● ヘルダーリンの故郷 6
家の天使よ 来れ! すべての生の血脈に
すべてを同時に喜ばせ 神の力が分たれるように!
神の力よ 高めよ! 若返らせよ! 人間の善の一切
一日刻限の一切が 朗きらかな天使を伴うように
愛し合う者が再会する時の喜びが
場にふさわしく清められているように。
我らが宴を祝う時 誰の名を私は呼べばよいか。
一日のいそしみから憩う時 どのように感謝したらよ
いか。
至高者の名を呼ぶのか? 神は不躾(ぶしkつけ)を
好まない。
神を捉えようにも 我らの喜びはさやかに過ぎる。
口をつぐまねばならない。神聖な名が脱け落ちている。
心ははずむ しかし言葉はついて行かない。
だが 絃楽はすべての時に音を恵み
近づく天上の者に 喜びを与えもしよう。
その用意が整えば 歓喜に忍びこんだ
憂愁も ほとんど宥和されている。
憂愁を 否応なしに歌人は
心の内に荷わねばならぬ 世の人々とは異って。
フリードリヒ・ヘンダーリン 『帰郷』
Engel des Hauses, zu kommen! Möge die Macht des
Himmels Spread
Durch alle Adern des Lebens, Veredlung und belebend
Und Abgeben Freude! So dass fröhliche Engel besuch-
en auf
Menschliche Güte jede Stunde des Tages, und das
Eine solche Freude, wie ich erlebe jetzt, wo Lieben
Korrekt wiedervereint, in geeigneter Weise geheiligt
werden.
Wenn wir segnen das Mahl, auf wen soll ich sagen,
Und wenn wir uns ausruhen nach der Tagesaktivität,
sag mir,
Wie werde ich bieten dank? Soll ich das Höchste beim
Namen?
Ein Gott, der nicht mag, was ungeeignet ist. Vielleicht-
unsere Freude
Ist nicht groß genug, um ihn zu erreichen. Wir müssen
oft schweigen,
Eine heilige Sprache fehlt - Herzen schlagen und doch
Speech kann nicht entstehen? Aber der Klang der Strei
chmusik
Resonanz von Stunde zu Stunde, und vielleicht gefällt
Die Annäherung an Götter. Beginnen Sie die Musik
und die Sorgen
Fast verschwinden, die unsere Freude beeinträchtigt hätte.
Willig oder nicht, muss Dichtern oft beschäftigen sich
Mit solchen Dingen, jedoch nicht mit anderen.
Friedrich Hölderlin "Homecoming"
【佐和山城郭都市考】
● 石田三成の居城佐和山城
石田三成の銅像
まず、琵琶湖と東近江平野とその里山あるいは鈴鹿山
系を後背とした新しい城郭田園都市構想するには、佐和
山城とその城郭都市を温ねる必要がある。
石田治郎少輔三成は永禄三年(1560)滋賀県坂田
郡北郷里村石田(現長浜市石田町)に生まれました。こ
れは、ちょうど今川義元と織田信長の桶狭間の戦の年で
あった。
石田町には、いまも石田屋敷跡と呼ばれる空地があり
昭和十六年(1941)に発足した石田三成公事跡顕彰
会が建立する出生地を示す石碑がある。その空地の横に
は周囲三〇ぴほどの池が、石田屋敷の濠であったといわ
れ、田家は藤原系で、京極家に仕え、曽祖父を蔵人人道
妬沢、祖父は陸奥人道清心、父は隠岐守正継といい、屋
敷跡の広さから推測しても相当の旧家であったことがわ
っている。
三成の幼名は佐吉、天正二年(1574)15歳のと
き羽柴(後の豊臣)秀吉に召し出され、微るいお茶から
次第に熱いお茶に代えて所望に応えた、いわゆる「ニ椀
の才」を認められたことは、有名なはなしとして伝わっ
ている。実はその場所が坂田郡誌では大原村の観音寺で、
伊香郡誌では古橋村の法華寺であるとして、本家争いを
しているが――それはともかく、湖北の旧家の二男にす
ぎなかった佐吉が、18歳で小姓頭になり、以後その才
幹を秀吉に認められ、25歳の若さで豊臣内閣の首席大
臣に上り詰める、従五位下治部少輔に任ぜられ、五奉行
の一人になり、二十三万有の佐和山城主となった。
ここで、佐和山城の変遷について見ておこう。創始は、
鎌倉時代。佐々木十代之屋形太郎判官定綱が初めてこの
地による。佐保山と称していましたが後世、佐和山と
改名、佐波山、沢山とも書く。永正年間(1500頃)
京極氏の臣、上坂景重が湖北で勢力があって六角氏と年
々戦た地。大永年間(1520頃)六角氏の勢力下築城
。小川左近大輔が城主となる。浅井亮政は、六角氏の守
将を逐い、磯野伊予守貝吉、次いで養子丹波守貝昌まで
二代これを守る。
元亀元年(1570)6月28日、城生貝昌は浅井勢
として姉川合戦で戦う。浅井勢の敗退により織田方の氏
家、安藤の二隊を突破して本城に帰還。七月一日織田信
長は本城攻撃を開始、員昌よく防戦。信長はは強襲の不
利を察して長囲の策をとります。東百々屋敷方面に丹波
長秀。南、水野下野守。北、市橋九郎左衛門。西彦根山。
河尻与兵衛を配置して守らせます。員昌は、八か月龍城
を続けた。
彦根城天秤櫓より佐和山城跡を望む(中央の山が佐和山城跡、その向うが鈴鹿
山系の山なみ)
信長は、浅井長政と妥協開城。そこで、信長は員昌に
高島郡一円を与える。そして丹波長秀を守将に、大正十
一年(1583)秀吉は堀秀政を城主とし九万有に封じ
ている。大正十三年、秀政、越前北の庄に移るや近江坂
本から堀尾古蹟佐和山城主となる。
大正十八年(1590)古蹟は遠州浜松へ転封。石田
三成は水口で四万石の城主でありましたが、その臣島左
近に一万五千石を与えて士を愛する名将と謳われました。
秀吉は、石田三成が関東征伐に大功があったとして、佐
和山城主とし、江北二十三万石を領せしめました。
石田正継
それから関ケ原役までのまる10年間が彼の城主時代
であり、三成は五奉行の一人として中央の政治に参画し
ていたから、領地に帰ることは殆どなく、父の隠岐守正
継が城代として殆ど取りしきっているが、城の修築には
彼自身が総指揮を行っているという。
鳥居本を大手に、松原内湖(現桧原干拓地)に面する
蛇ケ谷を搦め手とし、五層の天守の聳える本丸を中心に
西の丸、二の丸、三の丸、太鼓丸、鐘の丸、法華丸の城
壁を備え、搦め手の大利一帯に重臣の邸宅を構え、一般
の家臣の官舎は松原にまで並び、大利一帯を城下町に造
りあげました。また内湖には幅六八、長さ六〇〇びの百
聞橋を架けた。
島左近の邸は、いまの清涼寺のところにあったという。
このように堂々たるものでしたが、内容は極めて質素で、
どちらかというと実用本位とし、城の居間などは板張り
で、壁も荒壁のままだったといいます。この近くの西明
寺に残る板絵は、この佐和山城を写し描いたものだとい
われる。ここの城主としての三成の民政ぶりは、後世ま
で伝わるほどの仁政を布くが、学者肌だったという父正
継の性格も大いに反映していたともいわれる。
[佐和山城]彦根市古沢町 ・0749-24-7971 彦根市教育
委員会)
①姉川合戦
姉川は滋賀県東浅井郡 を流れる川。伊吹山に発 源、
琵琶湖に注ぐ。元亀 元年(1570)織田信 長が浅
井長政・朝倉義景 を破った合戦。
【エピソード】
16年度新年会(案)
日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願いま
す)
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
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- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
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- 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
島一 サンライズ印刷出版部 2002.9.20 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コ
ンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣府
経済社会総合研究所 - ボーデン湖 Wikopedia
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ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07 - いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
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- ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06 - 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
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の成立 - 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
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