【佐和山城郭都市考】
● 佐和山藩時代
佐和山藩は、近江国(現在の滋賀県彦根市古沢町)に存
在した。藩庁は佐和山城佐和山は織田信長の時代から要
衝と見なされ、信長は特に信任の厚かった重臣・丹羽長
秀を城主とした。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉のもとで
五奉行として辣腕を振るっていた石田三成が、近江水口
から移封されて19万4千石で入った。
三成治下の佐和山はその善政によって民は豊かになり、
「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近(島左近
)と佐和山の城」と言われるほどであった。ちなみに三
成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しん
でいるとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様
々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮す
る。
関ヶ原の戦いで石田氏が滅亡した後、佐和山には関ヶ原
の戦いで武功を挙げた徳川四天王の一人井伊直政が18
万石で入り、佐和山藩が立藩したが、直政は2年後の慶
長7年(1602年)に死去。これは関ヶ原の戦いによる戦
傷による死去と言われているが、世間では三成の亡霊に
呪い殺されたとも噂された。 このため、家康は三成に関
わるものとして佐和山城は勿論のこと、寺であろうと何
であろうと破却させ、直政の後を継いだ子の直継には新
たに彦根城を築城するように命じた。そして彦根城の完
成と共に、佐和山藩は廃藩となる。
● 佐和山藩(城下)とは何か?
今夜の所は、詳細なことがいっこうにイメージできなかったので
年明けの2月末には素描掲載してみたい。
【エピソード】
● 地名の由来
「彦根」という地名は天照大神の御子であるアマツヒコ
ネ(天津彦根命;アマツヒコネノミコト)とイクツヒコネ(
活津彦根命;イクツヒコネのミコト)2柱のうちの後者
が活津彦根明神として彦根山(彦根城が築かれた、琵琶
湖岸の山)に祀られたことに由来するとされる。
縄文時代:松原内湖遺跡(在・松原町。縄文時代の琴・
丸木船・縄文式土器等、出土)、南川瀬南遺跡(在・川瀬馬
場町。竪穴式住居跡、縄文式土器、土師器等、出土)等の最
も古い形成期。
弥生時代:掘南遺跡(在・堀町。方形周溝墓、竪穴式住
居跡、土師器等、出土)、肥田西遺跡(在・肥田町。弥生式土
器、須恵器等、出土)等の最も古い形成期。•古墳時代前
期
荒神山の尾根に荒神山古墳が築造される。全長約124
メートルと、規模にして滋賀県下第2位の前方後円墳。古墳時
代後期:荒神山一帯に群集墳が築造される。
● 古代
舒明天皇2年(630年):近江国犬上郡(現・彦根市相当地域
を含む)発祥の豪族・犬上氏(犬上君)出身の犬上御田鍬が、
第1回遣唐大使して唐へ出航。•天智天皇10年7月2日(671
年8月12日)前後:壬申の乱において、大友皇子(弘文天皇)
の将・山部王が犬上川河畔に布陣したところ、味方の将であ
る蘇我果安と巨勢比等(巨勢人)に殺害される(事由は不明)。
天武天皇元年7月9日(672年8月7日):壬申の乱の一局面とし
て、鳥籠山(とこのやま)の戦いが勃発。7月7日に息長横河
(おきながのよこかわ。現・米原市梓河内)で大友皇子(弘
文天皇)方・境部薬軍を撃破した(息長横河の戦い)大海人
皇子(天武天皇)方・村国男依らの軍勢は、その2日後、鳥
籠山に布陣した秦友足軍(大友皇子方)も破り、秦友足を討
ち取る。なお、『万葉集』にも歌われた「鳥籠山」なる山の
所在は特定されておらず、現在の大堀山と比定する説も含め
て諸説が並立する。
養老4年(710年):淡海公・藤原不比等が近江国国司とし
てこのころ彦根に住んだことから、その子・藤原房前が、自
ら護持仏としていた黄金の亀の背に乗った高さ1寸8分(約
5.5センチメートル)の聖観音像を本尊として、当年、彦根
山に金亀山 西寺観音(彦根寺)を建立する。7世紀前半(
奈良時代前期):行基が平流山(へいるやま。現・荒神山)
山頂に奥山寺を開山したと伝わる。
● 中世
鎌倉時代
建久3年(1192年):鎌倉幕府が成立し、佐々木定綱が近
江国守護となる(佐々木氏による近江国支配の始まり)。
建久年間(1190- 1198年):佐和山城の最古の史料あり。
鎌倉時代の近江国守護・佐々木荘地頭であった佐々木定綱
の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。
仁治3年3月7日(1242年4月8日):佐々木信綱の死に伴
い、所領は分割統治されることとなり、江北6郡(当時は
犬上郡を含む)は四男・氏信(京極氏信)が継承する(京
極氏の登場と、その支配の始まり)。
六角氏 佐々木氏 浅井氏 京極氏
室町時代
室町時代中期:犬上郡(現在の彦根地方を含む)の多賀神
社(現・多賀大社)を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠と
する多賀氏が同族間で争う。
戦国時代前期:近江国守護・佐々木氏の嫡流で湖南を統べ
る六角氏が、湖東(犬上郡を含む)および湖北の一角をも
勢力下に置く。
時期不明ながら、荒神山に六角氏の重臣・日夏安芸守が荒
神山城(日夏氏[六角氏の庶流]居城)を築く。
応仁2年(1468年):応仁の乱の局地戦において、東軍の
京極持清重臣・多賀高忠らが、六角高頼ら西軍を破り、湖
北・湖東から六角勢を排除する。
文明元年(1469年):六角氏に替わって京極氏(京極持清)
が近江国守護を任じられる。
文明4年9月(1472年9月か10月):京極方の実権者・多
賀高忠が、京極方の政敵と六角高頼ら西軍方の連合軍を破
り、湖北・湖東を掌握するも、同月末に巻き返され、結果、
六角氏が再び勢力を伸ばす。
文明7年(1475年):多賀高忠が再起し、六角高頼に勝利
するも、西軍方の援軍に敗退。
明応3年(1494年):神仏習合によって多賀大社(在・犬
上郡多賀町多賀)に神宮寺として不動院(天台宗)が建立
されると、これ以降、同社は「お伊勢参らばお多賀へ参れ」
と俗謡に歌われる全国的聖地となってゆき、同社とその参
詣道周辺[注 2]では伊勢・熊野と相比される隆盛が近世末
まで続く。
永禄3年(1560年):野良田の戦いで浅井氏が六角氏に大
勝し、これ以降、湖北・湖東における六角氏勢力を一掃す
る(湖北・湖東の名目上の支配者であった京極氏の時代も
ここで完全に終わる)。これにより、当時の犬上郡も浅井
氏勢力下に入る。
● 近世
安土桃山時代
元亀年間(1570- 1573年):佐和山城主・磯野員昌(浅
井氏家臣)が織田信長らと8ヶ月に及ぶ激戦を繰り広げる。
元亀2年2月24日(1571年3月19日):佐和山城の磯野員昌
が織田信長に降伏し、犬上郡は織田政権下に入る(浅井氏
支配の終わり)。その後、織田氏家臣・丹羽長秀が佐和山
城に入城。
元亀2年(1571年)頃:比叡山焼き討ちと時を前後して、
荒神山山頂の奥山寺(現・荒神山神社)が織田信長に焼き
討ちされる。荒神山城もこのとき廃城処分されたという説
がある。
天正10年6月27日(1582年7月26日):清洲会議の結果、明
智光秀討伐に功のあった堀秀政に佐和山城が与えられ、翌
年、入城。犬上郡は豊臣政権下に入る。
天正13年(1585年):転封となった堀氏に替わって堀尾吉
晴が佐和山城に入城。
文禄4年(1595年):石田三成が佐和山城に入城(従来説
では天正18年[1590年]、他説では天正19年[1591年]4
月)。これよりのち、荒廃していた城を近世城郭に大改修
する。
関ケ原合戦以降略。、
16年度新年会(案)
日時 2月6日(土)か2月13日(土)のどちらかで
開宴18:00~20:00まで
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 幹事が責任もって手配します。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 中山道 高宮宿 彦根観光協会
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
- 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
- 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
- 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
- 中山道高宮宿 馬場憲山宿
- 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
- 新高宮町史 自費出版デジタル
- 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
島一 サンライズ印刷出版図 2002.9.20 - 中島一元彦根市長 Wikipedia
- ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭 内閣
府経済社会総合研究所 - ボーデン湖 Wikopedia
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頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06 - 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
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式日本語 - 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ出版
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- 城郭都市 Wipipedia
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- 田附城(田付城) 近江国(彦根)
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- 佐々木十代之屋形太郎判官定綱 Wikipedia
- 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
の成立 - 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
- 石田 正継 Wikipedia
- 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会
- 彦根藩並近郷往古聞書
- 彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
- 井伊家年譜
- 佐和山藩 Wikipedia
- 丹羽長秀 Wikipedia
- 『新修彦根市史』の紹介 | 彦根市
- 彦根古図略図 彦根市
- 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
- 滋賀県彦根市 専宗寺 JAPAN-GEOGRAPHIC.TV
- 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27
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