淡海道の 鳥籠の山なる 不知哉川
日のころごろは恋ひつつもあらむ
犬上の 鳥籠の山にある 不知哉川
いさとを聞こせ我が名告らすな
● 壬申の乱と彦根
湖の都は、ひっそりとしている。内裏や寺院も、ここか
ら見える位置にある。
崇福寺の五重の塔は、まだ完成していない、足場はかけ
たままになっていた。
大友の皇子は、浜の台へ出て、はるか湖上へ眼を転じた。
湖上は、なにごどもないかのごとく静まりかえっている。
今は、漁火ひとつ見あたらない。―― 中略 ――大友
の皇子は、想い出した。そもそものきっかけは、この浜
の台で起った。父の近江の帝(大智)と、叔父の大海人
の皇子(天武)は、同じ女を争ったことがある。のちに
情熱の歌人と呼ばれるようになる額田の女王は、はじめ
大海人の寵愛をうけたが、のちに帝に召しあげられるよ
うな形になった。大海人は、宴の席で、槍を振りまわし
て、大暴れをした。大友の皇子はこの日で、不和の発端
を目撃したのである。大海人と額田のあいだに生まれた
十市の皇女は、大友に嫁いでいる。
―― 中略 ――
大友の皇子は、昔から、この叔父とは肌合が合わなかっ
た。陰気な感じの男で、父帝の弟とされていたが、実際
には、父帝よりも年老いて見えた。大海人の皇子は、近
江の都にいることも少なく、得体の知れぬ人物であった
。叛乱は、あっというまに拡がった。多くの敗報があい
ついで都へもたらされたが、大友の皇子は、まるで夢で
も見ているような気分でしかなかった。
豊田有恒『大友の皇子東下り』
ところで、天智天皇の五年(666)の冬のことであっ
た。「都のねずみが近江へ向かって歩いた」と日本書紀
の中にある。その翌年に大津への遷都と発表する。反対
する人も多かったらしく、放火などの騒ぎもあったが、
天智天皇は大津宮の建設をはじめた。近江の大津がなぜ
部に選ばれたかについては、種々の説があるが、中臣(
藤原鎌足の意見に加え、中国の影響で律令を中心にした
政治を行うために遷都したというのが、多くの研究者の
考え方で、近江の息長宿弥・小野妹子・犬上の御田鍬ら
の援助が必要だったともされている。
大津宮で天智大皇は、まず「近江令」を制定し、冠位を
改正、庚午年籍と呼ぶ戸籍を策定する。しかし、それよ
りも重要なのは渡来人の移住です。天智大皇四年(66
5)に百済から男女四百余人が神崎郡へ、また八年には
鬼家集斯ら七百余人が蒲生郡へ移り住む。
ところが、大津宮はわずか5年で滅んでしまう。弘文元
年(673年)六月壬申の年6月、天智天皇の弟の大海
人皇子(後の天武天皇)が、天智の子である大友皇子(
弘文天天皇)を首長にする近江朝廷に対して起こした古
代最大の内乱が起きた。弘文元年(672)6月大海人
皇子は美濃国へ岐阜県 安八郡の多田品冶に使を送って
兵を集め、東国への交通の要所である不破関を抑え、続
いて自らも美濃に向かい、野上「関が原」に行宮を置き
本拠にした。
大海人軍は、伊貿、伊勢、尾張、美濃およびそれ以東の
諸国から集めた兵により大和、近江のに方面に核数万の
軍団を配し、進攻を開始し、野上を出発しか大海人軍は、
息長横河で、大津から来た大友軍の山部王や蘇我果安、
巨勢比等と戦闘。大海人軍は勝ち進み中山道の鳥籠山(
床山、彦根に所在)の戦いで山部王が殺され、蘇我田果
安は自殺する。ところが、これまで大友軍のもどにあっ
た蒲生郡の羽田八矢国が反逆し、大海人軍へ寝がえる。
勝利を続ける高市皇子を総指揮者とした大海人側の主力
軍はさらに湖南へ進車、野洲川を越え、栗太郡を経て、
7月22日には、瀬田川付近で大友側の主力軍と戦ってこ
れを破り、瀬田川を渡る。
乱の勝敗は、ここで決し、翌23日、大友軍は退路を失
い、大友の騏子は、長等山の山前(崎)で死んだと伝え
られている。そして高宮たちも捕らえられる。大津宮も
戦乱によって破壊炎上し、壬申の乱は終わる。
ところで、大津宮を東から攻めたので、大津宮は簡単に
滅んだといわれている。もし、南から大津宮を攻めてい
たとすると、大友軍はそう簡単に負けなかったという見
方もある。大津宮は東国や北陸の勢力の援助をうけるこ
とができずこれが敗因とされる。
勝利を収めた大海人皇子は同年8月、大和の飛鳥へ帰り、
浄御原の新宮に入る。やがて天武天皇となり、この新王
権のもとで、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形
づくられていく。大化の改新で計画された天皇制律令国
家の成立に関し、この乱のもつ歴史的意義は大きいもの
がある。
鳥熊山(床山):大堀山ともいい不詳。彦根市地蔵町と
も原町ともいわれている。
【エピソード】
下記の通り当会を開催いたします。
16年度新年会ご案内
下記の通り当会を開催いたします。
日時 2月13日(土)
開宴18:00~20:00まで
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 送迎バスは以下のようになります。
(1)17:45 JR彦根駅西口(彦根城側)
(2)17:55 戸賀町交差点西入る10メートル
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 「地域資源・交通拠点等のネットワーク化による
国際観光振興方策に関する研究」国土技術政策総
合研究所 プロジェクト研究報告 2008.05.21 - 「歴史まちづくりのてびき(案)」ISSN 1346-73
28 2013.11.13 - 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 国土技術
政策総合研究所 2013.04.11 - 「城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷出版
部 - 「続・城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷
出版部 - 中島一・水野金一・田中治是『建築空間における
都市計画額』コロナ社 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣
府経済社会総合研究所 - The Neckar river near Heidelberg Wipipedia
- ラウフェン・アム・ネッカー Wipipedia
- ボーデン湖 Wikopedia
- コモ湖 Wikipedia
- ネッカー川 Wikipedia
- 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
- 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
- 三島由紀夫 著『絹と明察』
- 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論とし
ての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷
』詩文楽 - 三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論として
の『絹と明察』(1)~(7)詩文楽-Shibunraku - フリードリヒ・ヘルダーリン Wikipedia
- フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千
夜千冊 - ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思
索頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.
09.06 - 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳 - 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
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- 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
- 万里の長城 世界史の窓
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山近久美子(防衛大学校)2005.08.25 - ヨーロッパ100名城 Wikipedia
- 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ
出版 - 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
- 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27
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