【佐和山城郭都市考】
● 佐和山城から彦根城ヘー
城郭移築の意図するもの
中世の山城から近世の平山城あるいは平城へ移築し、城下も
移転させることは、この時期においては、一般的な現象とい
える。これは、城地の選定理由として、軍事中心優先から経
済・交通条件の重視への変革の要請からきているといえます。
しかし、石田三成の佐和山城は、さきにもふれたとおり
経済・交通条件を井伊氏の彦根城と比較してみると、佐
和山城は中山道と北国街道という一大交通の要衝である
うえ、琵琶湖に通じている松原内湖を足下に控えている
ことにより、さらに経済条件もより機能を果すことがで
きる。ここで、佐和山城から西南方面、僅か二キロほどし
か離れてはいない彦根城の立地条件を見る。
彦根城は、確かに琵琶湖と松原内湖(現松原干柘地)に
面してはいるが、交通の根幹となる道路を見ると、中山
道とは、遠く東海道草津から岐れ、朝鮮人街道を通して
城内に至り、鳥居本を経て中山道に接続することになる、。
もっとも北国街道には通じてはいる。また地勢を見ても
彦根山は、東南の佐和山、大利山が屹立しているため、
この方角の視野が効かない。
これらのことから見ても、近世的城下町プランを展開さ
せる場としては、佐和山城は何等遜色はない。ところが、
井伊氏-徳川家康は、むしろ積極的に城を廃棄すること
を目的に、なぜ彦根山を中心とする新しい城郭と城ド町
を構築したのか?それはつぎのような具合いに実行した。
「井伊家年譜」によると惣テ石垣櫓門等迄、佐和山、大
津、長浜、安土ノ古城ヨリ来ル
とあり、天守も大津城 を移築したもの。
また本丸表口の櫓門太鼓櫓は彦根寺のものの移築と推
定されており、下層の大扉や脇の竪格子板張り、鎧柱・
冠木などの木割りや構造が古く、しかも前身は現在のも
のより規模の大きな建物の門、-冠木の長さ・高さから
見て、おそらく彦根寺のものに佐和山城など、山城の谷
間に設けられていた城門ではないかとされている。
「淡海古説」の伝えるところによると、一帯の石仏塔
堂柱木ともに皆御城石垣のうら詰(裏龍)に致し候と
いうこともあった。
ですが、佐和山山頂の「石田の本丸直政公御拝領後に
九間切落したり。」とあり、旧来の寺社に対する「破却
ノ似付」られ様はただごととは思えない。
さらに「淡海落穂集」を見てみよう。
慶長年間(1603)彦根山に御城がつくられることに
なって、それまでこの山にあった彦根寺や門光寺が移された
際、そのほかの欽明殿・養花院などの社寺も他の土地へ移転
するようにという奉行の申付けをうけ、犬上大明神をも取除く
よう仰付けられたので、作印・庄作・丁玄など彦根村の百姓
たちが、昔からの格式のある社堂だから替地を賜るよう申し
立て、その奉行とは激しい言い争いをしたところ、官一礼と寺
の本尊二肺、それに坊主三人を残らず船に乗せ、多景島坤
で沈めてしまった。それで他の百姓たちは恐れて誰も文句を
いう者もなく、仮の場所を定め、犬ト大明神はハ目(旧豊郷村
)に移し、広台寺は中薮に移したが、その後、火事にあって
この寺は絶えてしまった。
彦根山における新しい城郭建築の真の狙いは、三成の佐和
山城。さらに遡って秀吉の長浜城、信長の安土城までも含めて
旧勢力の残滓を一掃しようとしたものであり、それは、ただ彼
等が拠った城郭の撤去というに止まらなかった。
其時の奉行人至って不才覚の人にて有しや、不仁とやいわ
ん、往古より名高き古跡其の外神社仏閣迄、大分退転せし事
ありといふ「彦根藩並近郷往古聞書」 これも、この方策の一
環だったろう。
井伊氏は、何時、三成の残党が立ちあがるかも知れぬとい
う情勢のなかに繰りこんできたのです。多人数の集会を危険
根し、厳禁しているのも、当時の軍政の常道だったと考えた。
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①平山城
天然の地形を利用した要害という点では、山城 はその
戦略的機能を十分 に果たし得ましたが、恒久化するに
つれて、また麓にいわゆる城下町がつくられるようにな
ると、機能を果し得なくなりました。そこで平野の中の
小高い丘を選んで城が築かれた。これが平山城です。
②平城
戦乱が収まり平和が続くと、城は戦略的な 拠点である
よりも政治の中心としての色彩を濃くする。そしてつい
には領主の権威の象徴としての性格を帯びる
③木割り
柱の寸法を基準としてかもい なげし 鴨居や長押など
の造作材の寸法を定めることをいう。日本古来の大工の
基準があり、例えば、鴨居の幅は柱の8・5~9分取り、
長押の成は柱の6~7分取りという具合です。
④冠木
門柱の上部を貫く横木。 桂の頂上より少し下にある点で
笠木と異なります。
⑤奉行
上命を奉じて公事・行事を執行すること。また、その担当者を
いいます。
序説 ヘルダリーンと現代
ツェラーンの自作詩朗読
ツェラーンの 1970年3月ド旬、ドイツの詩人ヘル
グリーンの生誕二〇〇年を記念するヘルダリーン協会主
催の行事が開かれ、当時ヴュルツブルク入学で教鞭を執
っていた私は開催地シュトゥットガルトに向かった。
同じ生年(1770)のルートヴィヒ、ヴァン・ベートーヴェン(~
1827)やヘーゲルらに較べれば、一般への知名度には欠け
るだろうが、現地にはこの詩人を愛する人々が多数つめかけ
南ドイツの三月末はまだ冷たかったにもかかわらず各催しに
は暖かい空気が吹き通っていた。
そのなかで、関心を持つ者からは特に待たれたひとつがあっ
た。パウル・ツェラーン(1920~70)の自作詩朗
読である。すでにドイツ国内を中心にいくつもの文学賞
を受賞し、彼の文学声価は定まった感があった。しかし
両親がナチスの強制収容所で次々に虐殺され、自身も強
制労働に従事、以後も今度はソ連の全体ド義ドに置かれ
るというい二つのイデオロギーに晒された悲劇的な前半
生に起囚する苦悩は、年毎に加わる傷痕を増人させなが
ら精神と肉体の最深部に達してしまっており、この時の
健康状態も極度に良くないと伝えられていた。
したがって、ツェラーンが予定通り小さな会場に姿を見
せたときの私の喜びは人きかった。そして末発表詩篇「、
光の強迫」を朗読したのである。現代ドイツ語圏を代表
する詩人の肉声は、ひょっとしてこれがヘルダリーン自
身から発せられたのではなかったかとすら思われる声音
の震えがあった。やはりj想通り衰弱の極みに及んでい
たせいか、いくつかの徴候が朗涜時に現れたために聴衆
の.郎からは騒めきも起こり、遺憾ながら完全な静寂で
聴かれたのではない。このご肺の拒.心ぃ反応は、ツェ
ラーン自身にも聴衆への耐え難い不快感と不信とを惹き
起こしたであろう。しかしこの瞬間を待ちつづけてきた
私には、そのような騒めきの反応は、彼の肉声を妨げる
ものとはならなかった。ツェラーンは行りのままの全て
の万を傾けつくして、詩人の唯一の証明の自作詩を読ん
だのだ。
それから約一か月後に生じたセーヌ川への彼の入水も衝
撃だったが、朗読はそれ故ほとんど最後の生の場に居合
わせ、肉声の唇作目まで聴き取った者にとっては、ひと
りの現代詩人の生と死を貫く声となったのである。しか
もその声は、声を発したツェラーンを喚び寄せたヘルダ
リーンヘと結ばれていく。山が時間と場所を越え、生者
か死者となり、死者らはいまひとつの声と化して声が詩
人らを媒介するのだ。小磯仁訳『ヘルグリーンとツェラ
ーン――内なる越境者の聲』(學鐙)第78巻、1981
年6月号20~23頁) 参照)。
【エピソード】
16年度新年会(案)
日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願いま
す)
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿 彦根観光協会
- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
- 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
- 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
- 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
- 中山道高宮宿 馬場憲山宿
- 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
- 新高宮町史 自費出版デジタル
- 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
島一 サンライズ印刷出版図 2002.9.20 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コ
ンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣府
経済社会総合研究所 - ボーデン湖 Wikopedia
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ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07 - いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
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式日本語 - 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会 編 サンライズ出版
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絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』 、詩文楽 - リンダウ - Wikipedia
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- 城郭都市 Wikipedia
- ヨーロッパ100名城 Wikipedia
- 八幡神社 滋賀県彦根市田附町488
- 三ツ屋城 近江国(彦根)
- 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
- 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ)
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- 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
- 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
- 万里の長城 世界史の窓
- 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
山近久美子(防衛大学校)2005.08.25 - ヨーロッパ100名城 Wikipedia
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- 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
の成立 - 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
- 石田 正継 Wikipedia
- 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会
- 彦根藩並近郷往古聞書
- 井伊家年譜
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