ハイデルベルグと彦根

2015年12月01日 | 湖と城郭都市

 

 

 

 ● ヘルダーリンの故郷 

    

 多くを私は神に諸づだ 詩人が念じ
 
 歌うことのおおよそは 天使と神に叶うのだ。

 
多くを私は願つた 祖国のために

 呼びもせぬ霊が 唐突に我らを襲わぬように。

 
 多くをまた 祖国に焦慮する者たちのためにも

 
 紙への感謝によっで 亡命者がが微笑みつつ帰還するように。

 
 
国の人々よ! さてしかし 湖は私を揺り

 舟人は静かに舵を取り 航行を讃え

 広い湖面には 数多の帆の下に


 楽しげな波がうねり 今しも街は昧爽のうち


 かなたに花咲き明るむ。蔭なすアルブスから


 伴われ来て 港に今や船は憩う。


 岸は暖く 谷は親しげにひらけ

 道美しく栄えて緑し 私の前にはJかに光る。

 庭は連なり 輝く缶はふくらみ初め


 鳥の歌は旅人を招く。


 すべて親しげ々たたずまい あわただしい挨拶も


 親しい友から受けたかのよう 誰もぼ顔が身近に見える。

                     『帰郷』  

    
                   

十八世紀最後となった。1800年5月、生涯の最も大
きな希望と挫折の一切であったフランクフルトとホンブ
ルクからヘルグリーンは帰郷する。帰郷と言っても、母
の家に帰ったのではなく、10日余りで、両都市滞在時
の彼の許をすでに訪れ親交を深めていた、シュトゥット
ガルトの富裕な織物商ゲオルクロクリスティアンとフン
ダウア~(1765~1845)の家に住む。ランダウ
アーはヘルグリーンに出会ったそのときから、同郷で
同世代のこの詩人の、雄々しく独独立の道を切り拓こう
と全身で時代と運命に立ち向かう在りように並々ならぬ
関心と尊敬の念を抱いた。そして実生活での匙‥境を見
聞きするにつけ、何かに役立ちたいと常々願い、その旨
を彼にも伝えてきた。そこで帰郷にあたり、間取りの余
裕のある自宅を開放し、少しでも生活上の不安を取り除
き本来の詩作に専念してもらえるようにと詩人を招く。

ヘルグリーンもランダウアーの素直な申し出を受け入れ、秋
の深まるまで同家に滞在する。。詩人には、このときもうわか
りすぎるほどわかっていた。自分の束の問の安息は、その束
の問の滞在にしかないことを。しかもこの滞在は利害のから
まない、この多罪は利害のからまいない。この世にはない本
気で自分を理解し案じてもくれる友情に発するものであること
を。 そのまれな安息の日々がまさしく安息だったことを証明
するように、この半年あまりの間に彼の代表作の頌歌、悲歌
が集中的に創られた。その一部を示そうと、ホンブルクからニ
ュルティングンヘの途Lで、ヘルダリーンはまたハイデルベル
クを通過する(中略)この町をこう歌ったという(「帰郷と試作」
『ヘルダーリン』小磯 仁著 清水書院より)。

 
Stuttgar Wikipedia

 もう長くわたしはあなたに愛着を抱いている、こう
 すること
がよろこび故に わたしはあなたを母と呼
 びたい、そしてあなたにわたしの貧しい歌を噌りた
 いのだ。
 
 あなた、祖国の町々のなかで
 
 風光の最も美しい町よ、わたしの腿たなかでも。 

 森に棲む鳥が峰々を越えて翔んでいくように、
 
  弧を猫いて架かる、きらめいて流れる河流の上に、
  
   しなやかに 力強く この橋は、
   
    橋は馬車と人間の応てる音でいっぱいだ

神々から送りこまれたもののように、縛りつけたのだ

或る魔力がかつて


 わたしを この橋上へと、私が通り過ぎようとして


  山なみにつづく


   すばらしい彼方の眺めが耀いて見えたとき、


 若者の、この河流は、平野へと果敢に前進していった。、

 哀しみとよろこびを抱いたまま、その様子は、自身の
 
 美があまりに重い故に

 
  愛を貫きながら滅びることはかなわない心が、

 
   すすんで時代の激流に自分を投げ入れていこうと
  
   するときの姿勢だった。



      『ハイデルベルグ、第1~4節』(同上)


 
【目次】

 はじめに
上代の彦根

  お伊勢お多賀のお子じゃもの
 日本最古の庭園、阿白波神社の庭園
 淳和犬皇弟一一皇子守房親王の碑
 中世の彦根
 守房親王が神官となられたハ幡神社
 彦根の巡礼街道
 彦根とその周辺をめぐる近江百人一首 

 

【淳和天皇第二皇子守房親王の碑】

彦根市田附町小字横野に鎮座するハ幡神社は、昔は若宮
ハ幡宮と号し略して若宮とも称す
祭神は、皇統第一五
代応神天皇で、その御母君は、近江国坂田郡息長村(現
近江町)の
出身として有名な神功皇后である。応神天皇
の頃は、大和朝廷の全国統一がなしとげられるとともに
大陸の学問や工芸が
伝来し、上古において黄金時代を向
えた時代である。


社伝では天智天皇の御代に栗見大宮天神の相殿に応神天
皇をお祀するが、
桓武天皇の天応元年(781)に若宮
ハ幡に勧請したのが当初造営のはじめと記
される。さて、
このハ幡神社社蔵文書に、『守房親王」について次のように
記されている。皇統第五二代淳和天皇の第二皇子に守房親
王が存在したが。親王は幼少の頃から読書をよくされ、文才
が豊かであり、成人なるとと和漢の学に通し、文筆に、
当時
の朝廷で並ぶものなしと称される。仁明天皇の承和
十二年
(845)の秋である。親王は都において匿名の
文書を道に落して人に拾わせたり、門や壁に貼りつけて
流布したりして、当時の世相を風刺したため、これが発
覚し天皇の怒りにふれ、九州の薩摩に配流されることに
なる。

公卿や大臣は大変驚き、「勅命には叛くことはできない
が、とはいっても皇族という御身、遠国に配流されるの
を臣下として見るに忍び難い。近国に薩摩という里はな
いものか。」と寄りより協議の結果、淡海国薩摩は京に
近く、そのうえ地名が同じであることからとして、天皇
のお許を得て、この地に配流されることになる。薩摩村
の配所に住居を設けられた親王は、やがて稲村大明神神
社境内の風光明媚を愛でられて、稲村山に移らされる。

ところが、親王のご高徳を聞いた
田附村の人びとは、若
宮八幡(現八幡神社)の神官にとお願
い申し上げたとこ
ろ、親王はその願いを快く受け入れられ、稲村山滞在一
年余にして、嘉祥元年(848)の春、田附
村に移える。
「親王は、かねてより若宮大明神を厚く崇敬しておられ
たため、大明神が老翁となられて
親王の道案内をなされ
ましたが、当社にご到着になられるや、忽ち老翁の姿が
かき消える
。親王は、不思議に思っておられると、その
夜のこと、夢の中にさきの老翁が神
のお姿をして現われ
旅のお疲れを槙い給うた。」と、八幡神社に伝わる御宮
記録には
樹々の繁茂したなかに親王の碑は静かに佇んで
いる。碑の背面
親王のお移りの様子を誌している

親王は、「神官はわが身に適している。これ天がこの地
をわ
れに付与せられたのだ。」と大変喜ばれ、姓を田附
と改められ
て神事を司っておられたが、九六歳にして惜
しくも罷去する。親王の憂去を歎き悲しんだ田附村の人
びとは、この若宮ハ幡宮を末代まで護っていただこうと
して、社殿の北、三十坪という地に手厚く亡き親王のご
遺骸を葬り、この墓を堂葬司と呼びんだ。

明治生まれの故老の話によると、墓地は、もとは三絃(
三回)余の小山をなしていたため、「みそうち山」とも
呼ばれていて、墓前には木製の燈龍が建っており、毎夜
御燈明か灯されていたという。木製のこの燈龍もその後
朽ち果て、さらに堂葬司(みそうち山)の面積も壱畝参
歩二阿余)に縮小される。さらに、圃場整備の施行で、
昭和四十五年(1970)3月15日のことです、この
墓地を田附の上墓地に移される。そして、「守房親王之
碑」が新しく建立された。毎年3月15日には、親王祭
が執り行われる。
 
なお、この守房親王が、後世三ツ屋が丘に城を築き、田
附城主となった前田附氏の先祖である。ついでに、右の
記述
はハ幡神社社蔵文書によったものだが、淡海温故録
にもほぼ同様のことが記述されているという。

[守房親王の碑 彦根市田附町 0749(43)4041(彦根市
稲枝地区公民館)」


①神功皇后

仲哀天皇の皇后。名はおきながたらしひめ息長足媛。開化
天皇弟五世の孫、息長宿禰の女。天皇とともに熊襲征伐に
向かい、天皇香権官に崩御の後、新羅を攻略してほむたわ
けのみこと凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産。
摂政七〇年にして崩紀伝承による。


【エピソード】 

   

● 新年会の企画について  

ご無沙汰しております。
歳も押し詰まってきました。今年は幹事の都合で新年会を
取り止めにさせて頂きました。今年は、谷口さん、山田さ
ん、中村さん、芝原さんなどとは個人的ご挨拶などさせて
いただいておりましたが、新年度は下記の案で企画してお
りますので、肩肘はらず(いつものようにですが?)旧交
暖めたいと考えております。ご意見がございましたなら、
メールや電話などでお知らせ下さい。
なお、こちらからお邪魔させていただくやもしれませんが
その折りはよろしくお願い申し上げます。
 

        16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願います)
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                               幹事敬白 


  

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コンテ
    スト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣府 経済社会総
    合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
    L. Kelling
  27.  K. Keizer, S. Lindenberg, L. Steg(2008) "The Spreadi-
    ng of Disorder", Science, 322, 5908
    , pp1681 - 1685
  28. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町
  35. 城郭都市 Wipipedia
  36. ハイデルベルグ Wikipedia
  37. 田附城(田付城) 近江国(彦根)
  38. 荒神山古墳現地説明会 開催要項(案)彦根市

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