この記事、書いておきながら1年ほど放置してました。
勿体無いって事で・・・アップデス。
今回は、信長公記から『山中の猿御憐憫の事』を、現代語訳で御紹介。
『山中の猿御憐憫の事』天正三年(1575年)
~雨露にうたれる頑者~
この頃、哀れな事があった。
美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境に山中(岐阜県不破郡関ヶ原町)と云うところがある。その道のほとりに、頑者(カタハモノ 片端・方輪者=身体障害者)が雨露にうたれ乞食をしていた。
信長公は、京への上り下りに、この者を目にして、余りに不憫に思いまた『乞食は一つ所に留まらない者なのに、この者は、いつも変わらず此処に居るこれには、どの様な理由があるのか』と、ある時不審に思い、その土地の者に尋ねてみた。
~山中の猿が背負った業~
土地の者が語るには
『昔、この山中の宿で、常盤御前(源義経の生母)を殺した者がおります。その因果か、子孫の者は代々頑者(カタハモノ)と生まれて、あの如く乞食をしているのです』
『山中の猿とは、この者の事で御座います』と由来を申し上げた。
~信長が見せた憐憫の情~
天正三年(1575年)六月二十六日、信長公は急に京へ上る事となった。
準備に忙しい最中、山中の猿の事を思い出した信長公は、木綿二十反を自ら出して来て、それを家臣に持たせると上洛の途に就いた。
一行が山中の宿に到着すると、信長公は
『この町の者ども、男女に係わらず皆この場へ出てくる様に、申し付ける事がある』と仰せになった。人々が、どの様な事を命じられるのかと、不安になりながら罷り出てみると、信長公は木綿二十反を猿にと下された。
土地の者共が受け取ると(ここ注意※)
『この半分を使い、隣家に小屋を建て、かの者が餓死しない様に、情けを懸けて置いて欲しい』
『この隣郷の人々も、麦が出来た時は麦を一度、秋の後には米を一度、一年に二度づつ、毎年、皆の負担に為らない程度に、少しずつ、かの者に分けて与えてくれれば、信長は嬉しく思う』と仰せになった。
この勿体無い仰せに、乞食の猿は言うに及ばず、山中の町中の男女は皆泣き、袖を絞るほど涙でぬらした。これに立ち会った御供の人々も、上下に係わらず涙を流し、信長に習って、猿の為に町の人々に米や金品を与えたので、皆、お礼の言い様も無い様子であった。
かくの如く、信長公は御慈悲深き故に、諸天の御冥利(天上界と仏法を守護する神々の助け)あって御家門は長久であろうと皆言っていた。
ここからはこのエピソードの解説と謎解き、そして誰も指摘しない点を・・・。
~山中の猿への差別と、その思想~
本当に常盤御前がこの土地で殺害されたのか、その真相は謎です。しかし、猿への差別は、当時の思想を知っていれば、さもあらん、と言ったところ。
この時代、日本に『人権』と言う言葉は無く、その観念すらありませんでした。
『今生の苦しみは、前世の業によるもの』こんな仏教的考えが信じられていた時代だったのですから。
それ故、障害者である猿は、『前世で悪行を犯したか、祖先が罪を犯したから、この様な障害を持って生まれた』と言う論理になるわけです。
同時に、この地で殺された常盤御前の伝説と結び付けられ(前世の悪行と今世の障害を)山中の人々から、文字通り『自業自得』と差別されていたと考えられます。
~木綿の価値と、直接猿に木綿を与えず村人に与えた信長~
興味深いのは、信長が絹や金、銭を『猿』に与えなかった事です。
記録によれば、信長は事ある度に家臣や他国からの使者に、『しじら織りの反物や錦の小袖、金銀』を褒美や礼としてあげています。
しかし、猿には、『木綿』です。
当時を知らない現代人は、『木綿かよ、けち臭い!』と言いそうですが・・・
実は当時、絹は勿論贅沢品でしたが、木綿は用途多様な高級品だった事を記して置きます。猿に、度の過ぎた財を与えても、『良い事にはならない』事が、信長は解っていたのでしょう。
そして、その木綿を村人に与えているのは何故でしょうか?※
これは『信長の考え』と、『猿の置かれた状況』そして『猿の秘密』(隠しているのは現代の人々ですが)を現していると思います。
ここを知ると、山中の猿の真の姿が垣間見れてきます。
~猿の障害とは?何故猿なのか?~
実は、歴史学者や作家の間では、この山中の猿と呼ばれた人物を『身体障害者』と、しており。私が読んだ書籍全てで、猿の事を『手・足に障害を負った男』と書いてあります。
本当に猿は『手・足に障害を負った男』なのでしょうか?
私は、『山中の猿』なる人物は、『知的障害者』だったと推測しています。そしてその推測は、ほぼ間違い無いでしょう。(注:辞典には『片端・片輪者』とは、『片方がかけている者』との意味だが、そこに知的障害者も含まれるとある)
知的障害者とする説の根拠は『山中の猿御憐憫の事』を、よく読んで頂ければ解ると思うのですが、あえて書きます。
・下賤の者とも言葉を交わす信長が『猿』とは言葉を交わして居ない。(聴覚障害者の可能性もある?)
・猿の為の木綿を、町の人々に渡している。(※)これは、猿が木綿の(財産)管理が出来ない事を現している。
・山中近隣の人々は、この障害者を『猿』と呼んでいる。(サルは手足が不自由な動物でしょうか?その逆では?)
・手足の障害なら、言語が理解できる=名を名乗れる筈、であるのに名で呼ばれず『猿』と呼ばれている。
さて、こんな事は、信長公記を読めば、ピンと来る人も多いはず。
では、何故?学者&作家の先生方は『手足に障害』と書いたり、時には『戦で、手もしくは足が不自由に・・・』などと、信長公記に記されていない事を勝手に書くのでしょうか?
はっきり言いましょう。
一つには、諸先生方は『知的障害者』と書く事で『差別』との批判する声が上がる事を恐れているのです。
もう一つは、『手足の障害は口にしても良いが、知的障害は駄目』と言う観念が我々の心の中にある証拠です。
これでは、四百数十年前、猿を差別していた土地の者達と変わらないのでは?
現代の日本では、『差別や人権』と言う言葉で攻撃される事を恐れるあまり、それが目に触れない様に隠そうとするところがありますが、現実にある物を見ない様にする、隠す事こそ忌避している証拠であり、それこそが差別だと思うのです。
因みに、秀吉の右手の指が6本あった事もテレビ等ではタブー
山県昌景は三口もしくは吃音者、これもタブー
差別とは、その人の外見上の特徴を指摘する事ではありません。
例えば、肌の黒い人が居て、その人物を肖像画に残す時に、事実にの沿って肌を黒く描くのは差別ではありません。
「肌が黒いからうちの学校には入学出来ない」とするのが差別です。
秀吉や昌景の身体的特徴は、当時は差別や蔑視の対象でしたが、だからこそ、その人物の人格形成や行動にに大きく影響を与えた筈であり、そこも加味して、正確に歴史に残す事、その生涯を考える事こそ歴史学だと信じます。
また、信長を知る上で『信長公記』は1・2を争う一級資料&一次資料であり、そこに記されているこのエピソードは、冷酷非情なイメージを付けられている信長の真の人となりを知る貴重な資料です。ところがこのエピソード、NHK大河ドラマで一度も目にした事がありません。
歴史は過去の人の行いを知る学問の筈ですが・・・・。
私は、作り手によって『イメージ操作された歴史ドラマほど見るに耐えない物は無い』と思っています。
人の子が犬の子の様に取引され、人権など無い時代。
持って生まれたハンデキャップも自業自得と差別・迫害するのが常識の時代。
しかし、そんな時代に、仏教的、業の観念に囚われず。
差別を行う人々に対し『そんな事をしないで、助けてあげてくれないか?』と頼んだ織田信長。
人々は、信長の優しさと、己の行いの醜さを見たが故に涙したのでしょう。
観念や常識が違う時代でも、この人々の心は、現代のそれと変わらない物なのでは無いでしょうか。
信長の非情な一面ばかりクローズアップするTVドラマや番組。
一方で、信長が見せた一面を無視するのはアンフェアだと思う次第です。
あまり知られて居ない、信長が見せた哀れみ深い一面をここに記して置きました。