【近世の彦根】
近世に入った彦根の城郭都市形成史の考察前に井伊氏系
の系譜に若干ふれておこう。
● 彦根藩初代藩主 井伊直政
彦根藩主井伊氏は、藤原氏の庶流(異姓分家)する。平
安時代の中頃のこと、三条天皇の御代、藤原共資は、遠
江守に任ぜられる。この子藤原共保は、三条天皇の長和
年間(1010)に遠江守に任ぜられ、遠江国引佐郡井
伊谷に居を構えていたとこから、井伊氏と称す。彦根藩
主は代々井伊氏の襲うところとなり、藩祖直政が慶長六
年(1602)石田三成の跡に封ぜられてから、明治四
年直憲の代の廃藩置県に至るまで、一度も転封はなく、
江戸時代を通じて十四代を重ねる(藤原氏に出て藩祖直
政に至るまで二十三世を経ているという)。
尚、井伊氏の系譜は、明治時代に諸諳を検討し大成した
中村不能斎の井伊家譜による。
● 直政の父-井伊直親
戦国時代の頃、駿河、遠江の諸豪族はすべて今川氏の傘
下にあった。井伊家二十世井伊信濃守直平も当然これに
属す。その孫にあたる二十二世直盛に嗣子(しし)がな
かったため従弟である直満の子直親を養子にしようとし
たが、家臣の陰謀により、今川氏に讒訴され、直満は誅
される。直親は危うく難を逃れ諸国を転々とするが、後
に直盛の正式な嗣子となる。
永禄三年(1560)桶狭間の戦いにおいて今川義元に
従った直盛はともに討死。嗣子直親は、井伊谷の祝(は
ふた)村に居をもっていたところへ、今川氏の老臣のた
め織田・徳川両氏に通謀されるものと讒せられ、討手を
指し向けらる。直親は身の潔白を申し開こうと、20騎
というわずかな兵を率い今川氏真のところへ向かう途中
で討たれる。
● 彦根初代藩主 直政
直政は、井伊家の中興の祖と仰がれている。JR彦根駅
前広場に馬上も豊かにまたがった勇姿を示す銅像がある。
直政の父は、さきの遠州井伊谷城主井伊肥後守直哉で、
母は奥山因幡守親朝の女とされる。
天正三年(1575)2月徳川家康に初めて謁する。家
康は、「汝は我がために命を落せし者の子なり、吾酬い
ずばあるべからず」と、父祖の地井伊谷に二千石を授け
さらに旗本菅沼・近藤・鈴木を寄騎として与えたため、
以後この恩義に深く感じて、不惜身命の忠節を尽くした
という。天正四年(1576)徳川家康が遠江柴原の地
に対陣の時のこと、直政十六歳の初陣において大功を樹
てる。
これにより直政は駿河国益津郡方上ノ庄庸峯の地一万八
千石を賜ります。その後天正十年(1558)には、武
田氏との戦いによる功により駿河国で二万石を加えて四
万石を加増される。因みに、直政は大小16度の戦いに
参加するが、一度も敗れたなかった。その戦法は、常に
大将自ら先頭に立つというもので、そのため井伊軍団は
全軍火の玉となって敵陣に突進すると讃えられる。
これを「突蒐」(突撃)と呼ばれる。やがて豊臣秀吉の
天下統一により、家康が江戸に封ぜられるにともない、
直政もまた上野国箕輪城主に封ぜられ十二万石の大名と
なる。慶長五年(1600)の関ケ原の戦いでは軍奉行
とし全軍を監し、勝利に導いた功で、慶長六年、近任国
で十五万石、上野国で三万石、合わせて十八万石の大名
となる。家康により見いだされた当時、すでに一方の士
大将として本多・榊原・酒井など、直政はこれらの大先
輩を凌ぎ徳川の筆頭大名となる。直政が徳川譜代筆頭大
名になったのは、戦場でのめざましい働きはもとより、
さらに帷幄の謀臣として常に落ち着き、大事を洞察して
事にあたり、至誠をもって家康の事業に協力する。
いっぽう民政にも見るものが数多くあり、たとえば近江
の地を賜った時も、佐々木・浅井の遺臣を招いて国風を
問い、法令皆旧により領民を安じる。藩士に石田三成の
悪口を止めさせ、三成の十三ヵ条の掟を踏襲して農民の
不安を減じ、坂田郡岩脇の天ノ川布晒しに運上諸役を免
じる。
直政は、関ケ原の戦いで受けた鉄砲疵が再発して病み慶
長七年(1602)佐和山にて死去する。享年四十二。
石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を
立藩。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖
岸の磯山に新城建設を計画するも死去。嫡男直継(直勝)
が相続し、現在彦根城が存在する彦根山に築城する。慶
長十一年(1606)完成し彦根城入城。元和元年(1
615)、直継は病弱で大坂の陣に参陣出来ず、直勝と
名を改め上野安中藩に3万石を分知移封される。代わっ
て参陣活躍した弟の直孝が藩主となる。この時点で直継
の2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を二代目とする。
● 彦根藩最後の藩主 十四代直憲
彦根藩は、万延元年(1860)直弼の喪中である三月
から長雨が続き四月、五月にかけて琵琶湖の定位はハ尺
(2・4メートル)を超え、四十九町以西は水浸しとな
る。桜田門外の変に悲嘆の極に達した彦根士民は、大洪
水にみまわれる中、四月二十八日に父直弼のあとをつい
で直憲が藩主となり、同年八月二十六日に掃部頭となる。
当時まだ13歳の直憲は直弼の二男、嘉永元年(1848)四
月二十日江戸で生まれる。幼名は愛麻呂、母は西村氏。
事変後の処置について、在彦藩士の不満は刑名を正さな
いまま一図に生存者をかばった偽政者の怠慢に向けられ、
町民や農民の中にも藩庁のあり方に批難の声が起こる。
方や彦根でも尊王攘夷の風潮が高まり、大獄により開国
を唱えた関係者の影が薄れたうえ、直弼の政敵が幕府の
中心にすえられ、早晩尊王攘夷派につくべしと公然と言
う者もでる。文久二年(1862)三月二十五日、直憲
は将軍家茂の名代として和宮御降嫁の御礼言上のため参
内し面目をほどこす。
日米修好通商条約の調印と、紀伊家の徳川慶福(家茂)
の将軍継嗣決定により生じた朝暮関係の悪化の修復に、
大老直弼の側近長野主膳らが、「公武合体」を目ざし、
和宮の江戸降嫁を画策する。桜田門外の変の後であるが
孝明天皇は、和宮がすでに六歳のときに有桶川宮熾仁親
王と婚約をしていることから反対であったが、その年末
に降嫁決定、翌万柾三年(1861)三年二月十一日、
将軍家茂と婚儀。
直憲は文久二年四月江戸に帰って上使の復命をし、彦根
藩士民もく安堵するが、文久二年(1862)八月の政
変により、幕府は井伊家歴代の名誉だった京都守護を会
津藩主松平容保に命じ、続いて亡父直弼の事について封
邑十万石を削減。また同年八月に起こった生麦事恥の賠
償を要求するイギリス軍艦が江戸湾に乗り入れると、急
ぎょ横浜湾の警衛をはじめ、大和の変、長州征伐、京都
・大坂警衛を命じられる。直憲は東奔西走して朝廷と幕
府のために力を尽くし、その任を果たし、版籍奉還が、
旧藩領全部に行われ、直憲は彦根知藩事に任じられ、明
治四年(1871)七月に断行された廃藩置県で彦根県
が設置されると、同年二月に直憲は東京府に貫属せられ
九月に東京府民として彦根を去る。
【エピソード】
代々大老職の家系といえば、非常事態時の軍事(民政)
の全権を掌握を担う重職、海の向こうで言うところの
総督といったところである。それは禄高でも現れてい
る(桃山時代の五大老には及ばぬが)。大阪から彦根
に転居した当時の彦根は、鄙びた一地方都市という面
影が印象である。それから徐々に興隆するもの、ロス
ト・スコア(失われた二十年)の傷がいまも残響して
いるかのようである。連戦錬磨・連戦連勝・連戦不敗
の「井伊の赤備」の如く、前進していければと考える。
明日下記の通り当会を開催いたします。
16年度新年会ご案内
下記の通り当会を開催いたします。
日時 2月13日(土)
開宴18:00~20:00まで
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
内容 ①近況報告、②懇親会※
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 送迎バスは以下のようになります。
(1)17:45 JR彦根駅西口(彦根城側)
(2)17:55 戸賀町交差点西入る10メートル
幹事敬白
※ 覚えておこう!大阪締め
- 「打ーちまひょ(打ーちましょっ)」 パンパン
- 「もひとつせ」 パンパン
- 「祝うて三度」 パパン パン
- 「頑張って、長い活きしましょう」パチパチパチ…(拍手)
【脚注及びリンク】
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- 「地域資源・交通拠点等のネットワーク化による
国際観光振興方策に関する研究」国土技術政策総
合研究所 プロジェクト研究報告 2008.05.21 - 「歴史まちづくりのてびき(案)」ISSN 1346-73
28 2013.11.13 - 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 国土技術
政策総合研究所 2013.04.11 - 「城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷出版
部 - 「続・城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷
出版部 - 中島一・水野金一・田中治是『建築空間における
都市計画額』コロナ社 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣
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- ラウフェン・アム・ネッカー Wipipedia
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- コモ湖 Wikipedia
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- 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
- 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
- 三島由紀夫 著『絹と明察』
- 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論とし
ての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷
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ての『絹と明察』(1)~(7)詩文楽-Shibun-
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夜千冊 - ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思
索頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.
09.06 - 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳 - 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
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- 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ
出版 - 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
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・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27 - 彦根市指定文化財 「山崎山城跡」
- 列伝 井伊家十四代 国宝・彦根城築城四百年祭
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