城郭都市設計史 23

2016年02月15日 | 湖と城郭都市

 

【近世の彦根】

● 城下町のスケッチ Ⅰ

天下分け目の戦、関ケ原の合戦が徳川家康の勝利に終わ
る。慶長五年(1600)9月15日の午後、家康は、
さらに近江に進み、石田三成の佐和山城を攻め、凄まじ
い攻防戦の末に落城。落城後の佐和山城には、関ケ原合
戦と佐和山攻撃の論功行賞の結果、佐和山城には井伊直
政が封ぜられる。石田三成の旧領近江国において15万
石と関州上野国の3万石と合わせて18万石となる。

ところが、佐和山城は、石田方の必死の防戦のあとで、
櫓ほ
か城の建造物は焼失し、「焼余ヲ修シテ居ル(『井
伊家譜』)」状態であった。井伊直政は、佐和山城に入
城するが、修築に本格着手せず、佐和山の西の琵琶湖、
渚に近い磯山に移築しようと準備を進めたが、関ケ原合
戦の折にうけた鉄砲疵が原因で、慶長七年(1602)
2月1日、42歳で亡くなる。嫡子直継(のち直勝と改
名)が後を継ぐが、直継がまだ13歳の幼少でもあり、
結局井伊家の老臣らが協議し磯山への移城をとりやめ、
彦根山へ移城決定する。

これは、『偲川実紀』慶長九年(1604)7月朔日の
条に「井伊右近大夫直勝が近乱国佐和山城を彦根に移さ
る。これ直勝が父兵部少輔直政が遺志をもてその臣木股
土佐守勝、去年聞江あげしによりて、この城は帝都警衛
の要地たるにより」とある。磯山移築計画は、幕府の力
により彦根山移城計画に代えさせられた。

なぜ直政は濃尾・北陸への要衝にある要害堅固な山城佐
山を廃し、磯山に移そうとしたのか?(1)まず、当
時すでに山
城の時代は去り、平山城か平城の時代になっ
ていたこと(2)
石田三成の城であった佐和山城は、、
新しい治制
をしくために石田色を一掃するためであった。彦
根城を築くにあたり、佐和山城の残余の資材を用い、秀吉の
長浜城、信長の安土城の資材を用い、転用していることは、
旧勢力の継承を断絶するという示威であり、直政は新たに城
下町を建設する。

豊臣秀頼、淀殿が大阪城に存命し、西国、九州の外様諸大名
への監視を緩めるわけにもいかないことから大阪城包囲
網方策がとられました。これは伊賀上野、丹波篠山に築
城、近江にも堅固な城郭を築き譜代大名に守らせると
うもの。その一環として彦根城築城が位置つけられると
いう文化地勢学的背景があった
天下普請のため幕府か
ら第一期の監督として山城宮内少輔忠久、
佐久間河内守
政真、犬塚平右衛門の三名が派遣され、さらに伊賀上野、
筒井伊賀守定次な
ど、七カ国十二大名が助役を命ぜられる。

この築城の経過を年表風に追うと以下のとおり。

慶長八年(1603)築城の起工→翌九年 鐘の丸完成
→慶長11
年 本丸天守が完成(大津城から移転)→足
軽中薮組屋敷を設置→大阪
冬の陣、夏の陣のため工事が
一時中断→
元和二年(1616)以後の第二期工事の総
奉行には奥山六左衛門等、普請奉行に植田
長左衛門等、
作事奉行に塩野左近右衛門らが命じられる→
元和三年、
(1617)善利組を設置→
元和八年(1622)御城
廻り、石垣、高塀、諸門などができ、城郭はほぼ出来上
がる
なお彦根藩士で築城工事に関係したものは、縄張
り(城郭内の建物を中心とした平面計)に横地修理吉晴
等、普請奉行(石垣、土木担当)に富士喜太夫等が、作
事奉行(建築担当)に宇津木新九郎等、大工棟梁は浜野
喜兵衛が担当。

● 彦根城下町建設物語

大名および小名たちの居城である城郭を中心に成立し、
そして発達した都市を城下町と呼ぶ。天守を含む城郭を
中心にして、その周りに石高に応じて武家屋敷がとりま
き、その外側に町人地が広がり、これを囲んで拠点的に
足軽など下級武士の居住地区を配置するのが一般的な形
となる。さらに城郭や武家地の周りは濠で囲まれ、町人
地との往還を制限。また街路は基本的には格子状のバタ
ーンだが、戦略のうえから要所要所に「食違い十字路」
やT字路が用いられる。また適所に寺院が配置されてい
るのも同様な意図から構成配置される。

慶長八年(1803)、彦根城築城の工事が開始される
とともに、城下町の建設も始まり、『浅海木間擢』には、
町建て以前の彦根の状況を次のように描写している。
います。

 彦根の地は往古は荒野刑輯のはびこれる地にして、
 山野沼厚交接して人家別たず。所々往古の民有て皆
 世渡に漁猟を業として且暮を過る者共なかりしに、
 古昔人廃村子、武川綱此両将山を讐て地を平け開き
 て、此所最上地となし、人民を安堵せしめ、三根之
 地を起し玉ふと云々(中略)慶長五年石田滅亡の後、
 佐和山の城、井伊兵部少輔直政、君拝領し後、島右
 近太輔直勝の代に此彦根山に城を築き移居し、其時
 観音を城下に移し金亀山北野寺と号し、則城主の祈
 願所とすと云々。往古は里根、彦根、長曽根、三郷
 を三彦之地とも云、又三根の地とも云し由。後は三
 根の地と定りし由。(後略)


城が完成していくにつれ、城下町も順次形を整えていき
ました。花居清心の作といわれる『彦根古絵図』では、
その姿が描かれている。もともとは尾米山が彦根城のあ
る彦根山の東の端にあったようで、尾米山の一部を削り
とった大量の土砂が低湿地帯を埋めて城下町が建設され
る。この湿地をうまく利用して外濠を造成。また古地図
では、石田三成の居城があった佐和山の麓に小さな城下
町がある。



□ 彦根城下町の地域制(元文元年)(1736)
I~IV : 侍屋敷〔I : 1000石以上(ただし内曲輪以外の白
の屋敷は禄高不明を示す、Ⅱ: 500石以上、Ⅲ:300以L、
IV :
100石以上、Ⅴ:50石以上〕、Ⅵ:歩行・足軽組屋敷、
Ⅶ:町屋

● 彦根山の山頂に築いた城下町計画

まず四つの区域に分けている。(1)天守を中心とした
城郭で
東の麓に城主の邸宅ができ、政庁(藩庁)として
の表御殿を
配置、米蔵や竹蔵、材木蔵が軒をつらね、内
と高い塀を配し、要所に表門、裏門、黒門、山崎門、
大手橋を配置。(2)
内濠とそれをめぐる大きな道をへ
だて、家老や1000石以上の武士の邸を配置。藩主の
別邸槻御殿(現在の楽楽園)や作事小屋などを配置。
(3)武家
屋敷と町家、(4)東、南、西の三方に土塁
と竹薮をめぐらし、これを外濠で囲み
町人と比較的低い
身分の武士もここに居住。

これら城下町の景観は、現在でも至るところで見ること
ができ、特に第一郭にあった藩の家老、西郷伊撞の長屋
門(現在は大津地方裁判所彦根支部)は、節子下見黒塗
り白壁大壁造りの堅牢な姿を今に伝たわる。町家地帯は
道も狭く、さらに至るところに稲妻型の屈曲が設けられ、
白壁の家が連続し、紅殻格子の静かな佇まいを呈してい
て、藩政時代を彷彿させる。さらに、下町の町名は『近
江輿地志略』にみられる武士の職掌の町名には、勘定人
町、小道具町、餌差町、鷹匠町などがあり、町人町には
職業による集団居住の形態がみられ、魚屋町、紺屋町、
油屋町、連着町、伝馬町などで、職人町としては、上細
工町、大工町、鍛冶屋町などの名称――もっともこれら
の町名は、ほとんどの全国城下町に共通する――あり、
その他、彦根独特の町名については由来は定かではない
が、築城当時四十九番目の町だったから四十九町とつけ
たとの説と、豊郷の四十九院の分院があったところから
四十九町とついたという説が伝わっている。

①徳川実記:江戸後期の史書。江戸蘇府が大学頭林述斎
を総裁
として、成島司直らに編 修させたもの。徳川家
から十代将軍家治までの歴代将軍ごとに区分した編年
史。なお、十一代家斉以降を記した「統徳川
実記」がある。

②四十九院:行基が畿内に建てたという四十九の寺院。

③花居漢心:
絵図註記の冒頭の文に、次のように記され
ている。「花
居清心初め金阿弥といふ、直政公未だ万千
君と申奉り、十五歳にて天正三乙亥年権現様御鷹野に
於いて、召出させ給
ひ、浜松へ召連れさせ給ひ、御台所
に当分御部屋
を遺はされ御召出の衆上下十六人、御附金
阿弥と申す
坊主御附置之有り、此金阿弥後に花居詩心と
改名し御奉公仕り知行三百石下さる。直政公御逝去後、
直継公御代御暇申し
上げ、在所へ引龍り罷在り、直孝公
御代にも度々
御目見得に参上云々」

【エピソード】   

            

朋友、雲の如く集まる。13日、新年会無事挙行することが で
きました。感謝申し上げます。加齢齢とはえ、まだまだ、
現役でがんばれそうですね。そこで、桜の花が咲く頃に
「シニア起業」しても面白いのではと思ってみました。
構想ができあがれば、ご相談申し上げます。

                                感 謝


【脚注及びリンク】
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  1. 「地域資源・交通拠点等のネットワーク化による
    国際観光振興方策に関する研究」国土技術政策総
    合研究所 プロジェクト研究報告 2008.05.21
  2. 「歴史まちづくりのてびき(案)」ISSN 1346-73
    28 2013.11.13
  3. 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 国土技術
    政策総合研究所 2013.04.11
  4. 「城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷出版
  5. 「続・城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷
    出版部 
  6. 中島一・水野金一・田中治是『建築空間における
    都市計画額』コロナ社
  7. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  8. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
    コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣
    府経済社会総合研究所
  9. The Neckar river near Heidelberg  Wipipedia
  10. ラウフェン・アム・ネッカー Wipipedia
  11. ボーデン湖 Wikopedia
  12. コモ湖 Wikipedia
  13. ネッカー川 Wikipedia
  14. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  15. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  16. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  17. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論とし
    ての『
    絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷
    』詩文楽
  18. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論とし
    ての『絹と明察』(1)~(7)詩文楽-Shibun-
    raku
  19. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  20. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千
    夜千冊
  21. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思
    索頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.
    09.06
  22. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳
  23. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  24. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光
    局公式日本語
  25. リンダウ - Wikipedia
  26. ハイデルベルグ Wikipedia
  27. ハイデルベルク城 - Wikipedia
  28. 城郭都市 Wikipedia
  29. ヨーロッパ100名城 Wikipedia 
  30. 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
  31. 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
  32. 万里の長城 世界史の窓  
  33. 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
    山近久美子(防衛大学校)2005.08.25
  34. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  35. 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ
    出版
  36. 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
    浩司 サンライズ出版
  37. 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
    大手門は必見 | 城めぐりチャンネル
  38. 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
  39. 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
    ・アーカイブ化に、彦根市立図書館  2012.05.27
      
  40. 彦根市指定文化財 「山崎山城跡
  41. 列伝 井伊家十四代 国宝・彦根城築城四百年祭 

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