お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

テレビ局の年末と「ゆく年くる年」の中継。

2005年12月09日 | テレビ番組
今週は、仕事満載の一週間だった。テレビ局はこの時期、年末年始の「特番」の収録ラッシュになる。ロケに行ったり、スタジオに行ったり、落ち着くヒマが無い。

なおかつ、各テレビ誌等の「出版物」に番組の写真や内容の原稿を早く入れなくてはならない。年末進行で、雑誌等の媒体の締め切りがいつもより、はるかに早くなってくるからだ。

そのテレビ局側と媒体側の努力で、例えば、「ザテレビジョン」などの「年末年始合併号」が12月半ばには発行される。

その間を縫って、この一年お世話になった系列局の方々や制作会社の方々、代理店の方々、新聞社や雑誌社の方々との「忘年会」が入ってくる。

テレビが誕生したのは、昭和28年2月のNHK、8月の日本テレビ。それ以来、一日も休むことなく、50年以上も電波を出し続けているのだから、気の遠くなる話である。

あるスポーツ紙の記者に訊くと、正月休みは元旦と2日だけだそうだ。大晦日は「紅白歌合戦」が終わり、打ち上げがあって、午前2時頃仕事が終了。その「紅白」の視聴率が出るのが1月2日なので、実質的な休みは1日。

お笑い関係の、ある事務所も、年末年始は「テレビの特番」「劇場の興行」等、稼ぎ時なので、社員は休めないと聞いた事がある。

昨日、妻が手書きして、僕が文章を書いた年賀状を初めて「Kinko‘s」に出したら、校正からレイアウト、印刷まで、ほぼ二日で素晴らしい年賀状が出来上がってきた。やはり、「プロの仕事」だと思った。この年賀状作りに対する妻の情熱は、結婚してから一度も変わる事なく、10月くらいから、「来年の年賀状はどうしよう」と頭を悩ませている。
今年は満足だろう。

子供達がアトピーなので、おせち料理も「アレルギー専門のおせち」を注文しなければならない。「師走」という雰囲気に徐々になってきた。

今日、帰省の切符を買いに行ったら、結構指定席が埋まっていた。今日行っておいてよかったと思う。

この忙しさも、仕事納めが近づくにつれて納まってくる。仕事納めの日には、総務部が大会議室に午後、料理とお酒を用意して、年末の挨拶にお越しになる、この一年お世話になった人達との歓談になる。夕方頃には、スポンサーや代理店を廻ってきて、各所でお酒を飲み、かなり出来上がった若い営業部員が「廊下ででんぐり返り」をやっていたり、奇声を発していたりする。一年間の仕事から開放された喜びもあって、僕には微笑ましい風景に見える。

年末年始は、やる事があまり無い。
僕の場合は「大学の同窓会」が卒業から23年欠かす事無く、大晦日にあり、6~8人くらいで鍋を突き、「水掛不動尊」に御参りし、「夫婦善哉」で「ぜんざい」を食べ、午後9時半くらいに、僕の実家に戻り、「紅白」を見て、「日テレ」の「ナインティンナインの火祭り」を見て、午前1時に就寝。

元旦は、大概朝寝坊し、みんなが揃って、おせちや雑煮を食べる用意が出来たところで起こされる。
そして、2日に妻の実家に行く途中に、墓参りをして、「父」に孫の成長ぶりを見せ、午後、朝霧(神戸市垂水区)の実家に到着。妻の妹さん一家も来て、飲んで食べて・・・やがて眠くなり、先に寝てしまうのがいつものパターン。

2日には、「卒業した高校で、バスケット部の同窓会を兼ねた試合」があるのだが、ここ数年行っていない。

妻の実家からは「明石大橋」がきれいに見え、寒くて空気も澄んでいるのか、気分がいい。
大体、子供達は妻のお父さんに遊んで貰い、僕は携帯用パソコンでブログを書いている。

今、思い出したのだが、入社して数年経った時、「ゆく年くる年」という民放全局で同じ番組を同時に放送するという、今ではもう無い番組の中継で、滋賀の三井寺に行った。中継時間は40秒。各地のお寺の鐘の音を中継で繋いで、曲を演奏するという企画だった。
日本武道館で、加山雄三が指揮をし、まず最初の音が「三井寺の鐘」だった。とっても、寒い大晦日で、先輩と日本酒を飲みながら、年越しまで準備をし、待機。リハーサルでは加山さんは、指揮棒を振り上げてすぐ降ろしてくれたので、鐘を撞くタイミングはバッチリだった。つまり、「鐘を撞くには、一旦、吊り下げられた棒を引っ張り上げて、振り下ろす時間」が必要で、リハーサルでは加山さんが指揮棒をあげた瞬間に、フロアーディレクターから、お坊さんに「キュー(合図)」が出され、お坊さんは棒を引っ張り上げ、振り下ろす。それと同じタイミングで加山さんの指揮棒も振り下ろされたので、「中継」が来た時、ちょうどいい感じで音が出た。

さて、本番、加山さんが指揮棒を振り上げたので、フロアー・ディレクターはお坊さんに「キュー」を出す。
ところが、本番では加山さんは指揮棒を振り上げ、ちょっと、話をしたのである。「中継」が来た時には当然「鐘は鳴った後」。画面にもう一度、鐘を撞く様に指示を出すフロアー・ディレクターの姿が見え、もう一度、鐘は鳴らされ、曲の演奏が始まったのであるが、40秒の為に、夕方から何時間も待機し、「本番では予想外のどうする事もできない失敗」。
撤収して、大阪の本社に帰るスタッフ達は沈み込んでいた。
僕は何をしていたかというと、中継車に乗って、東京のキー局から来る連絡を伝えたり、本番までの時間の秒読みをしたりしていた。

余談だが、生放送でも収録でも、ディレクターの隣には、タイム・キーパーという仕事をする人が座る。この人が「秒読み」をするのである。今は、専門の会社やフリーの、女性がやることがほとんどだが、僕らが入社した頃は、僕らもやらされた。スタジオの生放送番組では、4台あるVTRのスタートから、以前、このブログでも書いた「APS」と呼ばれる、ネットしている局にCMに入る信号を送るボタンも押していた。もちろん、残り時間の秒読みは基本的な仕事。細かいところでいえば、「ステレオ放送」のスーパーを入れるキューと外すキューも出すのである。僕はこの複雑な仕事が好きだった。

「秒読み」にはルールがあって、「10・ ・8・7・6・5・4・3・2」と数える。つまり、「9」は読まないのである。理由き簡単。ディレクターの「キュー(合図)」と間違われる事を避ける為なのである。東京では「ココノツ」というタイム・キーパーさんもいるが。「フロアー・ディレクター」は、「2」までしか言わない。「1」を言うと、放送の音声に入ってしまう危険があるから。

脱線しまくった「今日の長いブログ」・・・最近、なかなかブログに書く「テーマ」を見つける時間も無く、思いつくままに、ダラダラと書いてしまった。こんな日もあっていいだろう。ゴメンチャイ!
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「制作」はいつも崖っぷちを歩いている。

2005年12月09日 | テレビ番組
「製作現場で仕事をする人達」は「いつも崖っぷちを歩いている」様なものだと、大先輩のディレクターに教えられた。

確かに「編成」も「営業」も、その他の部署も「仕事がきつい時」はあるだろうと思う。しかし、「制作」は仕事をする相手が「芸能界」であったり、「視聴者」の欲している時流を感じ取る、時流の「半歩先」を行く番組を作る感性を持っていなければならなかったりする。

前者は、すべての事務所がそうではないが、「芸能」という世界が昔は「興行」という、やくざに仕切って貰わなければ成り立たない世界に端を発しているので、少し間違えば、「大火傷」を負う事になる。山口組三代目・田岡組長が「美空ひばりさん」を我が子の様に可愛がった話はいくつもの本に書かれ、有名な話である。
プロデューサーはあたかも「詐欺師」の様に、様々な事務所との利害関係を潜り抜けながら、自分の「感性」に、その人達を巻き込んでいかなければならない。
ディレクターはディレクターで、「百戦錬磨」の役者を納得させ、ちゃんと自分の思い通りの演出に導かなければならない。
黒澤明監督が言っていたが、「役者は真っ白な状態で現場に来い」・・・「その役者に色をつけて演出するのが監督だ」という言葉。

僕はその通りだと思う。ちゃんとした演出家なら、役者は黙っていればいい。僕のプロデューサー経験で言うと、自分の芝居に自信の無い役者ほど、ディレクターやプロデューサー、果ては「脚本」にまで、物申すという態度に出る。そういう役者に限って、どのドラマに出ても、同じ芝居しかできず、やがて消えていく。

もちろん、「芝居」がそんなに上手くなくても、「主役」を張れる役者がいる。「主役」になる役者には、「華(はな)」、つまり「オーラ」があるのだ。それで十分なのである。
ドラマの「主役」というのは、実はあまり「劇的な芝居場」が無い。ドラマのセンターにいる人に対して、周りがどう関係を持ち、変化していくのが基本である。だから、「主役」は「受け芝居」が多く、「オーラ」さえ出ていれば、逆にその方が良い事も多い。つまり、周りがちゃんとした「芝居」をして、そのエネルギーがセンターで「オーラ」を発している「主役」に集中してくるドラマが一般的には面白くて見やすい。

破天荒な主人公が出てきて、その「人間像」に凄く魅力があれば、その人物の行動だけで引っ張っていけるドラマや映画もあるにはある。でも、それは、そういう人物にドンピシャの役者がキャスティングできた時、そして脚本の人物像とストーリーのテンポの速さが上手く合った時、成立するものだと思う。

だから、「芝居」が抜群に上手く、いろんな人物像を演じ分けられる役者でも「華(はな)」が無ければ、脇役に回るしかない。でも、この脇役が実はとっても大切なのだ。それは黒澤明の映画や木下恵介の映画を見ていると良く分かる。山茶花九、宮口精二、東山千栄子、千石規子、左朴全、・・・数えだしたら、きりが無い。本当に、「一般人」に近い人を巧みに、さりげなく演じる役者である。

今の日本映画でそういう存在が少ないのが、寂しい。こないだ見た「ALLWAYS 三丁目の夕日」の薬師丸ひろ子がその路線に行く気配を感じた。どんどん、そんな役者が出てきて欲しい。もたいまさこも良かったなぁ・・・。この映画には出ていなかったが、温水洋一とか。酒井敏也とか。

ちょっと、酔っ払って、思い出しながら、このブログを書いているので、役者の名前の漢字が違っていたらゴメンナサイ。




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