寝転んで空を見る

山高きを厭わず 海深きを厭わない

信長所縁の地を行く旅 Day5 設楽ヶ原

2016年10月17日 | 信長公雑記
前日夕方に帰宅して、この日再び早朝に出発。
目指すは織田信長&徳川家康VS武田勝頼決戦の地『設楽ヶ原』!
(本当は『長篠城』へも行きたいのだが、時間的余裕がないので今回は『設楽ヶ原』のみ)

『青春18きっぷ』を使い、東海道線(普通)で豊橋まで行き、飯田線に乗り換え、三河東郷へ向かう。

すると電車の中、向かいの席に黒人女性が座る…。
『おいおいおい、これは…話しかけて来るんじゃ無いか?』と、ドギマギする。
ああっ!やっぱりー 話しかけてキター!!

どうやら彼女は『豊川駅』で下りたいらしく、豊川駅に着いたら教えて欲しいらしい。
あれ? 良く考えたらけっこう横柄じゃねーか?
まあ、そこは、了解しておく。

実家の土地柄アメリカ人は見慣れているがしかし、沈黙が怖い。

何か話しかけなければと思うが、焦って単語が浮ばない…。
『Why did come to Japan?』とでも聞いとくか?とか、数年前の松本駅では白人女性に話しかけられたな…なんて思いだす。

取りあえず『ハイチュー』を献上して許してもらう。

そんな事をしていると『豊川駅に到着』、それを教えてると彼女は降りていった。
因みに彼女は始めての日本だそうな、はて『飯田線の豊川駅になにがあるのだろうか?』聞いて置けばよかった…。


11時27分、三河東郷駅に到着。
ここも無人駅だ。
駅から『新城市設楽原歴史資料館』へ歩いて向かう。
資料館の展示は、『今一』だが、この資料館は武田側の陣地跡である丘の上にあるので、屋上から見る展望は、『武田側の目線』を体感できるので一見の価値ありだ。

資料館の後は織田側の地へ歩く。

歴史物の雑誌などで良く目にする、馬防作が復原されている有名な場所だ。
写真奥の今は木々が生い茂る丘陵に武田勢が布陣していた。

ここ設楽ヶ原に来てまず思ったのは、『こんなに近くに布陣したのか』と『この近さじゃあ、武田勢は戦わずに帰る事は出来ないな』という事。

丘陵地帯に兵を隠し、連吾川利用し馬防作で陣地構築したこの場所『設楽ヶ原』に誘き出された時点で武田の負けは決まっていた様なものだ…。

そう言えば最近、NHKBSの番組で『設楽ヶ原の戦いは、織田側の一方的な勝利ではなかった』などと言っていた。その根拠は『武田側が一部場の防策を破ったから』と言うのに笑ってしまった。
戦死者の数、討ち取られた武将の名を見れば結果は明らかだろうに。
まあ、異説を唱えるのが仕事だからね…。
この近さに布陣したら、もう背を見せて撤退する事は不可能。
武田勢にとって残された道は、織田&徳川勢を打ち破るしか方法は無かった訳だ。
ましてや鳶ヶ巣山も落とされたとなれば…

これも小谷城と虎御前山の近さ同様、現地に行かなければ『実感できなかった事』だった。
グーグルマップで古戦場や古城を見て当時を想像する事は良くするのだが、『実感』は、できないのだ…。

この、のどかな田園と丘陵の地で武田の名将達が数多討ち死にし、織田徳川のオールスターの様な武将達が集結していた事を思うと、実に感慨深い。

この古戦場が宅地開発されない事を願う。(「設楽ヶ原をまもる会」に期待)


資料館の側には信玄塚がある。
武田側の戦死者を埋葬した塚の一つだ。
風化しているだろうが、塚の大きさは中に埋められた首の無い遺骸の量におおよそ比例するだろう事を思えば、凄まじい戦いだった事がうかがえる。

今回は回りきれなかったが、この古戦場の回りには、『〇〇討ち死にの地』の看板や墓石(供養塔)などが点在している。
なんでもそうなのだが、古城や古戦場を見て回ろうとすると、なかなか一日では回りきれない。何度も足を運ぶ必要があるし、運びたいと思う。

15時近くになったので、帰路に着く。

こうして五日間の『信長所縁の地を行く旅』を終えたのだが、まだまだ足を運んでいないだ場所、見たり無い所がある。
来年の春にでもまた旅をしたいと思う。


                                 
                                    おわり



~結びに変えて大河ドラマへの愚痴を少々~

今回の旅で、現地に立って当時を想像する事は非常に楽しかった。
しかし、想像するだけではなく、映像でも見たいと思うのが、現代に生きる私の正直な思いでもある。
ところが、その役目を担うべき昨今のNHK大河は、月代の無い総髪のカツラや(主要人物は、ほぼこれ)黒一色でお揃いの具足がお決まりで、更には現代語を喋るわ、戦はナレーションか、10人規模のスタジオ撮影ときたもんである。

残念ながら、『リアリティーの欠片も感じられ無い』のだ。(陳腐といって良い)

月代のカツラを、眉を剃って鉄漿を塗るのを、俳優が嫌がるのなら、劇団の無名役者をただ同然で使って、その分の浮いた予算で『色々脅しの鎧』や指物、ロケを敢行すれば良いではないか?(NHK職員の給与を削れよ)

ああ誰か『プライベートライアン』の様な、戦国時代の戦を描いた映画を作ってもらえないだろうか!
史実は華やかな戦場

毎度お馴染みの『主人公が全ての歴史的出来事に係わるスーパー主人公な一方で、主人公に不利な史実はカット』にも飽き飽きだ。

そもそも、首を獲らない戦国時代の武士って何なんだ??


こんな陳腐なドラマを見るくらいなら、信長公記片手に古戦場や古城を見て回る方が100倍リアリティーを感じれる。
フロイスの日本史や日欧文化論には、衝撃的な事が書かれている(当時の日本人による赤子の殺し方・間引き方とか)

主人公に『戦は嫌だ』とか『平和が良い』だの『生きろ!死ぬな!』と言わせるのなら、当時の凄惨な様子も描かなければ説得力に欠ける。(真田丸なんて皆ふざけていて、楽しそうじゃないか…)
(笑いながら敵の首を取るなら、唸らされるところだが)
もし視聴者から、血を見たくない、月代も鉄漿も嫌、難しい言葉も嫌、と言う意見があるとしよう。
であるのなら、その人は歴史ドラマの何を見たいのだろうか?

さっぱりわからん。


これが戦国時代だ!






信長所縁の地を行く旅 Day4 小牧山城

2016年10月16日 | 信長公雑記
目が覚めたら早々に、狭くて汚い金園のホテルから退去する。
(ほんと最悪だった)

岐阜駅から名鉄で小牧駅に到着。駅から小牧山へ歩いていく。
駅の近くに小牧山への道を示すマップなどがあれば良いと探すが、見当たらなかったので、自分で作っておいた資料を頼りに小牧山へ向かう。

信長はその居城を名護屋→清洲→小牧山→岐阜→安土と移してきた稀有なな戦国大名だ。
その織田信長が自らデザインした、始めての居城が『小牧山城』だ。
しかし以ほんの10~20年前まで小牧山城は、『信長の美濃攻略の拠点として一時的に作られた城と』解釈され、軽く扱われてきた感がある。
ところが近年、発掘調査で様々な新事実が発見され、恒久的な城として築かれた物と評価を改められている。
また、石垣の発見や整備された大きな城下町の存在、その安土城と似た城の構造は信長の城や城下町のひいては権力構造の雛形を示す物だと考えられ、最近ではその注目度を高めている。
何も無い所(山はあったが)に信長が始めて築いた自らの居城であるこの城は、信長の意思や狙いが見て取れ、大変価値の高い史跡なのだ。
その思想が受け継がれ完成された姿が近世城郭の大本と言える城、安土城となる。(本能寺の変が無ければ更なる居城を築いただろうが)


まあ、その辺の細かなところは、ウィキぺディアでも見て頂くとして…旅の話を進めよう。

小牧山

小牧山は公園になっていて、早朝のここはウォーキングや体操、犬の散歩をしている御老人達が多く、にぎやかだ。
小牧山の麓を囲む様にある家臣達の館跡。その中で一番大きな面積を持ち、信長の館跡と言われている場所に行ってみる。
信長の館跡
小牧山南東の山裾にある土塁に囲まれた一辺100m程の敷地が信長の館跡とされる。
かなり大きな敷地で驚かされる。
やはり『表』の役割があった場所なのだろう。ここにはこの朝、体操?をしている人達の姿があった。

大手道を登り『主郭の入り口にある巨石』を見に行く。

『二つに割られ、上に昭和天皇の銅像が立てられた巨石』
ここは門があったとされる場所で、この石は門、もしくは櫓門を支える『鏡石』の役割をした石だと、千田氏はその著書『信長の城』に書かれている。

千田氏は、小牧山城の石垣は小牧山で取れるチャート岩だが、この石は花崗岩である事、態々この巨石をここへ持って来た(山へ上げた)ことからも、この石が『鏡石』であると信長の意図を説明している。
またその著書には、真っ二つに割られた時期と理由も推理されており、面白い。

ともかく、昭和天皇の銅像を移動させるべきだと思いますな。
(なんでこんな重要な石の上に立てるんだ?)
清洲城跡の遺跡をぶった切る新幹線の線路などなど、愛知『文化度』は、一乗谷には遠く及ばない。

因みに、住宅地にある小牧山が削平され宅地化されていないのは、神君家康公の史跡として尾張徳川藩が保護してきたからであり、昭和天皇が陸軍の演習を小牧山から総監したから。
徳川家にとって『関ヶ原』より重要だった『小牧長久手の戦い』が無ければ、跡形も無かった可能性が高いと思いう次第。

多くの人が素通りする鏡石を過ぎて、主郭に上る。そこには模擬天守(内部は資料館となっている)がある。
開館時間まで二時間位あるので、周りの石垣や他の郭跡を見て過ごす。
すると、模擬天守の前である御夫婦に声を掛けられる。
この旅の目的や巡った土地を話すと、旦那さんも歴史好き(古代史)らしく、御自分が研究されている古代日本と朝鮮との関係について話し出した。
奥さんが『話し出すと止まらないよ』と忠告してくれたのだが・・・
この話が長い・・・長い・・・
奥さんの御蔭で、この話がやっと終った頃に開館時間が訪れた。


模擬天守内の資料館の展示は、秀吉と家康による『小牧長久手の戦いが』メインになっている。
最上階からの展望は、犬山城や岐阜城(金華山)が望まれ当時の風景と信長の戦略が偲ばれる。

この模擬天守の周りには、小牧山城の主郭を取り巻く様に築かれた段石垣も見受けられ、資料館内には『佐久間の墨書き』が残された石も展示されている。
いまだ発掘調査と整備が勧められているので、歴史ファンとしては期待するところだ。

昼前に小牧山城を後にする。
この四日間、重い荷物を背負って歩き回って来たので腰が限界に近づいていた。
そこで、小牧山と駅の間にあるショッピングセンターのフードコートで休憩。
醤油ラーメンを食べる。
『これが美味かったー!』
フードコートと侮る無かれ、こう言うシンプルで低価格&美味い醤油ラーメンて見なくなったなーと思うこの頃。(チェーン店のは好みじゃない)

この日は、これでお仕舞。
家路についた。

信長所縁の地を行く旅 Day3後編 安土城

2016年10月10日 | 信長公雑記
13時20分過ぎに安土駅に到着。
広い田園の中の真直ぐな道を歩いて『安土考古学博物館』へと向かう。
なんどか訪れた事のある博物館だが、展示内容が変わっているかも知れないので450円を払い入館。
しかし、代わり映えせず・・・。
続いて、安土城天守の上部三階を再建した物が展示してある『信長の館』へ(ここも以前紹介した)しかしここも代わり映えせず。(もう4度目かな)

だがしかし、今回安土に来たのは、この二つが目的ではないので問題ない。

今回の目的は三つ。
1.安土城黒金門の礎石をこの目で確かめる事。
2.柴田勝家が越前から信長に送り、信長が安土城に使ったと言う『笏谷石』を見る事。
3.信長廟の石を良く見てみる事。
(以前安土城は紹介した事があるので、今回はこの三つだけ記事にします)

安土城跡の入山料(値上げした?)を払い、安土城大手道を登って行く。
(因みに、安土城跡は摠見寺の鏡内となっている)
伝羽柴秀吉邸跡やら前田利家邸跡などの疑わしさは千田嘉博氏の著『信長の城』を読んで頂くとして、『黒金門跡』へと登って行く。

因みに、『黒金門』とは門に鉄板を貼り、錆止に漆を塗った門で、防火対策と厳示的効果を持たせた門。

ここから先が安土城の核心部だ(ここより外は家臣の屋敷や寺院)。

滋賀県教育委員会と安土考古学博物館によれば、上の写真の手前、左石段を下りた所、城道正面に黒金門があったと復原している。
が、これは防御面や実際の石垣(外枡形)の作りから言って、間違いである事は明らか。
しかも、前出の千田氏が示す食い違い虎口の位置(城道から石段を上って左にクランクした)に櫓門である黒金門の柱が立っていたであろう『礎石』が現存している。
(右側の礎石は確認できないが)
その礎石を確かめるのが今回の目的の一つ。
上の写真でも礎石が確認でる(左したから石段を上った直ぐ左の地面に)


『黒金門の礎石』
構造・防御面・過去の織田系の城の構造・礎石の存在をみれば千田氏が正しいのは明らかだろう。


黒金門跡を通り、安土城の核心部へと入っていく。
ここには清涼殿を模した建物があったとされ、昔は私自信も、その説を疑って居なかったのだが、『現在は、その発掘調査と説のいい加減さ』が指摘され、『完全に否定されている』。
(考古学博物館や信長の館では、今だその説と再現CGを採用しているが)

個人的には、信長公記にその展望の素晴らしさが記され、家康への接待が行われたと伝わる『江雲寺御殿跡』(滋賀県教育委員会が示す三の丸)へ上りたいところだが、ここへは上る石段が無く、当時は御殿群内部の階段で行き来したらしい。


さて、安土城最大の謎である天主があった天主台へと向かう。
その天主台へ上がる石段の踊り場に敷かれた石が今回の目的の一つだ。

これが『笏谷石の敷石』

越前の足羽山周辺でしか採掘されないこの石の特徴は、加工しやすい事とその色で、特に水に濡れると青色になる事だ。

笏谷石はDay2で訪れた一乗谷でも多く利用されていて(石仏・石塔・燈籠・井戸枠などなど)資料館ではそれらを目にする事ができる。
特に2.5mの巨大な燈籠は圧巻で、その灯が一乗谷を灯していた様を想像すると…。

おっと、話を戻そう。
信長は朝倉氏を滅ぼした後、越前は一向宗に奪われるが、天正三年にこれを奪還。柴田勝家に越前を与え、国持ち大名とする。
そのお礼の意味も在ったのだろう。天正九年七月十一日、勝家は特産品である『笏谷石』の切石数百個を信長に献上したと信長公記にある。
(因みに、勝家の居城『北ノ庄城』天守の屋根瓦は笏谷石で出来た石瓦で、『青かった』と宣教師の記録にある)
その笏谷石が、天主地下一階部分、土蔵の入り口にだけ敷かれているのだ。
これは、千田氏が指摘している様に、来客に対し(天主に入れる者は極々限られて居たが)『朝倉や一向宗を倒し、越前を手にした証し』を示しているのだろう。

写真を良く見ると、写真手前の左右に礎石が確認できる。天主石蔵への扉を支える柱が立って居たのだろう。
千田氏の『信長の城』に書かれている様に、私達が『信長も必ず歩いた敷石』の上を歩き、触れられる事は感激だ。
しかし、この場所に、なんの説明も指摘する看板も無い事が、『なんだかなぁ』である。


最後に『織田信長廟の石』だ
信長廟は、安土山の山頂部の安土考古学博物館と滋賀県教育委員会の言う『二の丸』にある。
しかし、『信長の城』の千田氏は、ここを『詰丸』であると指摘している。
信長の奥御殿があった場所だという事。
『詰丸』とは現代で言う『本丸』であり、『奥御殿』とは信長が普段生活していたプライベート空間。
だから本能寺の変後、何者かが(おそらく秀吉、もしかしたら信雄?)信長の遺品を入れた信長の墓を、安土城のこの場所に作った訳。(信長が生活していた場所だから)
しかし、今回私の興味を引いたのは、そこでは無い。

この信長廟、墓としては珍しい形をしている。

当時の墓と言えば石塔が一般的なのに、この作り。
そして不思議なのは、上に乗っている『自然石』。
当時、高位の者の墓石に自然石を使うと事は大変非礼な事であり、異様な事なのだ。

今まではこの自然石をあまり注意して見なかったので、今回はそれを見る事が目的の一つ。


この石を天主台の上から見ると、なかなか大きな石だとわかる。
上記の理由からこの石は信長に関係のある『石』なのだろうと、推測されている。
信長に関係のある『石』と言えば、『蛇石』と『盆山』だが、この石を山頂に上げるのに一万人を要したとは思えないので、『蛇石』では無いだろう。
となると、天主にあって信長の分身とした『盆山』なのだろうか?
なんの変哲も無い石だから、この石を『盆山』とする説は少ないが、井沢元彦氏の説の通り『盆山』が『影向石』(神が降臨した石)であるならば、『何の変哲も無いのが普通』なのだ。
その石が『特別』なのは、色や形では無く『その石に神が降臨した』のが理由なのだから。
この廟の石が『盆山=神信長の影向石』である可能性は極めて高い。と個人的にではあるが、そう思っている。

では、この石は何処にあった石だろうか?
〇〇公腰掛の石の様に信長が腰を掛けた石なのだろうか?
私は、信長出生地である勝幡城から持ってきた石ではないかと、思っている。
このアイディア(自己神格化と御神体)には、宣教師や石山寺の影向石等の影響があったのでは?と思っている。
このひっそりとたたずむ石積みの上の自然石が、最初は天主に、次いで摠見寺に置かれた、信長のあの『盆山』であり、それをこの目で見ているのならば、なんと感慨深い事だろうか。


入山時間が終る少し前に下山(17時だったか?)、この夜の宿をとってある岐阜へと向かう。
電車が米原駅を出た直後、お婆さんに『ここ空いてますか?座っても良いですか?』とたずねられたので、『もちろん!どうぞ!!』と答える。
『優先席に行ったけど若い人が座ってて・・・』との事だ。
この、お婆さんと車中色々と話す事に。

お婆さんは滋賀県出身で、関ヶ原の旦那さんと結婚され、現在は関ヶ原に住んでいるそうだ。
私の旅の話になったのでそれを話すと、『じゃあ関ヶ原にも来て下さい』と、また『関ヶ原祭り』も勧められた。(関ヶ原は未だなので、何時か行きたいと思う)
俺が『こっちは(愛知から岐阜・滋賀・福井)山や丘に多くの桜が植わってますね』と言うと、昔(滋賀の頃)町に言われて桜の木を植えに行ったとの事。
なるほど、そう言う活動があったのか~と納得。
それに、ちょっと疑問に思った事も聞いてみた。
『滋賀は関西弁ですよね? 岐阜は違いますよね? 関ヶ原は滋賀に近いですけど、どっちの言葉なんですか?』と。
お婆さんの答えは『関ヶ原弁』との事。 笑
ほぼ岐阜の言葉(愛知弁に近い?)らしい。
関ヶ原駅でこのお婆さんとは、お別れ。
『こんなお婆さんの相手をしてくれて、楽しい時間をありがとう』との言葉を頂く。
『こちらこそ』と俺。

岐阜のホテルの着いてビックリ、物凄く狭いし、汚い。(金は払ったが、他に泊まろうかと思ったほど)
以前泊まったホテルは、小さかったが綺麗だったが・・・。

ここには、二度と泊まらない。そう誓って21時頃就寝。



私は歴史好きを自認する男だが、じつは彦根城には足を運んだことが無い。(何回も近くを通っているのに)
勿論、行きたい気持ちはあるが、小谷城跡や安土城跡の魅力に素通りを繰り返してしまう。
無論、後の二つの方が、信長に係わりが強い事もある。
しかし、平和な時を過ごし、整備された城より、朽ち果てていった城跡の方に、より魅力を感じるのだ。
小谷城跡などは特に、落城した歴史的事実があり、その土は武者達の血を吸い、石は業火に焼かれた石なのだ。
いまだ片付けられず、地中に埋もれている遺骸もあるだろう。
もし、魂と言うものが存在するのなら、そこに留まっている魂があるかもしれない。
そんな整備され過ぎていない、その場所で生きて、戦い、死んでいった人達の息吹を感じられる場所で、往時を想像したり文献と照らし合わせて見て回る事は、無上味わいがある。
それはまるで、美味い吟醸酒を飲みながら読む歴史小説の様な味わいがあるのだ。

今回の旅は、特に一乗谷と小谷城跡は、『時の流れに埋もれた』感が強く、格別の味わいがあった。

信長所縁の地を行く旅 Day3前編 小谷城

2016年10月03日 | 信長公雑記
この旅三日目。
福井駅から早朝の電車に乗り込み、滋賀県の河毛駅へ向かった。
目的は、信長の天下布武の計画を狂わせた男、浅井長政の居城で、その最期の地となった『小谷城』。
それと、信長が小谷城攻略の為に小谷城の目の前の山に築いた城『虎御前山城』。

8時21分、河毛駅に到着。
河毛駅は駅舎内がコミュニティハウスになっており、そこはお土産屋兼観光案内所の様な役目を果している。
ここでレンタルサイクル(500円)を借り、小谷城へのアクセスと登山ルートを教えてもらった。
(対応してくれたのは60歳以上の男性だったと記憶。非常に丁寧で、細やかな説明をして頂いた)

この後、安土に行き安土城を見る予定なので12時位には河毛駅に戻るつもりだ。
となると、3時間ほどで見て回らなければ成らない。
教えてもらったルートだと、小谷城は所要時間1時間。
しかしこの旅は、ただ小谷山を登るのでは無く、史跡を見て周り、文献と照らし合わせたり、信長公記をその場で読んで落城の様子を想像したりするのが目的なので、そういった事に時間が要する。
だから時間は足で稼ぐ必要がある。
兎に角、急ぐ事にする。

~ 小谷城へ ~

ペダルをグングン漕いで小谷城資料館に至る。
ここに自転車を駐輪しておいて、服を登山用の物に着替える(デニムのパンツ&シャツだったので)
でっかいザックはデポして、スタッフバック(防水の巾着袋)にカメラとタオルと飲み物だけを入れ『金吾丸』方面からの登山口へと向かった。
虎御前山から撮影した小谷山

小谷城絵。 図上の写真と比べると分かり易い

最初は舗装された道路を登り、その後、未舗装の山道を登る事になる。
かなり急な登りだったので、木の杖(登山口にあった)を握る手に力が入ったが、何の事はなく、すぐに平場に出てこれ以降急な登りは無かった。
振り返れば当時も信仰を集めた『竹生島』が琵琶湖に浮んで見えた。(左下の写真)

馬洗い池を過ぎると『首据石』なるものがある。(右上の写真)
浅井亮政(長政の祖父)の代『今井秀信』を誅した亮政はその首をこの石の上に晒したそうな。


さらに登って行くと、右手の脇に狭い郭の入り口がある。そこが浅井長政の生害の地『赤尾屋敷跡だ』。

赤尾屋敷跡とその最奥にある『浅井長政公自刃の地』を示す石碑

天正元年(元亀四年)八月二六日、越前の朝倉氏を滅ぼした織田勢が虎御前山へ帰陣する。
翌二十七日、織田勢は小谷城への総攻撃を開始する。
二十七日の夜、羽柴秀吉の軍勢に長政の拠る本丸と長政の父久政の拠る小丸の間にある京極丸を占領され、分断される。
これにより本丸と小丸の連携は断たれ、追い詰められた久政は自害。
残された本丸の長政は、お市と三人の娘を信長の下に届けるとともに嫡男万福丸を場外に逃れさせた。
山頂側から(大嶽・小丸・京極丸)と山下からの攻撃に曝された長政は、これが最後と討って出たのか、はたまた本丸を支えきれずに逃れたのか、本丸下の赤尾屋敷へと入り、ここで自害したと伝わる。


私がこの赤尾屋敷跡に足を踏み入れた時、印象に残る出来事があった。
入り口から最奥の『浅井長政自刃の地』を示す石碑へと歩を進める間、一陣の風が赤尾屋敷跡を吹き抜けるとともに、桜の花びらがはらはらと舞い落ちてきたのだ。
桜吹雪の中の石碑は、あまりにも詩情的な風景で、29歳で散った長政の人生そものの様に感じ、もう一度その現象をカメラに収めようと風を待ったのだが待っている間、風が吹く事も桜の花が舞う事も無かった。

一旦、桜の馬場へ戻り、黒金門跡を通って本丸跡へと登る。

                          黒金門跡の石段と石垣


黒金門跡を通り抜けるとそこは本丸跡。

南側から大広間に入り北側(本丸・鐘丸)を映した写真。
写真奥(桜の下)に鐘丸の石垣が見える。
説明文
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北二段の構造で、北側の上段に櫓を付属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造を持っていた。
北側の大堀切で、小谷城主要部は南北に分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵が存在した事がわかっている。
大広間南側には黒金門があった。

『おそらく長政や、お市とその子供達はここで暮らしていたのだろう』と思うと感慨深いものがある。
この本丸跡には石垣は言うに及ばず、礎石に使われたと思われる石なども散在していて戦国期の古城跡の姿を今に残している。
大広間から見た鐘丸の石垣

本丸(長政)と京極丸(久政)の間にある京極丸跡にでる。

上に記した様に、ここ京極丸を織田勢(秀吉)に占領された事により、長政の本丸と久政の小丸は分断され、浅井氏と小谷城は最後の時を迎える事となったのだ。
因みに、秀吉の兵が攻め寄せると、京極丸を護っていた大野木土佐らの武者は降伏したのだが、小谷城落城後、『落城際の謀反が見苦しい』として信長に処刑されている。

さらに進むと浅井久政最期の地『小丸』跡。

天正元年八月二十七日、鶴松大夫の介錯により、久政はここで腹を切ってその生涯を終えた。
久政の介錯をしたのは浅井福寿庵とする説もあるが、私は信長公記の記す通り、鶴松大夫だったと思っている。
何故ならば森本鶴松大夫とは舞楽師であり、舞楽師とは『衆道』(男色・同性愛)の相手をする存在だからである。
これを久政が寵愛しており、最後時まで共に居たと言う事は『そういう関係』だからである。

因みにこの時代、『男色』は武士の嗜みの一つと言って良く、秘め事でもなく、主君と家臣の間の男色などは特に大変名誉な事で、信長の男色の相手であった前田利家などはそれを自慢している。
また、この絆は大変強い物で、男色関係の二人が死を共にする事例が歴史上多く見られる一方で、男色間の関係もつれから起きた事件も日本史上に珍しい事ではない。
武士にとって、特に戦場で共に命を賭け助けあう戦国期の武士にとっては、男女間の絆より男色衆道の関の絆は大変強い物であったのだ。


さてこの『森本鶴松大夫』も久政の介錯をした後、自らも久政の後を追い、この場所で自害したと信長公記に記されている。


小丸跡を通り、その奥の『山王丸』(標高400m)にでる。
(山王社を祭っていたので山王丸)
山王丸からは小谷山最高所で朝倉の兵が拠っていた大嶽(おおづく)砦あとを見上げることが出来る。
山王丸跡から見る大嶽

山王丸の先、少し下ったところ『六坊』に至る。
(久政の時代、領国内にあった六つの有力寺院の出張所があった場所)
大嶽へ行く場合、ここから登るのだが(所要1時間)、今回は時間の関係上断念した。

しかし、『大嶽』はDay2で先に記したとおり、朝倉氏と一乗谷、浅井氏と小谷の滅亡の切っ掛けの場所であり、天正元年八月十二日の嵐の夜中、信長自ら馬回り衆を率いてこの大嶽を奇襲した地でもあり、『その時、信長が間違い無くそこに居た場所』である。
『近いうちに絶対行く』そう心に決めて大嶽と六坊の間の谷『清水谷』から下山した。
(清水谷は家臣達の館が多くあったとされる場所)


木の杖を肩に担ぎ、その杖にスタッフバックを掛ける、そんなまるで飛脚の様な格好で清水谷を駆け下りた。
下山すると麓の『小谷城戦国歴史資料館』が開館しているので、300円を払い入館。
資料館は小さいし、大した物も展示しておらず・・・
『小谷城はまた訪れるつもりだが、ここはもういいかな?』って感想だ。

ふたたび自転車に乗って、信長が小谷城攻めの為に築いた城跡『虎御前山』へと向かった。

~ 虎御前山 ~

北陸自動車道の下を潜ったところにある登山口『伝柴田勝家陣地跡』から登る。
 左の写真山が『虎御前山』
ここも少し登ったところでザックをデポする。
因みにこの日、小谷城・虎御前山 双方でも人に合う事は無かった。

『伝柴田勝家陣地跡』の辺りからは『小谷城』が良く望まれた。(下の写真右)

昔の中国の王が、征服しようとする国を、台を築いて望み見る事で『呪』をかける、そんな姿から出来たと云う字『望』由来の通り、信長はここ虎御前山から小谷城を『望』み見ていたのだろう。

『伝柴田勝家陣跡』を過ぎて、さらに登ると『伝羽柴秀吉陣跡』に至る。
この旅に持参した本『信長の城』の著者千田喜博が『最も複雑な構造・極めて厳重な防御』とその本に記してあるとおり、土塁と古墳を利用した『伝羽柴秀吉陣跡』は、私の目には『土で出来たサザエの貝殻』の様に見えた。

更に進むと、虎御前山の山頂部にある『伝織田信長陣跡』へ至る。

信長の陣であり本丸と言えるこの場所は、やはり『最高所』にある。
信長の居城であった、小牧山城・岐阜城・安土城と同じだ。
(浅井氏の小谷城本丸は最高所ではない事と比べると面白い)
因みに、現在、小谷山虎御前山双方とも木々が生い茂っているが、当時は高い樹木の無い禿げ山だったと想像できる。当時は、煮炊きは言うに及ばず、建築やその他にも材木が必要だったので、日本の山は禿山ばかりだったのだ。明治期の写真を見ると禿山が多いのが分かる。
現在、日本の山々(特に平野部に近い)に木々が生い茂っているのは、その多くが植林に拠るものだ。
(おかげで花粉症に悩まされる


この虎御前山の登り、小谷城を見て、実感した事がある。
それは、小谷城と虎御前山のあまりの間近さが示す当時の情勢だ。

信長が虎御前山を城塞化した頃の織田と、対する反織田勢力の情勢は、反織田の戦略的にも圧倒的優勢にある。(すでに叡山は焼かれた後だが)
信長の虎御前山築城(もしくは陣地構築)は、元亀三年七月二十七日で、武田信玄と徳川家康による三方ヶ原の戦いが、同年の十二月である事を思えば、当時の情勢が反織田優勢である事は歴史好きならお解かりだろう。
しかし、浅井の居城小谷の目の前(城内の様子が見て取れ、声すら届く)に陣城が築かれた事実は、我々が思う程織田の劣勢ではなかったのかも知れないと、私は感じたのだ。
この時、朝倉義景自ら15000ほどの軍勢を率いて小谷に援軍に来ていたのだが、虎御前山築城を阻止出来なかった事もそれを物語っている。

もう一つは、『虎御前山城』が、浅井氏とその配下の諸勢力に与えた影響だ・・・。
浅井の居城の目の前に付け城を築かれた事実は『浅井は、もう仕舞』と実感させる情景だったのではないだろうか?。
実際、八月に下った朝倉の臣前波吉継親子を始め、この頃から信長に下る浅井朝倉の家臣達が多くなる。
前波吉継親子の出頭後、虎御前山の陣城は竣工する。

信長公記は虎御前山城を『この城の設計は見事なもので、山の景観を生かした仕上がりに誰もが、これ程のものは見た事が無いと目を見張って驚いた』
『座敷から北を眺めれば浅井朝倉勢が高山の大嶽に登って篭城し、堅固に守備している様子が見える』
『琵琶湖・比叡山・石山寺などを望む景観その景観の素晴らしさ』を記されている。
また、『虎御前山から宮部村まで幅三間(約6m)の道路を高く築き、敵方に向かった方(小谷城)の道には高さ一丈(約3m)の築地を五十町(5.5km)にわたって築かせた』とある。
そりゃあ、1500の朝倉勢も躊躇するだろうし、小谷城の目前に築かれた見事な虎御前山城を目にすれば、城に篭る浅井勢もその周りの諸勢力も戦意が萎えた事は容易に想像できた。
(これは信長が良くやる手ではあるが)
やはり、こういった事も、書物やTVで見ただけでは中々感じたり気が付くことが出来ず、その場に足を運んで虎御前山と小谷山の近さを実感した者だけが、出来る事なのだと、改めて思った事だった。

虎御前山には、柴田・羽柴・信長の陣跡だけではなく、堀秀政や滝川一益の陣跡もあるのだが今回は時間が無く、残念ながら山を下りて河毛駅へと戻る事にした。


河毛駅に着くと、駅舎の扉を開け『ああ良かった、間に合った~』と言いながらコミュニティハウスの男性が迎えてくれた。
どうやらもうすぐ安土方面へ行く電車が来るらしい。(一時間に一本しか電車が来ないらのだそうだ)
私としては次の電車でも構わないので気にしていなかったのだが、朝の説明と言い、この男性は『気の好い人』だなと感じた瞬間だった。
駅舎に入ると、見知らぬもう一人の男性50~60歳台?)に『ああ、この格好なら登れるわ~』と言われる。(北アルプスへ行く格好なもので)
どうやら、12時21分発の電車までの3時間で、小谷城と虎御前山を見て回り帰って来れるのか心配していてくれた様だ。
その直後、電車がホームに入ってくると、その見知らぬ男性に『さあさあ、この電車だよ』と導かれるままに車両に乗せられた。
俺としては、コミュニティハウスの男性に、一乗谷や虎御前山の何処を回ったか、その感想や、感謝の言葉を言いたかったのだが、それを伝えられなかったのが今でも残念で、心残りだ。

電車に乗り込むと俺を列車に導いた男性が、この旅で何処を回ったのか等、色々と聞いてくる。
俺は、自分が信長が好きであり、『信長公記』と『ルイス・フロイスの日本史』片手に旅をしている事。岐阜から一乗谷を見て、これから安土、そのあとは愛知を見る予定だと答える。
『信長を知るには、信長公記は一番正確な資料だもんね』と男性。
(『おっ?わかってるなこの人』と心の中で思う俺。)
一乗谷遺跡の素晴らしさと、その土地を買い上げそれを残し、そこに足を踏み入れて見学できる様にした福井と一乗谷の人の凄さを話すと、その男性は
『あそこは大昔から文化度が高いんだよね、この辺とは各が違うよ』と言われる。
滋賀県は京の都に近く、文化も歴史もある土地だと認識していた俺にとって、その土地の人がそれを否定する事には驚いた。
(まあ、言いたい事はわかる気がする)

さて、こんな車中の会話で、この男性の日本史に詳しい事を知ったので『御詳しいですね』と俺が言うと『ボランティアでガイドしてるもん』と男性。
『ああ、なるほど、恐らくあのコミュニティーハウスの人の同僚で、俺が河毛駅に帰ってくるまで俺の事を話してたんだなぁ』と心の中で納得。
男性は長浜駅で電車を下りたが(もしかして長浜でガイド?)、その間あれやこれや歴史の話をしていた。

また小谷城へ訪れた時には、河毛駅で出会った御二人に再会したいものだと思う。


                                   後編に続く