箕作山城

2014年03月30日 | 滋賀百城

 

 箕作山城(みつくりやまじょう)は、観音寺城から中
山道をはさんで南東側の
正面にある清水山山頂に位置す
る。小脇山・太郎坊宮・
箕作山と尾根続きであるが、清
水山の隣りの箕作山山頂
には城郭遺構は認められないと
されている。

 城の記録では、まず、応仁の乱後の混乱した近江で、
六角高頓に対抗するため、幕府側が擁立した佐々木正克
が近江へ攻め入った際に龍城したのが清水城で、これが
箕作山城の前身とされるが定かではない。つぎに六角義
賢が永禄五年(1562)に家督を子の義弼に譲り、自
身は承禎と名乗り箕作城に移ったとあり、これは箕作山
城の北側山麓に伝えられる箕作館であると思われる。そ
して、明確な記録で登場するのが永禄十一年(1568)
に織田信長が近江へ侵攻した際である。このとき六角氏
は観音寺城に加え、和田山城・箕作山城の防御を固め、
迎え撃とうとした。このとき、箕作山城の守りには六角
氏家臣
の建部源八郎と吉田出雲守が入ったという。戦い
は九月十二
日午後四時に佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽
長秀らが攻め上
った。六時問におよぶ戦闘の末落城し、
これを受けて和田山
城からも兵が退去し、観音寺城にい
た六角承禎・義弼父子も
夜陰にまぎれて甲賀郡に逃れた
という(『信長記』『総見記』)。




 城の遺構は山頂部を中心とする範囲に存在する。現在
送電線の鉄塔がある地点が主郭である。主郭の東西と北
の縁辺には土塁が構築されており、主郭の蕎‥端・南端、
東側の郭の東端の三ヵ所に虎口が存在する。
 主郭西側の虎口は、敵の直進を阻むため、土塁の外側
の侵入路が屈曲している。そして、虎口の北側の土塁は
幅が広くなっており、橋台を併設した構造であるとみら
れる。
 また、虎口前面の進入路直下に比較的古様の石垣がみ
られる。主郭南端の虎口では、尾根筋からの進大路が東
側に張り出した土塁の直ドを通り、虎口へ至る進大路が
土塁からの制圧を受ける構造である。
 さらに東側には尾根地形にしたがって曲輪が存在して
おり、東端には土累状の高まりがあり、虎口が存在する。
この地点の虎口は外側の進人跡が屈曲しており、石垣を
伴うもので、主郭西側の虎口と共通するものである。
 さて、激しい攻城戦がわれ、観立目寺城防御の一翼を
担っていた箕作山城であるが、その規模は意外と小さい。
現在城城から尾根を東へ約五〇メートル進んだ地点に大
正十一年に滋賀県史蹟保勝会が建てた「箕作城趾」の石
碑が存在、この地点周辺に曲輪の展開はみられず、城域
外であると考えたい。



 ところで、永禄十一年の織川竹長との戦いでは、当城
のほか愛知川左岸に位置する和田山城も観音寺城の支城
として扱われた。
 箕作山城・和田山城に共通してみられる特徴は、山頂
部の平坦面周辺に限定された小規模な曲輪の占地、横
堀・堀切を用いず、曲輪縁辺の切岸・土塁によって敵の
進入を阻止するなどである。これらの特徴は、布施氏の
布施山城・大森城、後藤氏の雪野山城・吉田氏の野寺城、
永原氏の向山城など、湖東の平野部あるいはそれに近接
する範囲に存在する六角氏家臣の山城ともおおむね共通
するものである。
 築城のいきさつに不明な点の多い箕作山城であるが、
六角氏家匝の山城との共通点から、本来は六角氏家臣の
在地の山城として築かれていた可能性もある,永禄く
年の戦いでは、城の東側山麓に本拠地がある建部氏が城
の守備を担当しており、城主・築城者の有力な候補とし
て考えられよう。 

出典:

   

 

 【エピソード】   

 

 

【脚注及びリンク】 
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1. 箕作山城の戦い、No.1
2. 箕作城跡(滋賀県東近江町): 山城賛歌 
3. 音寺城の戦い、Wikipedia
4. 近江の城郭、箕作山城
5. 観音寺城跡 -江南の雄 六角氏

6. 観音寺城と観音正寺、安土町 
7. 戦国期近江における城下町の展開, 2013.03.18
8. 滋賀県の城
9. 歴史さんぽ 戦国山城探訪
 
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