●天下布武
天下布武とは、ふつう天下に武を布く。つまり、武士が
イニシアティブをとって天下を治める意であると解され
るが、安土城の調査の結果と照らし合わせると、この天
下布武という言葉のもつ意味がより具体的にわかるよう
な気がする。
武を布くとは、すなわち安土城とその城下町において
端的に見られるように、すべてを武士、ひいてはその頂
点に立つ信長が束ねて采配するということだろう。寺院
や公家、座など、あらゆる中世的権力からの、技術、制
度の奪取と解放-。それが信長がめざしたことだった。
その意味では、見寺は中世的な宗教のあり方を丁度
解体して、信長の管轄のもとに統合し、政治と分離する
形で宗教を再構成する試みだったのである。
その天下布武の構想には当然、都市建設も経済政策も
ふくまれる。
信長が叡知を傾けて、自身の思想の発現として建築し
た安土城の下には、壮大な安土の町が広がっていた。
信長はこの町に通じる街道を整備して、物資と情報の
流通をうながした。
城下では、自由に市を開くことを認め、古い特権に守
られた「座」を廃止する、いわゆる「楽市楽座」によっ
て、大規模な規制緩和を実施した。
『儒長公記』には、城下の様子がこう記されている。
麓は海道往還引続き、昼夜絶ズト云事なし。
(奥野高広・岩沢悳彦校注『信長公記』より)
「ふもとの街道は、ひきもきらぬ往来でにぎわい、昼夜
それが絶えることはない」というのである。
信長は「安土山下町中掟書」と題する書状を出して、
安土の城下町の建設方針を定めた。掟は、全部で十三条
からなっている。そして、その中に、次のような注目す
べきくだりがある。
一 当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸
役(課役、ここでは棟別銭・兵糧米など)・諸公事(多
数の名目の雑税)等、悉く免許の事、
一 他国幷に他所の族当所に罷り越し、有り付き候は、
先々より居住の者と同前、誰々の家来たりと雖も、異議
あるべからず、(以下略)
一 喧嘩・口論、幷に国質・所質・押買い・押売り・宿
の押し借り以下、一切停止の事、
(奥野高広著『増訂 織田信長文書の研究』より)
これらの内容を簡単に現代語に訳せば、まず一つ目のく
だりは、この安土の町を楽市として税を免除し、旧来の
「座」に握られていた特権を廃止するというものである。
また二つ目は、他の国や他所の人間、あるいはそれま
で他の誰かにつかえていた家来であっても、安土の町に
来て定住するならば、以前から住んでいる者と差別しな
いというものである。
さらに三つ目は、喧嘩や口論などの騒擾行為、あるい
は無理やり商品を買い取ったり売りつけたりする暴力的
な商いを禁止するというものである。
これらの三つの項目を見ただけでも、「安土山下町中
詫言」がきわめて近代的な内容をもった都市政策を示す
ものであることがわかる。
信長は安土の城下町を、自由な商売と安全が保障され
不当な権力や暴力から守られた場所にしようとした。そ
れと同時に、この町に住む者は、よそものであろうと差
別されないことをうたった。それどころか、労役の免除
や徳政という借金棒引きの適用除外にして、安心して商
売ができるようにするなど、さまざまな優遇策をとった。
これは、中世の伝続から、明らかに隔絶した革新的な
政策である。中世の人びとはて殷に、自分の町や村に素
性の知れないよそものが寄りつくことを嫌ったからであ
る。戦国大名は、防衛上の理由から城下に他国の者が出
入りすることを嫌った。また、村や町は自衛上、よそも
のを中に入れようとしなかった。そのことと対比して、
安土は真の意味での近代的な都市性をもつ町であったと
いえる。
天下布武のスローガンのもとで信長は、武士が統治の
責任を負うかわりに、民衆には最大限の経済的自由と幸
福を追求することを許そうとしていたのである。
ここでは、建築物をイルミネーションで飾るという、
きわめて幻想的かつ現代的な光景が演出された。
天正九年七月十五日、孟蘭盆会の夜-。天主と惣見寺(
見寺)に提灯が吊るされ、湖上に光の幻影が浮かび上
がったのである。それは武家だけでなく、町人をも意識
したイベントだった。信長は、安土という、この人工都
市に夢と見紛う祭礼を催すことによって、天主のみなら
ず、その居城が屹立する町全体を祝祭空間と化したかっ
たのかもしれない。
『第5章 信長の夢』 PP. 224-227
この項つづく
【エピソード】
【脚注およびリンク】
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- 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
.2.17 - 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
雅寿、吉川弘文館 - 滋賀県立安土城考古博物館
- 信長公記(原文)
- 安土町観光協会
- 『安土城天主復原考』土屋純一、「名古屋高等
工業専門学校創立二十五周年記念論文集」1930 - 『安土山屏風に就いて』廣田青陵、「仏教美術」
1931 - 『安土城天守復原についての諸問題』城戸久「
建築学会研究報告」1930 - 『安土宗論の史的意義』中尾、「日本歴史」112
号、1957 - 『日本佛散史 第七巻 近世篇之一』辻善之助、
岩波書店、1960 - 『安土城天守の推定復元模型』桜井成広、「城
郭」1962/1963 - 『明智軍記にみる織田信長と安土城』小和田哲
男、「城郭」1963 - 『安土城と城下町』小和田哲男、「城郭」1963
- 『信長の宗教政策』奥野高広、「日本歴史」1966
- 『イエズス会土日本通信 上・下』村上直次郎訳、
雄松堂、1968 - 『信長公記』奥野高広・岩沢悳彦校注、角川文庫、
1969 - 『イエズス会日本年報 上・下』村上直次郎訳、
雄松堂、1969 - 『シンポジウム日本歴史10 織豊政権論』脇田
修ほか、学生社、1972 - 『京都御所と仙洞御所』藤岡通夫編、至文堂、1974
- 『織豊政権』藤木久志・北島万次編「論集日本歴
史6」、有精堂、1974 - 『日本中世の国家と宗教』黒田俊雄、岩波書店、
1975 - 『京都御所』藤岡通夫、中央公論美術出版、1975
- 『仏を超えた信長-安土城見寺本堂の復元-』、
鳥取環境大学紀要、No.8 PP.31-51 2010.06
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