【城壁のない日本の都市】
ここでは、世界の城郭都市の徳地について俯瞰する。
都城とは、もともと「城郭をめぐらした都市」という意
味であるが、日本の古代都市は、城壁を欠く非環濠城塞
都市である。日本が影響を受けた中国の都城制は、「環
濠城塞都市」「方格的形態」「礼的秩序による構成」な
どをその特性としてあげることができることは先述した。
しかし、都城制の特徴のうち、環濠城塞都市と華夷的地
域空間観念は学んでいない。
その理由として、広大な中国大陸と比較すれば、わが国
が四周を海で囲まれ、直接に外敵の攻撃にさらされるこ
となく、またほぼ単一の民族が国家を形成し、脅かす外
夷も存在しなかったことがあげられる。また、中国大陸
と比較すれば、小さな島国であるゆえに支配者に華夷的
地域空間観念の中華思想を必要としなかったのである。
さらに、別の理由として支配者と神の関係がある。上田
篤によれば、古代の日本の戦争は中国やヨーロッパの戦
争とは根本的に違っていて、それは国土や人民の奪い合
いではなく大王や天皇の取り合いであった。天皇は「皇
帝」であると同時に「神」であった。その「神」を敵に
奪われないようにそれを守ることだけが必要であった、
というのが城壁のない都城の理由だと七~八世紀の関西
地方における都市の配置はこれを物語るものである。図
1・15は七世紀末からハ世紀末頃の古代都市の遷都の
例として、藤原京、平城累、平安京のプランを示してい
る。それぞれ長安をモデルにり、都市の規模の違いや自
然地形との関係、格子割のパターンの違いが読み取れる
(町全体を取り囲む城壁や環濠はみられない)。
中世、近世の城下町の場合はどうであろうか。安土城を
築いた織田信長は自ら神となることを望んだといわれ、
徳川家康は没後日光東照宮に神として祀られた。戦国武
将は統治のシンボルとして自らが神となることを望んだ
のであろう。幕末の長州薩摩軍と幕府軍の戦いも天皇の
取り合いで、前者が後者を制したのである。日本の前近
代都市の空間構造による外敵防御は、城壁という堅い殼
でなく、城下町ゾーニングによる土地利用の壁でなされ
た。
ヨーロッパや中国では、人民は城内に住み、農民の多く
は都城外に住んで、平時には農業に従事し食糧の生産供
給を担い、戦時には兵として城内に入る。それが城壁の
都市であるが、日本の場合は城を中心にベルト状に配置
された武士や町民の居住地で敵に応戦したのである。一
般的には、城を中心とする同心円状の土地利用防御ゾー
ンで内側になるほど城主の信頼の高い武士が居住し、最
後は城の周りの環濠と高い城壁で防戦したのである。
いずれにしても天皇制や領主と武士、農民などの戦時体
制の仕組みを受けてH本の城と町の関係、都市と城壁の
関係は極めて独自性の高い形状を作り出した。翻って、
日本の近代都市は、パリやウィーンのように城壁の跡を
環状道路にするようなことができなかった。たとえば東
を見ると、江戸時代から五街道のように放射道路は発達
したが、環状道路はなかった。明治以降、濠を埋めてか
ろうじて内側の環状道路の一部にあててきたが、城壁跡
地のような上地がなくて、市街地の密集化で、環状道路
の実現は非常に困難を伴う事業となったのである。その
ため、たとえば環状七号線の実現には半世紀を要した。
ところで、個別には、日本の古代・中既都市の中には、
軍事防衛上、環濠城塞型の都市構造をとるものもあった。
中世末の寺内町もその例である。古代国家の衰退によっ
てその庇護を失った寺院は、中匪の動乱を生きぬく危機
に直面した。そこに、町衆が立ち上がって寺内町が生ま
れた。それは、真宗寺院を核にして宗数的連帯感によっ
て構成された都市である。宗数的連帯感に基づいた生活
共同体を形成し、維持することを狙いとしたのであった。
寺内町の代表的都市、大和国の今井町は天文期(153
2~55)に真宗道場が建設され、元亀から天正期(1
570~92)にかけて本願寺一家衆と今井兵部卿を中
心に寺内町がつくられた。環濠と土塁で囲まれた町内は
格子状の街割で、長方形街区の南北幅は36メートル(
二〇間)である。寺内町は石山戦争(1570~80)
に見るように自衛的防御の性格も持っていた。西川幸治
によれば「宗数的連帯感によって支えられた運命的共同
体」で、「自衛の精神を持ち深い人間的共感によって平
和な都市生活が戦国の乱世に豊かに展開していた」という。
中世ヨーロッパ都市では城壁内の住民によるコミュニテ
ィが生成されたが、日本の寺内町には宗数的連帯感を通
じたコミュニティ感覚の生成が認められる。寺内町は、
1471年、越前国の吉崎の建設から、1580年の石
山戦争による壊滅に至るまでの百年あまりにたって存続
した都市であった。やがて、石山を中心とする寺内町は
織田信長と衝突して敗れ、寺内町は環濠城塞都市として
の自衛の機能を剥奪され、防御のための施設は解体され
てしまった。吉崎、石山のほかに、今片、山科などが代
表的都市であった。
寺内町が崩壊するとともに、戦国武将が城下町を形成し
ていった。現在の目本の中核都市規模以上のほとんどが
城下町に起源を待っている。近世城下町のゾーニングと
街(町)割の特徴は先述したが、①城に近いところに重
臣を配し、それらを取り囲む形で中級の家臣と町人、そ
の外側に下級武士居住区や、町屋地区などでゾーン区分
された。②各地区内部で屋敷割との関係で街割が行われ
た。③街割は古代平安京の条坊制が改変して用いられて
おり、「江戸型」「京型」がある。たとえば、①の例と
して、大垣では次の四郎から成り立っていた。第二部が
本丸、二の丸と三の丸で、城郭の中核としてそびえる天
守閣や藩の政庁がある場所であり、「郭内」または「内
曲輪」とよばれると呼ばれる重臣の居住区、第三部には
中級み家臣と町人の居住区が取り巻き、第四部には下級
武士の住居と町人の住居が並ぶ。外周の第四部は周囲を
濠や土居で囲部されることなく、町人の住居も家臣団の
訳注区も外へ拡大した。
近世城郭の計画はそれ以前の中世城郭とは違い、町全体
の都市計画と一体になされた。大名藤堂高虎は、江戸城
を築城した太田辺濯と同様、築城術に秀でていた。戦国
社会から離脱した都市づくりを展開し、津、伊賀上野、
今治、伊予大津、板島(現・愛媛県宇和島市)などの都
市計画を行った。武家地、町人地、寺町、木挽地(本村
の製材所の場所)、大工町などのゾーニングと道路、街
(町)割、主要施設の配置計画を行った。その都市計画
ぱ、軍事防衛を条件として確保しつつも、格子状の道路、
開放型の街(町)割で、T字路や拘の手形道路はあまり
使わなくなった。城下町の構成は城郭を中心に武士と町
人の居住区が身分制秩序にしたがって配置された。江戸
時代になると、戦国時代までは民衆支配の拠点であった
城郭が地域のシンボルに変貌していった。
● 壁の解体
城壁の都市では、一般に都市を大きくすることは防衛上
危険であったため、ほとんどの都市は極めて小規模の都
市であった。しかし、人々は都市の城県内に住むことを
望んだ。ギリシャの都市は新たな都市を建設することで
対応したが、ローマ時代や中世の都市は城県内部の人口
増加につれて建物は高密度に詰め込まれ、耐え難い混雑
や疫病に人々は悩まされた。コレラやペストにより人口
の半分を失う都市も稀ではなかったのである。
ところが、一部の例外的都市は城壁を外へ移築すること
により大きくなった。とくに、パリはその顕著な例であ
る。古代帝政ローマの殖民都市であった頃から、パリは
度々行われた城壁移築によって同心円的な市街地拡大と
ともに成長していったのである。古代ローマの殖民都市
となる前後に異民族の侵入から身を守るためシテ島に閉
じこもったガロ=ロマン時代(紀元前後)、2はフイリ
ップ・オーギユスト時代(1200年前後)、3はシャ
ルル五世時代(14世紀後半)、4はルイコニ世時代(
17世紀前半)の城壁である。5は1789年のフラン
ス革命の直前に築かれた物品人市税徴収隔壁である。6
はテイエールが築いた城壁である。7はナポレオン三世
が国から市に移譲させた二つの森(ブーローニュとヴア
ンセンヌ)を合む現在のパリの市域である。
こうした中世ヨーロッパ都市の城壁は、バロックの都
市の時代になコ犬斉に撤去される。先述したが、火薬が
発明され、長距離砲の登場によってそれが無用の長物に
なったからである。そして、その跡地は、絶対王政の首
都改造のために積極的に活用された。たとえばパリでは、
ナポレオン三世とオースマンにより、6の城壁は撤去さ
れ現在はペリフエリックと呼ばれる一周約40キロの環
状高速道路になっている。当時、周辺部が併合されたこ
とに伴い、市域が倍増し人口が120万~160万にな
った。また、ウィーンでも頑強な城壁と環濠を撤去して、
跡地にリンク・シユトラーセと記念建造物が配置された。
荘重なバロック建築を並べた、フランツ・ヨーゼフー世
の都市計画が実現されることになる。
● 城壁の都市の現代的意味
人類は有史以来、城壁の都市をつくり、18世紀まで維
持してきたが、そうした歴史的経験は現代都市にとって
どのような意味があるのであろうか。城壁は、前近代と
いう、人類の抗争社会の最初の都市化の時代に軍事防衛
上の施設として誕生し、それ以降永く受け継がれてきた
都市の外郭である。それは都市建設の絶対条件であり、
一般に、円形あるいは方形をなした。
The Fortifications of Paris
城壁の存在は、同時に、都市の境界を明確にし、都市と
農村田園地帯との上地利用を区分した。逆に見れば、都
市とは、その物理的条件として、コンパクトで、自然や
農地とはっきり異なる、区分けされた存在として認識さ
れたといえる。これらの事実と長年の経験、伝統は、近
代に入っての新たな都市化の時代に都市の成長をどのよ
うに受け止めるかに重要な影響をもたらした。無秩序な
市街地の拡張を押しとどめ、都市地域をコンパクトにす
るということが早くから当然のこととして政策に取り入
れられた。ヨーロッパ各国のこうした経験は、亜熱帯に
近い我が国などと比べると、緯度の高さから来る植物の
成長力の弱さや、開発により破壊された土地の自然回復
力の弱さもあるかもしれないが、それ以上に、農村や自
然地域を都市化から守るという強い力になった。
また、時代は下って、近代の大規模都市の時代になると
古代都市から引き継がれた城壁の跡地は環状道路や緑地
、公共施設などの重要な空間資源に変わった。パリやウ
ィーンの例が代表的である。ところで、古代目本の場合
は、島国という自然条件や城を中心とする防衛思想の違
いが城塞環濠構造を一般化しなかった。わが国の都市は
地球上で例外的に都市の城壁の存在が一般的でなかった。
その結果、近代に入ると、急速な都市化の圧力の前に城
壁を跡地として都市計画に役立てるという機会にぱ恵ま
れなかった。また自然地域や農村の侵食には無防備であ
った。結果的に、先進国の中では、目本の都市だけが広
大なスプロール地域の形成を見ることになってしまった
のである。
前近代都市での、城壁が生んだ求心的都市構造では中心
が重要な意味を侍っている。そこには、まず重要な核と
なる都市施設が配置された。たとえば、ギリシャのポリ
ースではアゴラ、ローマの都市国家ではフォルムと呼ば
れた広場であらだ。こうした古代の広場が民衆の政治討
論の場となり民主主義を生み出すきっかけになった。
アゴラは中世になると、次第に商品の取引が主要な機能
となってしまうが、ヨーロッパ中世都市では、城壁の外
側で力や権威を侍つ貴族階級に対し、その秩序とは対照
的な広範囲にわたる市民的平等の領域が城県内の都市に
形成されていった。自由な市民層がその領主に対抗して
自分たちの共同決定を守り通し、自治をさえ成し遂げる
場となったのである。
また、古代から城壁による物理的囲みは、人々に「一体
感」を生んだ。防衛上の運命共同体という環境は人々に
「共同体感情」を生み、「コミュニティ」を醸成したの
である。近代社会に転じて、社会改良主義者がコミュニ
ティを都市に再生しようと試みたのは、過去の都市での
人類の生態を社会の規範として必要視したものであろう。
「都市コミュニティ」は前近代の城壁の都市の時代を引
きずりながら、近代都市計画の基本的テーマの一つにな
ったのである。
【エピソード】
【第1回現地調査日】 2016年4月下旬(予定)
【脚注及びリンク】
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- 「地域資源・交通拠点等のネットワーク化による
国際観光振興方策に関する研究」国土技術政策総
合研究所 プロジェクト研究報告 2008.05.21 - 「歴史まちづくりのてびき(案)」ISSN 1346-73
28 2013.11.13 - 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 国土技術
政策総合研究所 2013.04.11 - 「城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷出版
部 - 「続・城と湖のまち彦根」中島一 サンライズ印刷
出版部 - 中島一・水野金一・田中治是『建築空間における
都市計画額』コロナ社 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣
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- 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論とし
ての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷
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ての『絹と明察』(1)~(7)詩文楽-Shibun-
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夜千冊 - ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思
索頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.
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- 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
- 万里の長城 世界史の窓
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山近久美子(防衛大学校)2005.08.25 - ヨーロッパ100名城 Wikipedia
- 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ
出版 - 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
- 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27 - 彦根市指定文化財 「山崎山城跡」
- 都市計画の世界史、日端康雄 講談社現代新書
- 列伝 井伊家十四代 国宝・彦根城築城四百年祭
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