~フロイスと信長の出会い~
仏教勢力及び松永久秀(松永霜台)の迫害を受け、都を追放されたルイス・フロイス(イエズス会宣教師)。
そのフロイスが和田惟政の尽力により都へ戻ったのが1562年(永禄十二年)
織田信長が足利義昭を奉じ上洛したのが前年の永禄十一年。
都での布教の許可を請うべくフロイスが信長と対面したのも同年である。
最初の対面は、『御目見え』程度に終わり、直接言葉を交わす事は出来なかった。
フロイスの記述によると
信長は奥の部屋で音楽を聴いており、フロイスは離れた場所で食事を振舞われたそうである。
実際は、御互い遠目に見る事は出来たのではないだろうか?
当時の仕来りでは、身分に差があると、直接言葉を交わす事も、同じ部屋に上がる事さえ出来なかった。
こうした作法や仕来りを守らないと、世人の尊敬を失い、『うつけ』などと侮られる事になる。
信長は和田惟政らに、『異国人をどの様に迎えて良いか判らなかった』
『世人が、予もキリシタンになる事を希望していると誤解されない為である』と親しく引見しなかった理由を語っている。
この時、フロイスは『非常に大きいヨーロッパの鏡』『美しい孔雀の尾』『黒いビロードの帽子』『ベンガル産の藤杖』を信長に贈ったが
信長は『黒いビロードの帽子』だけを受け取り、残りの3品は返したそうである。
フロイス曰く、信長は常に、送り物の中で気に入った物だけを受け取り、残りは返していたそうだ。
注: 右写真は信長の家臣であった山内一豊所有の南蛮帽子
この引見の直後、松永久秀(信長に従属していた)は、
キリシタンを都に入れると国も都も滅亡するとキリシタンの追放を信長に訴えた。
(キリスト教徒に侵略されると言う意味では無く、祟りがあるとの意味)
フロイスによれば、それに対し信長は
『汝霜台、予は汝のごとき老練、かつ賢明の士が、そのように小心怯檽な魂胆を抱いていることに驚くものである。
たかが一人の異国人が、この大国において、いったいいかなる悪をなし得るというのか。
予はむしろ反対に、いとも遠く、かくも距たった土地から、当地にその教えを説くために一人の男がやって来たことは
幾多の宗派があるこの都にとって名誉なことと思っているのだ』
と述べたそうである。
1回目は『御目見え』程度に終わったフロイスと信長の対面であったが、2回目以降は親しく接する様になる。
2回目は『二条御所(旧二条城)』普請場での対面となった。』(注:大政奉還で有名な二条城では無い)
足利義昭の為に信長が建設中の二条御所へ赴いたフロイスは、二条御所に掛かる橋の上で信長に引見する事になる。
前回、引見が実現しなかった事を悲しんだ和田惟政が、再び信長に司祭との引見の機会を願った。
そこで信長は、二条御所の建設現場へ来る様に伝えたのである。
信長が建設現場を謁見の場に指定した理由は、信長の性急で無意味な儀礼を嫌う性格による所が大きいと思われる。
一つには、時間の有効活用。
もう一つは、信長が好んだと言われる立ち話の形をとる事で、作法にとらわれず直に言葉を交わせる点がある。
更には、フロイスと親しく接する様を建設現場に居る群集に見せる事で、
フロイス達キリスト教徒の地位を向上させる狙いがあったのかも知れない。
(後に信長は、岐阜城での会見の際、同様の事を語っている)
さて、その引見の様子を記す前に、二条御所普請の様子を簡単に説明しておきたい。
~二条御所(旧二条城)築城の経緯~
信長によって京都に入ると共に将軍職に就いた足利義昭であったが、信長が岐阜へ帰国すると
三好三人衆らが四国から上陸、攻め寄せる事態が起こった。
この時は明智光秀を初めとする幕府奉公衆らの活躍で三好三人衆を撃退する事ができたが
防御力を備えた将軍の邸宅の必要性に迫られ、信長自らが指揮を執り二条御所を築城したのである。
~二条御所普請・作事の様子~
その普請に際し信長は、自らカンナを手に質素な衣服を着用し、何処でも座れる様に虎革を腰に巻き、自ら指図した。
それを見習って大名・家臣らは労働の為に質素な皮衣を身に付け、作業に従事した。
この建築作業中、寺院で鐘を撞く事を禁じ、城中に置いた一つの鐘だけを人員の召集・解散の為に撞かせた。
作業に従事した人々は二万五千人から一万五千人。
信長は、見物に集まった人々に(当時娯楽が少なかった)、この建設現場の見学を許し、
同時に、男女を問わず履物を脱がず信長の前を通る自由を与えた。
石垣の石不足から、寺院等から石仏を引いて来させ石材とした。
この建築作業中、一兵士が見物中の一貴婦人の顔を見ようと、婦人の被り物を少し上げた事があった時、
信長はそれを目撃し、自らその場でその者の首を刎ねた。
以上、二条御所普請場の様子を思い浮かべつつ、信長とフロイスの対面を想像して頂きたい。
以下、フロイスの記述から
~信長とフロイスの問答~
彼(信長)は建設作業に従事しており、遠方から司祭が来るのを見ると、濠橋の上に立って司祭(フロイス)をまった。
建設現場では六、七千人以上の人が働いていた。
司祭が遠くから信長に敬意を表した後、彼(信長)は司祭を呼び、橋上の板の上に腰をかけ、
陽が当るから帽子を被る様にと言った。
そこで彼は約二時間、ゆったりした気分で留まって司祭と語らった。
彼はただちに質問した。
年齢は幾つか。ポルトガルとインドから日本に来てどれ位になるか。どれだけの期間勉強をしたか。
親族はポルトガルで再び汝と会いたく思っているかどうか。ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取っているか。
どれ位の道のりがあるか。日本に留まって居るつもりかどうか。
当国でデウスの教えが弘まらなかった時にはインドへ帰るかどうかと訊ねた。
これに対し、司祭は、ただ一人の信者しかいなくても、
何れかの司祭がその者の世話の為に生涯この地に残るであろうと答えた。
ついで彼は、何ゆえ、都に汝らの修道会が無いのかと質問した。
そこでロレンソ修道士(日本人修道士、因みにポルトガル語を習得している)が
穀物が発芽するに際しては、棘が非常に多く、たちまちそれを窒息せしめたと語った。
(要するに、都の有力な檀家をキリシタンに奪われた仏教勢力が弾圧にのりだした)
また、それに際し、イエズス会の家が一軒あったが、五年前に不当に奪われたと答えた。
さらに彼は、伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのかと訊ねた。
司祭は、この救いの道を教える事、デウスの御旨に添いたいという望みのほか、何の考えもなく、
現世的な利益なくこれを行おうとするのであり、この理由から困難を喜んで引き受け、
長い航海に伴う大いなる恐るべき危険に身を委ねるのである、と返事した。
そこの全群集は、信長がいとも真剣に聞き訊ね、伴天連が答弁している光景を固唾をのんで見守っていた。
そこには多数の人が建築を見るために訪れており、彼等の中には近隣のおびたただしい仏僧達も見受けられた。
とりわけ数名は、どの様な会話がなされているか傾聴していたが、信長は尋常ならぬ大声の持ち主であったから、
声を高め、手で仏僧の方を指し、憤激して言った。
『あそこにいる欺瞞者どもは、汝らの如き者ではない。
彼らは民衆を欺き、己を偽り、虚言を好み、傲慢で僭越の程甚だしいものがある。
予はすでに幾度も彼等を全て殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬ為、また人民に同情しておればこそ、
予を煩わせはするが、彼等を放任しているのである』と。
ここでフロイスは仏教勢力との宗論(公開討論)を信長に願い出る。
なにとぞ恩寵を持って、比叡山の大学や紫の禅宗寺院の最も著名で最も高位の学者達、
また宗教に造詣の深い坂東から来ている学僧を招集し、一党に偏しない裁判官を立てて宗論させて下さる様にと願い出た。
その宗論に負けた時は、都から追放されても結構で、反対に仏僧が敗北した場合、デウスの教えを聞き、
それを受け容れる義務を負う様にして欲しいと訴えた。
(自分が負けた時は都から追放、勝った時は仏僧達の改宗。 フロイスはズルイ 笑)
これがなされない限り、司祭建ちは、彼らの宗教を攻撃し彼等に反対するので、
常に異国人として憎悪や陰謀によって迫害され、
彼等の根拠とするところや論証の力なり明確さを判然と立証できませぬ、と述べた。
これに対し彼(信長)は微笑し、家臣の方に向きを転じ、
大国からは大いなる才能や強固な精神が生じずにはおかぬものだ、と言った。
また司祭に向かっては、
『はたして日本の学者達が宗論に同意するかは判らない。だが他日、一度その様になるかも知れぬ』
と述べた。
さらにフロイスは都の滞在許可を信長に願い、それがフロイスに対する最大の恩恵の一つである事、
それにより、信長の名声はインドやヨーロッパ、キリスト教諸国に広がるであろうと訴えた。
終わりに彼(信長)は、司祭との交際が気に入った事を認め、爾後、貴僧と語る為に呼びにやるであろうと言った。
そして和田殿に向かい、
『(貴殿は)伴天連に同行し、予がこの宮殿と城の中で、天下の君の為に造営した全ての建物をゆっくり全て見物させよ。
また、公方様(将軍足利義昭)が彼を引見し、予と同様に彼と交わる為に、彼の許へ連れて行くように』と述べた。
京都に建設された南蛮寺
同時代の日本の記録と比べると、フロイスの記述(日本史)がいかに視覚的である事か・・・
450年の時を越え、生き生きとした信長の姿が浮かび上がって来る事に驚く。
この引見中、信長は個人的な好奇心と共に、伴天連達が日本に来た理由をしつこく聞いている。
本国と毎年連絡をとっているか?と聞いている等、単なる布教活動ではない事を感じていたのだろう。
(当時の宣教師達は交易ルートの開発、及び侵略の尖兵と言う側面もあった。)
また、当時の堕落した仏教僧に比べ、命がけで布教に挑む伴天連達に信長が好印象をもった事も伺われる。
この後、フロイスの希望は偶然?叶い、朝廷・幕府・信長の間で力を持っていた怪僧、朝山日乗との宗論が実現する。
その宗論は、信長を初め諸侯の前で行われたが、
宗論中、日乗は激昂し信長の太刀を取り、ロレンソ(日本人)修道士を斬ろうとして
信長及びその近衆に取り押さえられる珍事が起こった。
この行為に信長を初めその場にいた者達が日乗を非難した。
その時、信長が日乗に放った言葉こそ信長の仏教勢力と宗教に対する考え方を如実に現している。
『日乗、貴様のなせるは悪行なり。仏僧がなすべきは武器を取ることにあらず、
根拠を挙げて教法を弁護する事ではないか』
と言ったのである。
取り押さえられた日乗は、フロイスを欺瞞者、魔法使いと呼び、七、八回叫んだそうである。
この宗論の噂は都で話題になり、日乗の負けと人々には認知された。
信長との会見を通し、フロイスは都での布教活動とその滞在、教会の建設を許可される共に、都での信者獲得に成功した。
続きは、またの機会に。
次回は、再び都追放の危機にさらされたフロイスが、岐阜城を訪ねた時の様子を紹介したいと思います。