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熊本よりフェリーで対岸の島原へ渡る・・今日の宿泊は長崎の予定。
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近づくと幽かに城らしき建物が見えて来た。
右の写真の真ん中の山はどうも普賢岳の様だ・・あの山が無ければ長崎まで真っ直ぐ行けるのにと思ったが、トンネルを掘ったりしたら溶岩が噴き出るとは竹さんの弁。
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寄る予定では無かったのだが、ナビで案内された通り道でついでに(失礼だが)寄る事にしたのです。
本当は原城跡に行きたかったのだが、時間と距離の関係で断念・・入り口で駐車料金を払い、中でトイレを借用したのです。
石高(4万石)の少ない藩が見栄を張り、こんな城を造ったりして領民を苦しめたのが島原の乱の発端とか・・その仕打ちがあまりにも残虐でここに書けないのです。
対岸の清正公が400年後の今でも慕われているのとは天と地の差があるのです。
*乱の後に領主は罪人扱いで処分され変わっているのだが、この建物を見たら今でも分不相応な箱物行政に思えてしまったのです。
申し訳ないのですが、ただの観光施設に見えてしまいました・・しかし見方を変えればこの地にはこれしか人を呼ぶ観光資源が無かったのかも知れません。
よそ者の勝手な思いで、今の島原城関係者には全く迷惑な話であるかも知れません。
*パソコンで検索したのだが、島原の乱で半島の住民はほぼ全滅し、後から来た領主は各地から移住を奨励して、結果この地域には色んな方言が混ざっているとか・・あ~、なんと言えばいいのでしょう?コメント出来ませんね、凄過ぎます!