』も勧められた。(関ヶ原は未だなので、何時か行きたいと思う)
俺が『こっちは(愛知から岐阜・滋賀・福井)山や丘に多くの桜が植わってますね』と言うと、昔(滋賀の頃)町に言われて桜の木を植えに行ったとの事。
なるほど、そう言う活動があったのか~と納得。
それに、ちょっと疑問に思った事も聞いてみた。
『滋賀は関西弁ですよね? 岐阜は違いますよね? 関ヶ原は滋賀に近いですけど、どっちの言葉なんですか?』と。
お婆さんの答えは『関ヶ原弁』との事。 笑
ほぼ岐阜の言葉(愛知弁に近い?)らしい。
関ヶ原駅でこのお婆さんとは、お別れ。
『こんなお婆さんの相手をしてくれて、楽しい時間をありがとう』との言葉を頂く。
『こちらこそ』と俺。

岐阜のホテルの着いてビックリ、物凄く狭いし、汚い。(金は払ったが、他に泊まろうかと思ったほど)
以前泊まったホテルは、小さかったが綺麗だったが・・・。

ここには、二度と泊まらない。そう誓って21時頃就寝。



私は歴史好きを自認する男だが、じつは彦根城には足を運んだことが無い。(何回も近くを通っているのに)
勿論、行きたい気持ちはあるが、小谷城跡や安土城跡の魅力に素通りを繰り返してしまう。
無論、後の二つの方が、信長に係わりが強い事もある。
しかし、平和な時を過ごし、整備された城より、朽ち果てていった城跡の方に、より魅力を感じるのだ。
小谷城跡などは特に、落城した歴史的事実があり、その土は武者達の血を吸い、石は業火に焼かれた石なのだ。
いまだ片付けられず、地中に埋もれている遺骸もあるだろう。
もし、魂と言うものが存在するのなら、そこに留まっている魂があるかもしれない。
そんな整備され過ぎていない、その場所で生きて、戦い、死んでいった人達の息吹を感じられる場所で、往時を想像したり文献と照らし合わせて見て回る事は、無上味わいがある。
それはまるで、美味い吟醸酒を飲みながら読む歴史小説の様な味わいがあるのだ。

今回の旅は、特に一乗谷と小谷城跡は、『時の流れに埋もれた』感が強く、格別の味わいがあった。