2018年の12月の旅に使った『青春18きっぷ』が二回分残っていたので、年が変わった2019年正月にも、ぶらっと旅をして来ました。
まず目指したのは、中央本線の『甲斐大和駅』。
ホームに『武田氏終焉の地』と書かれた看板があり、以前から(北アルプスへの行き帰りに)気になっていた場所です。
古戦場に足を運ぶ度に思うのは「グーグルマップで見ただけでは分からない」という事。
今回もそれを実感して、この地で果てた武田勝頼とその一行の最後を想像し、強い感動を受けました。
早朝の『甲斐大和駅』から武田氏が滅んだ地『田野』を目指します。
テクテク歩いて最初に着いたのが小宮山内膳が奮戦、討ち死にした『四郎作り古戦場跡』。
そこから日川を渡った対岸が土屋昌恒らが勝頼自害の時間を稼ぐ為に奮戦した『鳥居畑古戦場』でした。
この辺りは地形が当時の面影を残しており、勝頼方が日川を利用して戦った様子が窺えます。
そこから日川沿いにさらに東へ進むと高台に徳川家康が勝頼ら一行を弔う為に創建した『景徳院』がありました。
景徳院へ登る中腹に『没頭地蔵』があり、勝頼主従の遺骸を埋葬した場所とあります。
一方、丘の上にも勝頼・信勝・北條夫人の供養塔があるのですが、そこは2008~09年に発掘調査が行われましたが遺骨は発見されませんでした。
丘の上の『甲将殿』の下に埋葬された説と中腹の『没頭地蔵』の場所に埋葬の説がありますが、個人的には中腹の『没頭地蔵』が埋葬場所だと思います。
丘の上は川原の砂利で平らにした痕跡(高徳院創建時)があるそうですので当時は埋葬できる平坦地が無かったのではないでしょうか。
『没頭地地蔵』
日川を渡ってくる敵を鳥居畑で迎え撃つ武田の家臣達、その間に現在は高徳院のある丘の辺りの民家で自害する勝頼夫人や侍女達。
勝頼は自害と討ち死に両方の記録があり謎ですが、討ち死になら鳥居畑から丘の中腹辺りが果てた場所でしょうか。
古戦場の胴塚は遺骸に近い場所に作られると言われます。
それは離れた場所では遺骸を運ぶのが大変だからです。(当たり前ですよね)
私は織田勢や旧家臣に追い詰められた武田勝頼主従が、じりじりと本陣の丘に追い詰められ、家臣や勝頼の子である信勝らが丘の麓や中腹で必死に敵を防ぐ中、後方の民家内では勝頼夫人と侍女達が自害して行く姿を想像しました。
その後は日川沿いの道をてくてくと歩いて甲斐大和駅まで戻り、中央本線で松本へ、松本で大糸線に乗り換えて『穂高駅』へ向かいました。
穂高駅への車中では雲間に見える蝶ヶ岳を見て、一日で上高地から蝶ヶ岳を登り!穂高駅の一つ手前の『柏矢町』まで歩いた過去を思いだしていました。
穂高駅到着後は、『穂高神社へ初詣』をしてきました。
硬貨が百円玉と五十円玉しか無かったのでそれをお賽銭に、母の健康と長寿を御願いして松本へ戻りました。
松本では何時もの様にぶらぶらして一泊。
翌朝の松本城
翌日の午前中には帰路に。
今年は奥穂高岳に登りたいですなぁ~!