寝転んで空を見る

山高きを厭わず 海深きを厭わない

Enjoy Fishing!

2014年08月30日 | 釣り

Enjoy Fishing!

 

つー事で、先週末は、バスフィッシング。(ちょうど一週間前ですが)

 

しかーし、ここは日本で最もブラックバスが釣れない地域。

とは言っても、川面を見ながらルアー投げてるだけで、気分爽快、あーそうかい?

土日共、朝の内だけのチョイFishing。

 

土曜日はAM5時に釣れたこの一匹だけで終了。

Img_0091 ちっこい。

 

日曜日は東の空が気持ち青く明るく成り出した頃スタート。

流れがあたる場所で・・・。

朝焼けの頃にヒット!

Img_0097 鯰はヒレに棘があるので、この持ち方

『アレ?なんか引きが違うぞ?』と思ったら、ナマジー。

 

鯰の体は粘液で覆われているので、触るとこの粘液が手に付くんだよねぇ・・・・。

またその粘液が手にまとわり付くと、洗っても洗っても、中々落ちない・・・・・。

食べても美味しい魚だそうですが、勘弁してくれって感じ。

 

気を取り直して、ゴロタ石の上を巻いて来たら・・・ゴゴンッとアタリ!

『あっ今度は良い引き!』と思ったけど、下へ下へと潜ろうとする魚。

答えは、やっぱり?

Img_0100 さっきより大きい55cmの鯰

やっぱり鯰!

この日の朝は、鯰のみで終了。

 

鯰は白身で淡白な身が天ぷらや空揚げにピッタリだそうな。

因みに、今度食べてみる?と聞いたら、『嫌だと言われました』・・・・。

 

 

短いズボンにビーサンで行ったから、野薔薇で脚が傷だらけ&虫に刺されたよ・・・チャンチャン。


秋はもう北?何処へ行く?

2014年08月27日 | 登山関連
なんか突然秋っぽくなってきましたね。

すぐ暑さが戻って、残暑が・・・と言う事になるのだろうけど。


さて、10月、秋の北アルプスに行きたいと思います。

どの山を登りましょうかね。

実は俺、コレクター魂や収集欲に乏しいので『北アルプスの全ての山を登る・百名山制覇』とかに興味が無いんですよ。

一方で、好きな物は、ずーっと好きでいられる。

好きな物を置いといて、他に行く気になれない。(浮気できない性分なんだよ子猫ちゃん達 笑)

なので、好きな山に何度も何度も登る訳です。

『未だ未だ味わい尽くしてない』そう思うんですよね。


で、このまま北アルプスへ行くと、また槍ヶ岳や北穂・奥穂・前穂辺りになってしまいそうな・・・笑


そこで『北アルプスのこの山に登って来て欲しい!』そんなリクエストがあったらコメントください。

(参考までにですよ。上高地&安曇野からアクセス出来る山が良いかな)

OCNのブログ終了後、『登れない人の変わりに、その山を登り、そこからの眺めを紹介する』

そんなブログをやるのも良いかな?なんて思います。


エピソードから見る信長の実像④ 山中の猿御憐憫の事

2014年08月11日 | 信長公雑記

この記事、書いておきながら1年ほど放置してました。

勿体無いって事で・・・アップデス。

今回は、信長公記から『山中の猿御憐憫の事』を、現代語訳で御紹介。

 

『山中の猿御憐憫の事』天正三年(1575年)

~雨露にうたれる頑者~ 

この頃、哀れな事があった。

美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境に山中(岐阜県不破郡関ヶ原町)と云うところがある。その道のほとりに、頑者(カタハモノ 片端・方輪者=身体障害者)が雨露にうたれ乞食をしていた。

信長公は、京への上り下りに、この者を目にして、余りに不憫に思いまた『乞食は一つ所に留まらない者なのに、この者は、いつも変わらず此処に居るこれには、どの様な理由があるのか』と、ある時不審に思い、その土地の者に尋ねてみた。

 

~山中の猿が背負った業~

土地の者が語るには

『昔、この山中の宿で、常盤御前(源義経の生母)を殺した者がおります。その因果か、子孫の者は代々頑者(カタハモノ)と生まれて、あの如く乞食をしているのです』

『山中の猿とは、この者の事で御座います』と由来を申し上げた。

~信長が見せた憐憫の情~

天正三年(1575年)六月二十六日、信長公は急に京へ上る事となった。

準備に忙しい最中、山中の猿の事を思い出した信長公は、木綿二十反を自ら出して来て、それを家臣に持たせると上洛の途に就いた。

一行が山中の宿に到着すると、信長公は

『この町の者ども、男女に係わらず皆この場へ出てくる様に、申し付ける事がある』と仰せになった。人々が、どの様な事を命じられるのかと、不安になりながら罷り出てみると、信長公は木綿二十反を猿にと下された。

土地の者共が受け取ると(ここ注意※)

『この半分を使い、隣家に小屋を建て、かの者が餓死しない様に、情けを懸けて置いて欲しい』

『この隣郷の人々も、麦が出来た時は麦を一度、秋の後には米を一度、一年に二度づつ、毎年、皆の負担に為らない程度に、少しずつ、かの者に分けて与えてくれれば、信長は嬉しく思う』と仰せになった。

この勿体無い仰せに、乞食の猿は言うに及ばず、山中の町中の男女は皆泣き、袖を絞るほど涙でぬらした。これに立ち会った御供の人々も、上下に係わらず涙を流し、信長に習って、猿の為に町の人々に米や金品を与えたので、皆、お礼の言い様も無い様子であった。

かくの如く、信長公は御慈悲深き故に、諸天の御冥利(天上界と仏法を守護する神々の助け)あって御家門は長久であろうと皆言っていた。

ここからはこのエピソードの解説と謎解き、そして誰も指摘しない点を・・・。

~山中の猿への差別と、その思想~

本当に常盤御前がこの土地で殺害されたのか、その真相は謎です。しかし、猿への差別は、当時の思想を知っていれば、さもあらん、と言ったところ。

この時代、日本に『人権』と言う言葉は無く、その観念すらありませんでした。

『今生の苦しみは、前世の業によるもの』こんな仏教的考えが信じられていた時代だったのですから。

それ故、障害者である猿は、『前世で悪行を犯したか、祖先が罪を犯したから、この様な障害を持って生まれた』と言う論理になるわけです。

同時に、この地で殺された常盤御前の伝説と結び付けられ(前世の悪行と今世の障害を)山中の人々から、文字通り『自業自得』と差別されていたと考えられます。

~木綿の価値と、直接猿に木綿を与えず村人に与えた信長~

興味深いのは、信長が絹や金、銭を『猿』に与えなかった事です。

記録によれば、信長は事ある度に家臣や他国からの使者に、『しじら織りの反物や錦の小袖、金銀』を褒美や礼としてあげています。

しかし、猿には、『木綿』です。

当時を知らない現代人は、『木綿かよ、けち臭い!』と言いそうですが・・・

実は当時、絹は勿論贅沢品でしたが、木綿は用途多様な高級品だった事を記して置きます。猿に、度の過ぎた財を与えても、『良い事にはならない』事が、信長は解っていたのでしょう。

そして、その木綿を村人に与えているのは何故でしょうか?

これは『信長の考え』と、『猿の置かれた状況』そして『猿の秘密』(隠しているのは現代の人々ですが)を現していると思います。

ここを知ると、山中の猿の真の姿が垣間見れてきます。

~猿の障害とは?何故猿なのか?~

実は、歴史学者や作家の間では、この山中の猿と呼ばれた人物を『身体障害者』と、しており。私が読んだ書籍全てで、猿の事を『手・足に障害を負った男』と書いてあります。

本当に猿は『手・足に障害を負った男』なのでしょうか?

私は、『山中の猿』なる人物は、『知的障害者』だったと推測しています。そしてその推測は、ほぼ間違い無いでしょう。(注:辞典には『片端・片輪者』とは、『片方がかけている者』との意味だが、そこに知的障害者も含まれるとある)

知的障害者とする説の根拠は『山中の猿御憐憫の事』を、よく読んで頂ければ解ると思うのですが、あえて書きます。

・下賤の者とも言葉を交わす信長が『猿』とは言葉を交わして居ない。(聴覚障害者の可能性もある?)

・猿の為の木綿を、町の人々に渡している。(※)これは、猿が木綿の(財産)管理が出来ない事を現している。

・山中近隣の人々は、この障害者を『猿』と呼んでいる。(サルは手足が不自由な動物でしょうか?その逆では?)

・手足の障害なら、言語が理解できる=名を名乗れる筈、であるのに名で呼ばれず『猿』と呼ばれている。

さて、こんな事は、信長公記を読めば、ピンと来る人も多いはず。

では、何故?学者&作家の先生方は『手足に障害』と書いたり、時には『戦で、手もしくは足が不自由に・・・』などと、信長公記に記されていない事を勝手に書くのでしょうか?

はっきり言いましょう。

一つには、諸先生方は『知的障害者』と書く事で『差別』との批判する声が上がる事を恐れているのです。

もう一つは、『手足の障害は口にしても良いが、知的障害は駄目』と言う観念が我々の心の中にある証拠です。

これでは、四百数十年前、猿を差別していた土地の者達と変わらないのでは?

現代の日本では、『差別や人権』と言う言葉で攻撃される事を恐れるあまり、それが目に触れない様に隠そうとするところがありますが、現実にある物を見ない様にする、隠す事こそ忌避している証拠であり、それこそが差別だと思うのです。

因みに、秀吉の右手の指が6本あった事もテレビ等ではタブー

山県昌景は三口もしくは吃音者、これもタブー


差別とは、その人の外見上の特徴を指摘する事ではありません。
例えば、肌の黒い人が居て、その人物を肖像画に残す時に、事実にの沿って肌を黒く描くのは差別ではありません。
「肌が黒いからうちの学校には入学出来ない」とするのが差別です。
秀吉や昌景の身体的特徴は、当時は差別や蔑視の対象でしたが、だからこそ、その人物の人格形成や行動にに大きく影響を与えた筈であり、そこも加味して、正確に歴史に残す事、その生涯を考える事こそ歴史学だと信じます。

また、信長を知る上で『信長公記』は1・2を争う一級資料&一次資料であり、そこに記されているこのエピソードは、冷酷非情なイメージを付けられている信長の真の人となりを知る貴重な資料です。ところがこのエピソード、NHK大河ドラマで一度も目にした事がありません。

歴史は過去の人の行いを知る学問の筈ですが・・・・。

私は、作り手によって『イメージ操作された歴史ドラマほど見るに耐えない物は無い』と思っています。

人の子が犬の子の様に取引され、人権など無い時代。

持って生まれたハンデキャップも自業自得と差別・迫害するのが常識の時代。

しかし、そんな時代に、仏教的、業の観念に囚われず。

差別を行う人々に対し『そんな事をしないで、助けてあげてくれないか?』と頼んだ織田信長。

人々は、信長の優しさと、己の行いの醜さを見たが故に涙したのでしょう。

観念や常識が違う時代でも、この人々の心は、現代のそれと変わらない物なのでは無いでしょうか。

信長の非情な一面ばかりクローズアップするTVドラマや番組。

一方で、信長が見せた一面を無視するのはアンフェアだと思う次第です。

あまり知られて居ない、信長が見せた哀れみ深い一面をここに記して置きました。