城郭都市設計史Ⅴ

2015年12月19日 | 湖と城郭都市

 

  【佐和山城郭都市考】

● 佐和山藩時代

 佐和山藩は、近江国(現在の滋賀県彦根市古沢町)に存
在した。藩庁は佐和山城
佐和山は織田信長の時代から要
衝と見なされ、信長は特に信任の厚かった重臣・丹羽長
秀を城主とした。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉のもとで
五奉行として辣腕を振るっていた石田三成が、近江水口
から移封されて19万4千石で入った。

三成治下の佐和山はその善政によって民は豊かになり、
「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近(島左近
)と佐和山の城」と言われるほどであった。ちなみに三
成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しん
でいるとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様
々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮す
る。

関ヶ原の戦いで石田氏が滅亡した後、佐和山には関ヶ原
の戦いで武功を挙げた徳川四天王の一人井伊直政が18
万石で入り、佐和山藩が立藩したが、直政は2年後の慶
長7年(1602年)に死去。これは関ヶ原の戦いによる戦
傷による死去と言われているが、世間では三成の亡霊に
呪い殺されたとも噂された。 このため、家康は三成に関
わるものとして佐和山城は勿論のこと、寺であろうと何
であろうと破却させ、直政の後を継いだ子の直継には新
たに彦根城を築城するように命じた。そして彦根城の完
成と共に、佐和山藩は廃藩となる。

 

● 佐和山藩(城下)とは何か?

 

今夜の所は、詳細なことがいっこうにイメージできなかったので
年明けの2月末には素描掲載してみたい。


 

【エピソード】     

     

● 地名の由来

「彦根」という地名は天照大神の御子であるアマツヒコ
ネ(天津彦根命;アマツヒコネノミコト)とイクツヒコネ(
活津彦根命;イクツヒコネのミコト)2柱のうちの後者
が活津彦根明神として彦根山(彦根城が築かれた、琵琶
湖岸の山)に祀られたことに由来するとされる。
 

縄文時代:松原内湖遺跡(在・松原町。縄文時代の琴・
木船・縄文式土器等、出土)、南川瀬南遺跡(在・川瀬馬
。竪穴式住居跡、縄文式土器、土師器等、出土)等の最
古い形成期


弥生時代:掘南遺跡(在・堀町。方形周溝墓、竪穴式住
跡、土師器等、出土)、肥田西遺跡(在・肥田町。弥生式土
器、須恵器等、出土)等の最も古い形成期•古墳時代前


荒神山の尾根に荒神山古墳が築造される。全長約124
ートルと、規模にして滋賀県下第2位の前方後円墳。古墳時
代後期:荒神山一帯に群集墳が築造される

● 古代

舒明天皇2年(630年):近江国犬上郡(現・彦根市相当
を含む)発祥の豪族・犬上氏(犬上君
)出身の犬上御田鍬が、
第1回遣唐大使して唐
出航•天智天皇10年7月2日(671
年8月12日)前
後:壬申の乱において、大友皇子(弘文天皇)
の将・山部王が
犬上川河畔に布陣したと
ころ、味方の将であ
る蘇我果安と巨勢比等(巨勢
)に殺害される(事由は不明)。


天武天皇元年7月9日(672年8月7日):壬申の乱の一局面と
て、鳥籠山(とこのやま)の戦いが勃発。7月7日に息長横

(おきながのよこかわ。現・米原市梓河内)で大友皇子(

文天皇)方・境
部薬軍を撃破した(息長横河の戦い)大海人
皇子
(天武天皇)方・村国男依らの軍勢は、その2日後、鳥
籠山に布陣した秦友足軍(大友皇子方)も
破り、秦友足を討
ち取る。なお、『万葉集』にも
歌われた「鳥籠山」なる山の
所在は特定されてお
らず、現在の大堀山と比定する説も含め
て諸説
が並立する。

養老4年(710年):淡海公・藤原不比等が近江国国司とし
てこのころ彦根に住んだことから、その
子・藤原房前が、自
ら護持仏としていた黄金の亀の背に乗った高さ1寸8分(約
5.5センチメートル)の聖観音像を本尊として、当年、彦根
山に金亀山 西寺観音(彦根寺)を建立する。7
世紀前半(
奈良時代前期):行基が平流山(へいるやま。現・荒神山)
山頂に奥山寺を開山したと伝わる。
 

● 中世 

鎌倉時代

建久3年(1192年):鎌倉幕府が成立し、佐々木定綱が近
江国守護となる(佐々木氏による近江国支配の始まり)。


建久年間(1190- 1198年):佐和山城の最古の史料あり。
鎌倉時代の近江国守護・佐々木荘地頭であった佐々木定綱
の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。

仁治3年3月7日(1242年4月8日):佐々木信綱の死に伴
い、所領は分割統治されることとなり、江北6郡(当時は
犬上郡を含む)は四男・氏信(京極氏信)が継承する(京
極氏の登場と、その支配の始まり)。

                  

  六角氏   佐々木氏     浅井氏    京極氏

  
室町時代

室町時代中期:犬上郡(現在の彦根地方を含む)の多賀神
社(現・多賀大社)を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠と
する多賀氏が同族間で争う。


戦国時代前期:近江国守護・佐々木氏の嫡流で湖南を統べ
る六角氏が、湖東(犬上郡を含む)および湖北の一角をも
勢力下に置く。

時期不明ながら、荒神山に六角氏の重臣・日夏安芸守が荒
神山城(日夏氏[六角氏の庶流]居城)を築く。

応仁2年(1468年):応仁の乱の局地戦において、東軍の
京極持清重臣・多賀高忠らが、六角高頼ら西軍を破り、湖
北・湖東から六角勢を排除する。

文明元年(1469年):六角氏に替わって京極氏(京極持清)
が近江国守護を任じられる。

文明4年9月(1472年9月か10月):京極方の実権者・多
賀高忠が、京極方の政敵と六角高頼ら西軍方の連合軍を破
り、湖北・湖東を掌握するも、同月末に巻き返され、結果、
六角氏が再び勢力を伸ばす。

文明7年(1475年):多賀高忠が再起し、六角高頼に勝利
するも、西軍方の援軍に敗退。

明応3年(1494年):神仏習合によって多賀大社(在・犬
上郡多賀町多賀)に神宮寺として不動院(天台宗)が建立
されると、これ以降、同社は「お伊勢参らばお多賀へ参れ」
と俗謡に歌われる全国的聖地となってゆき、同社とその参
詣道周辺[注 2]では伊勢・熊野と相比される隆盛が近世末
まで続く。

永禄3年(1560年):野良田の戦いで浅井氏が六角氏に大
勝し、これ以降、湖北・湖東における六角氏勢力を一掃す
る(湖北・湖東の名目上の支配者であった京極氏の時代も
ここで完全に終わる)。これにより、当時の犬上郡も浅井
氏勢力下に入る。

● 近世
安土桃山時代


元亀年間(1570- 1573年):佐和山城主・磯野員昌(浅
井氏家臣)が織田信長らと8ヶ月に及ぶ激戦を繰り広げる。


元亀2年2月24日(1571年3月19日):佐和山城の磯野員昌
が織田信長に降伏し、犬上郡は織田政権下に入る(浅井氏
支配の終わり)。その後、織田氏家臣・丹羽長秀が佐和山
城に入城。

元亀2年(1571年)頃:比叡山焼き討ちと時を前後して、
荒神山山頂の奥山寺(現・荒神山神社)が織田信長に焼き
討ちされる。荒神山城もこのとき廃城処分されたという説
がある。

天正10年6月27日(1582年7月26日):清洲会議の結果、明
智光秀討伐に功のあった堀秀政に佐和山城が与えられ、翌
年、入城。犬上郡は豊臣政権下に入る。


天正13年(1585年):転封となった堀氏に替わって堀尾吉
晴が佐和山城に入城。

文禄4年(1595年):石田三成が佐和山城に入城(従来説
では天正18年[1590年]、他説では天正19年[1591年]4
月)。これよりのち、荒廃していた城を近世城郭に大改修
する。

関ケ原合戦以降略。、

 

 

          16年度新年会(案) 

日時 2月6日(土)か2月13日(土)のどちらかで
   開宴18:00~20:00まで  

場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 幹事が責任もって手配します。
                              幹事敬白  

  

  【脚注及びリンク】
-----------------------:------------------------  
 

  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  3. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
    島一 
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
    コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣
    府経済社会総合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
    L. Kelling
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    ng of Disorder", Science, 322, 5908
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  28. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会編 サンライズ出版
  35. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町
  36. 城郭都市 Wipipedia
  37. ハイデルベルグ Wikipedia
  38. 田附城(田付城) 近江国(彦根)
  39. 荒神山古墳現地説明会 開催要項(案)彦根市
  40. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての
    絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』詩文楽
  41. リンダウ - Wikipedia
  42. ハイデルベルク城 - Wikipedia
  43. 城郭都市 Wikipedia
  44. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  45. 八幡神社  滋賀県彦根市田附町488
  46. 三ツ屋城 近江国(彦根)
  47. 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
  48. 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ) 
  49. エーグ=モルト (Aigues-Mortes)Wikipedia
  50. カルカソンヌ、仏蘭西南部都市、Wikipedia
  51. 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
  52. 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
  53. 万里の長城 世界史の窓  
  54. 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
    山近久美子(防衛大学校)2005.08.25
  55. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  56. 佐和山城 Wikopedia
  57. 石田三成 Wikipedia
  58. 佐々木十代之屋形太郎判官定綱 Wikipedia
  59. 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
    の成立
  60. 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
  61. 石田 正継 Wikipedia
  62. 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会
  63. 彦根藩並近郷往古聞書
  64. 彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
  65. 井伊家年譜
  66. 佐和山藩 Wikipedia  
  67. 丹羽長秀 Wikipedia  
  68. 『新修彦根市史』の紹介 | 彦根市
  69. 彦根古図略図 彦根市
  70. 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
    浩司 サンライズ出版
  71. 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
    大手門は必見 | 城めぐりチャンネル
  72. 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
  73. 滋賀県彦根市 専宗寺 JAPAN-GEOGRAPHIC.TV
  74. 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
    ・アーカイブ化に、彦根市立図書館  2012.05.27

---------------------;-------- -----------------   

 

 

 

 

 


城郭都市設計史Ⅳ

2015年12月13日 | 湖と城郭都市

 【佐和山城郭都市考】

 ● 佐和山城から彦根城ヘー
          城郭移築の意図するもの

中世の山城から近世の平山城あるいは平城へ移築し、城下も
転させることは、この時期においては、一般的な現象とい
える。これは、城地の選定理由とし
て、軍事中心優先から経
済・交通条件の重視への変革の要請からきているといえます。

 

しかし、石田三成の佐和山城は、さきにもふれたとおり
済・交通条件を井伊氏の彦根城と比較してみると、佐
和山城
は中山道と北国街道という一大交通の要衝である
うえ、
琵琶湖に通じている松原内湖を足下に控えている
ことにより、さ
らに経済条件もより機能を果すことがで
きる。ここで、佐和山城から西南方面、僅か二キロほどし
か離れてはいない彦根城の立地条件を見る。




彦根城は、確かに琵琶湖と松原内湖(現松原干柘地)に
面してはいるが、交通の根幹となる道路を見ると、中山
道とは、遠く東海道草津から岐れ、朝鮮人街道を通して
城内に至り、鳥居本を経て中山道に接続することになる、。
もっとも北国街道には通じてはいる。また地勢を見ても
彦根山は、東南の佐和山、大利山が屹立しているため、
この方角の視野が効かない。

これらのことから見ても、近世的城下町プランを展開さ
せる場としては、佐和山城は何等遜色はない。ところが、
井伊氏-徳川家康は、むしろ積極的に城を廃棄すること
を目的に、なぜ彦根山を中心とする新しい城郭と城ド町
を構築したのか?それはつぎのような具合いに実行した。


「井伊家年譜」によると惣テ石垣櫓門等迄、佐和山、大
 津、長浜、安土ノ古城ヨリ来ル

とあり、天守も大津城 を移築したもの。
 また本丸表口の櫓門太鼓櫓は彦根寺のものの移築と推
定されており、下層の大扉や脇の竪格子板張り、鎧柱・
冠木などの木割りや構造が古く、しかも前身は現在のも
のより規模の大きな建物の門、-冠木の長さ・高さから
見て、おそらく彦根寺のものに佐和山城など、山城の谷
間に設けられていた城門ではないかとされている。




 「淡海古説」の伝えるところによると、一帯の石仏塔
 堂柱木ともに皆御城石垣のうら詰(裏龍)に致し候と
 いうこともあった。

 ですが、佐和山山頂の「石田の本丸直政公御拝領後に
九間切落したり。」とあり、旧来の寺社に対する「破却
ノ似付」られ様はただごととは思えない。
 さらに「淡海落穂集」を見てみよう。

 慶長年間(1603)彦根山に
御城がつくられることに
なって、それまでこの山にあった彦根寺や門光寺が移された
際、そのほかの欽明殿・養花院などの社寺も他の土地へ移転
するようにという奉行の申付けをうけ、犬上大明神をも取除く
よう仰付けられたので、作印・庄作・丁玄など彦根村の百姓
たちが、昔からの格式のある社堂だから替地を賜るよう申し
立て、その奉行とは激しい言い争いをしたところ、官一礼と寺
の本尊二肺、それに坊主三人を残らず船に乗せ、多景島坤
で沈めてしまった。それで他の百姓たちは恐れて誰も文句を
いう者もなく、仮の場所を定め、犬ト大明神はハ目(旧豊郷村
)に移し、広台寺は中薮に移したが、その後、火事にあって
この寺は絶えてしまった。

彦根山における新しい城郭建築の真の狙いは、三成の佐和
山城。さらに遡って秀吉の長浜城、信長の安土城までも含めて
旧勢力の残滓を一掃しようとしたものであり、それは、ただ彼
等が拠った城郭の撤去というに止まらなかった。

 其時の奉行人至って不才覚の人にて有しや、不仁とやいわ
ん、往古より名高き古跡其の外神社仏閣迄、大分退転せし事
ありといふ「彦根藩並近郷往古聞書」 これも、この方策の一
環だったろう。
 井伊氏は、何時、三成の残党が立ちあがるかも知れぬとい
う情勢のなかに繰りこんできたのです。多人数の集会を危険
根し、厳禁しているのも、当時の軍政の常道だったと考えた。 

--------------------------------------------------

①平山城
天然の地形を利用した要害という点では、山城 はその
戦略的
機能を十分 に果たし得ましたが、恒久化するに
つれて、また
麓にいわゆる城下町がつくられるようにな
ると、機能を果し得
なくなりました。そこで平野の中の
小高い丘を選んで城が築か
れた。これが平山城です。

②平城
戦乱が収まり平和が続くと、城は戦略的な 拠点である
よりも政治の中心としての色彩を濃くする。そしてつい
には領主の権威の象徴としての性格を帯びる

 ③木割り
柱の寸法を基準としてかもい なげし 鴨居や長押など
の造
作材の寸法を定めることをいう。日本古来の大工の
基準があ
り、例えば、鴨居の幅は柱の8・5~9分取り、
長押の成は柱
の6~7分取りという具合です。

④冠木
門柱の上部を貫く横木。 桂の頂上より少し下にある点で
笠木
と異なります。

⑤奉行
上命を奉じて公事・行事を執行すること。また、その担当者を
いいます。

 


序説 ヘルダリーンと現代

ツェラーンの自作詩朗読
 
ツェラーンの 1970年3月ド旬、ドイツの詩人ヘル
グリーンの生誕二〇〇年を記念するヘルダ
リーン協会主
催の行事が開かれ、当時ヴュルツブルク入学で教鞭を執
ってい
た私は開催地シュトゥットガルトに向かった。
同じ生年(1770)のルートヴィヒ、ヴァン・ベートーヴェン(~
1827)やヘーゲルらに較べれば、一般への知名度には欠け
るだろうが、現地にはこの詩人を愛する人々が多数つめかけ
南ドイツの三月末はまだ冷たかったにもかかわらず各催しに
は暖かい空気が吹き通っていた。

そのなかで、関心を持つ者からは特に待たれたひとつがあっ
た。パウル・ツェラーン(1920~70)の自作詩朗
読である。
すでにドイツ国内を中心にいくつもの文学賞
を受賞し、彼の文
学声価は定まった感があった。しかし
両親がナチスの強制収
容所で次々に虐殺され、自身も強
制労働に従事、以後も今度
はソ連の全体ド義ドに置かれ
るというい二つのイデオロギー
に晒された悲劇的な前半
生に起囚する苦悩は、年毎に加わ
る傷痕を増人させなが
ら精神と肉体の最深部に達してしまっ
ており、この時の
健康状態も極度に良くないと伝えられてい
た。

したがって、ツェラーンが予定通り小さな会場に姿を見
せたとき
の私の喜びは人きかった。そして末発表詩篇「、
光の強迫」を朗読したのである。現代ドイツ語圏を代表
する詩人の肉声は、ひょっとしてこれがヘルダリーン自
身から発せられたのではなかったかとすら思われる声音
の震えがあった。やはりj想通り衰弱の極みに及んでい
たせいか、いくつかの徴候が朗涜時に現れたために聴衆
の.郎からは騒めきも起こり、遺憾ながら完全な静寂で
聴かれたのではない。このご肺の拒.心ぃ反応は、ツェ
ラーン自身にも聴衆への耐え難い不快感と不信とを惹き
起こしたであろう。しかしこの瞬間を待ちつづけてきた
私には、そのような騒めきの反応は、彼の肉声を妨げる
ものとはならなかった。ツェラーンは行りのままの全て
の万を傾けつくして、詩人の唯一の証明の自作詩を読ん
だのだ。

それから約一か月後に生じたセーヌ川への彼の入水も衝
撃だったが、朗読はそれ故ほとんど最後の生の場に居合
わせ、肉声の唇作目まで聴き取った者にとっては、ひと
りの現代詩人の生と死を貫く声となったのである。しか
もその声は、声を発したツェラーンを喚び寄せたヘルダ
リーンヘと結ばれていく。山が時間と場所を越え、生者
か死者となり、死者らはいまひとつの声と化して声が詩
人らを媒介するのだ。小磯仁訳『ヘルグリーンとツェラ
ーン――内なる越境者の聲』(學鐙)第78巻、1981
6月号20~23頁) 参照)。

 

【エピソード】    

     

          16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願いま
   す)

場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                    幹事敬白  

    

 【脚注及びリンク】
-----------------------:------------------------  
 

  1. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
    島一 
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コ
    ンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣府
     経済社会総合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
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  27.  K. Keizer, S. Lindenberg, L. Steg(2008) "The Spreadi-
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  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会 編 サンライズ出版
  35. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町
  36. 城郭都市 Wipipedia
  37. ハイデルベルグ Wikipedia
  38. 田附城(田付城) 近江国(彦根)
  39. 荒神山古墳現地説明会 開催要項(案)彦根市
  40. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『
    絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』 、詩文楽
  41. リンダウ - Wikipedia
  42. ハイデルベルク城 - Wikipedia
  43. 城郭都市 Wikipedia
  44. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  45. 八幡神社  滋賀県彦根市田附町488
  46. 三ツ屋城 近江国(彦根)
  47. 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
  48. 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ) 
  49. エーグ=モルト (Aigues-Mortes)Wikipedia
  50. カルカソンヌ、仏蘭西南部都市、Wikipedia
  51. 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
  52. 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
  53. 万里の長城 世界史の窓  
  54. 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
    山近久美子(防衛大学校)2005.08.25
  55. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  56. 佐和山城 Wikopedia
  57. 石田三成 Wikipedia
  58. 佐々木十代之屋形太郎判官定綱 Wikipedia
  59. 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
    の成立
  60. 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
  61. 石田 正継 Wikipedia
  62. 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会
  63. 彦根藩並近郷往古聞書
  64. 井伊家年譜
  65.  

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城郭都市設計史Ⅲ

2015年12月12日 | 湖と城郭都市

 

 

 【佐和山城郭都市考】

門に入りて、このまたかかりを眺むれば、八つ棟造りに七
まずは見事なかかりかよ。、かかりかよ。裏のご門先て
北を眺
むれば裾は湖、ややみごと、ややみごと。いい城よ
見事な城よ堀ほりあげて、せきしょをうえて、せきし
ょに
花が咲きしならば、この堀ほり は花ざかりざかり。と唄
れている。

● 佐和山城と城下町

佐和山城城下について見てみよう。。
「淡海古座」の一節には、数か月前、自らの予で火をかけ
攻略した敵軍の城地に進駐してきた車勢の、落ち着かない
仮住居の模様がうつしだされていまる。慶長六年(160
1)直政公(坪伊直政)は近江の佐和山城を拝領、ここに
移られることになったが、それについては焼け残った石田
三成時代のの丸その他櫓門・馬屋・薪蔵・廊ド・僑などを
修繕し、直政公をはじめ家老の木俣、中野、庵原、脇氏な
どもこういうところに仮住いする有様で、ほかの人びとも
寺の門や足軽屋敷、民家などで 寝起きをしたが、寒さを
防ぎかねたといわれます。まためいめいの仮住居では炊事
もままならず、幸いに三成の居館の台所が焼け残っていた
ので、そこで全軍の飯を炊き出した 炊き上ると板を叩い
て合図し、人びとは飯びつをかかえて配給をうけにいき、
各自の住居に持ち帰って食べた。



今日、佐和田城跡およびその城下町たった一帯が、わずか
に人にの加えられた地形上に特異点のほかには、殆どその
遺構を留めていないのは、井伊氏が彦根築城に際して意図
的に行った徹底的破壊のためでありました.,参いにも『
佐和山城古城古図』なるものが残されていまる。それでは、
非運の謀将、石田三成の設営した城ド町を彷徨ってみる。
 まず、佐和山城の背面、本丸より湖畔に直ドする谷に、
「モチノ木谷」・「蛇谷」・「清涼か谷」・「龍潭か谷」
の四つの谷があり、モチノ木谷は「治郎殿(石田治郎少部
三成のこと)居住所これ有りし」とある。このモチノ木谷
から、愛宕山・清涼手谷口・龍潭寺谷口にかけて湖辺に点
在した侍屋敷や町屋についてみますと、愛宕山の爾の端の
東部は、石田家のころには蓮池であったのか、このあたり
の田圃から蓮の根などもたくさん掘りだされたもので、治
郎殿の居館の前栽だったという話が伝えられている


愛宕山の裾に井戸があり、この辺は石田家時代の侍屋敷に
あたり、犬塚求之介殿もしばらく住まわれたところで、台
所の井戸だったようです。清涼寺の南に少しばかり上り坂
があり、これを「かもう坂」と呼んで聞いた。昔はこれは
街道であった。松原方面に行く者は松原内湖(現松原子柘
地)に架けられた百聞橋の方へ、陸路を行く者はこの「か
もう坂」のコースをとって往来したといいう。今大潟山、
元石ケ崎の豊国山周辺図、能潭寺の前あたりと昔火薬庫と
の問は鍛冶屋であって石ケ崎町と呼んでいました。いまの
彦根城下の石ケ崎町はこれを移したもので、現在「みじか
尾」と呼んでいるところを下つたあたりは、石田家の当時
は大きな墓地で、火葬場があったといいます。この辺から
火薬了五欲畑庫の一帯の物生山越えの峠までの山麓には「
五畝畑や桧原村の農民の土地があった。

松原には、町屋はなきが、佐和山城の最外郭部であり、武
家屋敷や米蔵が置かれていた。             

百姓家も石田家之時は袷八軒ならでは御座なく候、則ち其
の時之百姓家地は今大里川の南辺に罷りあり候」「今百姓
家地之下名、名字等ご座候、すなわち永井家屋敷、五郎太
夫殿」、八左右衛門殿、非地左右衛門殿、小田朗殿、主膳
殿、板倉殿、市部井戸の、に石田之時、米蔵清、納米米仕
り候。庵殿屋敷、天神西の畑今に字蔵屋敷と申し候」とあ
りま、自問橋は、この松原の侍屋敷や米蔵と佐和山城との
連絡ルートであったわけで、実際の長さは.五OOメート
ル途中ミ祈して清涼寺前に達していました。
 この他、古記には西法寺に足軽屋敷、古沢村に馬苦労町
(馬喰町)・新町・魚屋町なの町屋や侍屋敷の形成された
ものが見られる。西法寺村の山手には、治部殿の足軽が住
んでいたそうで、その数三千といわれれる。
 このような城下町も城郭も彦根藩の旧物破壊策によって、
あるいは壊され、あるいは彦根城の建設資材として運ばれ、
また城下の住民も多く彦根新城下に移転吸収された。

[佐和山城城下町彦根市古沢町 ・0749-24-7971一(彦根
古沢教育委員会)


 

 

国道八号佐和山トンネルを鳥居本日に出て、左に析れると
「佐和山城大手口」の標識があります。その左手に堀跡が
り、また、畑の中に「佐和山城大手門跡」の棒標が建っ
ている
。この門には二重の堀があり、門の両脇には武者走
りのあ
る土居が築かれていたといわれている。この大手門
は、落城三年後の慶長
八年(1603)に彦根の宗安かに
移築されていまる。赤門と呼ばれている。また、搦手門は
多賀町楢崎の高源与の山門になっていまる。その他、次の
ような櫓などがありました。法華丸絹い山道になって尾根
にかかったところに法修丸跡が静かに眠ったようにあり一
刀櫓ます。法華宗の庵寺で、その規模は18メートルに4
5メートルの人きさのものと推定されていまる。この法華
丸から尾根伝いに天守に向かい190メートルが築かれて
いた。太鼓丸法華丸口から左手尾根に出たところの台地に
太鼓丸の城郭がある。

ここは三成の家老山田嘉十郎が守っていたところで、南す
ぐ下が鳥居本越え峠の切通しになっている。千畳敷 太鼓
九口裏手の細小道は千畳敷への道。80メートル30メー
トルの平坦な台地は、周囲を石.坦で築かれ、この地下は
土牢があったと伝えられている。二の九 太鼓丸口から左
に.50メートル、ここで道は三分岐する。左は「千貫井
」を経て天守跡へ、真中の道は直接山頂へ、右手の道を辿
ると二の丸こ二の丸の跡地がある。二の丸は三成の兄正澄
が住んでいたところで、城郭と土居が巡らされていました
。三の丸は多角形の城郭で土居と竪堀があり、島左近が守
備をしていたところ。

● 美濃殿丸塩硝櫓

家老の広瀬美濃守が住んでいたことからこの名がつけられ
たもの。頂上の本丸から龍潭寺への葛折りの北山尾根道を
行くと塩硝櫓跡があります。塩硝とは塩と火薬のことです
。ここは、三股の雛壇からなる平地に造成されます。上段
の台地には火薬を貯蔵した「煙硝蔵」、下段の台地には塩
を貯蔵した「塩櫓」がありました。この橋から山裾までの
ところを、佐和山城の搦手に当るところで、「水の手」と
いっています。「水の手口門」はこの付近にありました。
佐和山城攻めには、ここから東軍(徳川方)の田中古敗軍
が怒濤のごとく襲いかかってきたところです。馬冷池 現
在の鳥居本町宮田から山手に入り、「三の丸」と「美渡殿
丸」との谷間から右の竹林に沿って更に山に向って入って
いくと、竹藪の中にこの「馬冷池」があります。今では、
緑も鮮やかに影蒼と繁っている竹の林ですが、その昔、こ
の静かな環境のなかで馬を休ませたという好適の憩いの場
であったことでしょう。

[佐和山城趾 彦根市古沢町 ・0749(24)7971(彦根市
教育委員会)]

 

『佐和山城絵図』に「侍屋敷」と書かれた場所の発掘調査で
は、山裾に堀が見つかり、堀の周辺からは堀を渡って城に
る橋跡や門柱の跡などが見
つかる。また、16世紀後半頃の
鉄砲の玉や小柄など
武家屋敷での生活をうかがわせる金属
製品、信楽焼・備前
焼の擂鉢や瀬戸美濃焼の天目茶碗や青磁
碗などの土器陶磁
器類をはじめ、下駄や漆器椀などの木製品
砥石や石臼な
どが出土していている。

 
このようにみていくと、松原町は内湖で水運荷揚げ港湾とあ
して機能するも、芹川――能登川以南で現在の国道8号線、
すなわち中山道沿い東側に穀倉地帯が広がり、松原内湖――
大藪当たりの浮田地帯は冠水んp恐れや米作品質が悪い穀倉
地帯であったと考えられ。彦根藩35万石と歌われてはいる
がそれ以前の佐和山城 (石田三成)下の生産力はその半分か
それを少し下回わるような郷土力であったものと考えられる。
その他の他藩にはない、免。絹織物などの算出が豊かであれ
ばここ湖東地区は一帯は豊かな共同体を形成していただろう
と考えられる。

【エピソード】   

    

          16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願いま
   す)

場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                    幹事敬白  

   

 【脚注及びリンク】
-----------------------:------------------------  

  1. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
    島一 
    サンライズ印刷出版部  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コ
    ンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣府
     経済社会総合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
    L. Kelling
  27.  K. Keizer, S. Lindenberg, L. Steg(2008) "The Spreadi-
    ng of Disorder", Science, 322, 5908
    , pp1681 - 1685
  28. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 近江佐和山城・彦根城 城郭談話会 編 サンライズ出版
  35. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町
  36. 城郭都市 Wipipedia
  37. ハイデルベルグ Wikipedia
  38. 田附城(田付城) 近江国(彦根)
  39. 荒神山古墳現地説明会 開催要項(案)彦根市
  40. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『
    絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』 、詩文楽
  41. リンダウ - Wikipedia
  42. ハイデルベルク城 - Wikipedia
  43. 城郭都市 Wikipedia
  44. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  45. 八幡神社  滋賀県彦根市田附町488
  46. 三ツ屋城 近江国(彦根)
  47. 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
  48. 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ) 
  49. エーグ=モルト (Aigues-Mortes)Wikipedia
  50. カルカソンヌ、仏蘭西南部都市、Wikipedia
  51. 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
  52. 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
  53. 万里の長城 世界史の窓  
  54. 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
    山近久美子(防衛大学校)2005.08.25
  55. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  56. 佐和山城 Wikopedia
  57. 石田三成 Wikipedia
  58. 佐々木十代之屋形太郎判官定綱 Wikipedia
  59. 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
    の成立
  60. 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
  61. 石田 正継 Wikipedia
  62. 佐和山城跡の公式パンフレット 彦根観光協会

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城郭都市設計史Ⅱ

2015年12月10日 | 湖と城郭都市

 

 

 

 ● ヘルダーリンの故郷  6

  家の天使よ 来れ! すべての生の血脈に

  すべてを同時に喜ばせ 神の力が分たれるように!

   神の力よ 高めよ! 若返らせよ! 人間の善の一切

 一日刻限の一切が 朗きらかな天使を伴うように

 愛し合う者が再会する時の喜びが

 場にふさわしく清められているように。


 我らが宴を祝う時 誰の名を私は呼べばよいか。

 一日のいそしみから憩う時 どのように感謝したらよ
 いか。


 至高者の名を呼ぶのか? 神は不躾(ぶしkつけ)を
 好まない。

 神を捉えようにも 我らの喜びはさやかに過ぎる。

 口をつぐまねばならない。神聖な名が脱け落ちている。

 心ははずむ しかし言葉はついて行かない。

 だが 絃楽はすべての時に音を恵み

 近づく天上の者に 喜びを与えもしよう。

 その用意が整えば 歓喜に忍びこんだ

 憂愁も ほとんど宥和されている。

 憂愁を 否応なしに歌人は

 心の内に荷わねばならぬ 世の人々とは異って。

   
       フリードリヒ・ヘンダーリン 『帰郷』 



Engel des Hauses, zu kommen! Möge die Macht des
Himmels
Spread


Durch alle
Adern des Lebens, Veredlung und belebend


Und Abgeben
Freude! So dass fröhliche Engel besuch-
en
auf


Menschliche Güte
jede Stunde des Tages, und das


Eine solche
Freude, wie ich erlebe jetzt, wo Lieben


Korrekt
wiedervereint, in geeigneter Weise geheiligt
werden
.


Wenn
wir segnen das Mahl, auf wen soll ich sagen,


Und wenn
wir uns ausruhen nach der Tagesaktivität,
sag mir,


Wie werde ich
bieten dank? Soll ich das Höchste beim
Namen
?


Ein Gott, der
nicht mag, was ungeeignet ist. Vielleicht-
unsere Freude


Ist nicht groß genug
, um ihn zu erreichen. Wir müssen
oft schweigen,


Eine
heilige Sprache fehlt - Herzen schlagen und doch


Speech
kann nicht entstehen? Aber der Klang der Strei
chmusik


Resonanz
von Stunde zu Stunde, und vielleicht gefällt


Die
Annäherung an Götter. Beginnen Sie die Musik
und
die Sorgen


Fast
verschwinden, die unsere Freude beeinträchtigt hätte.


Willig
oder nicht, muss Dichtern oft beschäftigen sich


Mit solchen Dingen
, jedoch nicht mit anderen.


        Friedrich Hölderlin "Homecoming" 

 

 

 

【佐和山城郭都市考】  


● 石田三成の居城佐和山城 

    石田三成の銅像

 まず、琵琶湖と東近江平野とその里山あるいは鈴鹿山
系を後背とした新しい城郭田園都市構想するには、佐和
山城とその城郭都市を温ねる必要がある。

 石田治郎少輔三成は永禄三年(1560)滋賀県坂田
郡北郷里村石田(現長浜市石田町)
に生まれました。こ
れは、ちょうど今川義元と織田信長の桶狭間の戦の年
あった。

 石田町には、いまも石田屋敷跡と呼ばれる空地があり
昭和十六年(1941)に発足
した石田三成公事跡顕彰
会が建立する出生地を示す石碑がある。その空地の横に
周囲三〇ぴほどの池が、石田屋敷の濠であったといわ
れ、
田家は藤原系で、京極家に仕え、曽祖父を蔵人人道
妬沢、祖父は陸奥人道清心、父は
隠岐守正継といい、屋
敷跡の広さから推測しても相当の旧家であったことがわ
っている。


 
三成の幼名は佐吉、天正二年(1574)15歳のと
き羽柴(後の豊臣)秀吉に召し出
され、微るいお茶から
次第に熱いお茶に代えて所望に応えた、いわゆる「ニ椀
の才」を認めら
れたことは、有名なはなしとして伝わっ
ている。実はその場所が坂田郡誌では大原村の観音寺で、
伊香郡誌では古橋村の法華寺であるとして、本家争いを
しているが――
それはともかく、湖北の旧家の二男にす
ぎなかった佐吉が、18歳で小姓頭になり、以
後その才
幹を秀吉に認められ、25歳の若さで豊臣内閣の首席大
臣に上り詰める、従五位下治部少輔に任ぜられ、五奉行
の一人になり、二十三万有の佐和山城主となった。



 ここで、佐和山城の変遷について見ておこう。創始は、
鎌倉時代。佐々木十代之屋形太郎判官定綱が初めてこの
地による。佐保山と称していましたが後世、佐和山と
改名、佐波山、沢山とも書く。永正年間(1500頃)
京極氏の臣、上坂景重が湖北で勢力があって六角氏と年
々戦た地。大永年間(1520頃)六角氏の勢力下築城
。小川左近大輔が城主となる。浅井亮政は、六角氏の守
将を逐い、磯野伊予守貝吉、次いで養子丹波守貝昌まで
二代これを守る。

 元亀元年(1570)6月28日、城生貝昌は浅井勢
として姉川合戦で戦う。浅井勢の敗退により織田方の氏
家、安藤の二隊を突破して本城に帰還。七月一日織田信
長は本城攻撃を開始、員昌よく防戦。信長はは強襲の不
利を察して長囲の策をとります。東百々屋敷方面に丹波
長秀。南、水野下野守。北、市橋九郎左衛門。西彦根山。
河尻与兵衛を配置して守らせます。員昌は、八か月龍城
を続けた。



彦根城天秤櫓より佐和山城跡を望む(中央の山が佐和山城跡、その向うが鈴鹿
山系の山なみ)


 信長は、浅井長政と妥協開城。そこで、信長は員昌に
高島郡一円を与える。そして丹波長秀を守将に、大正十
一年(1583)秀吉は堀秀政を城主とし九万有に封じ
ている。大正十三年、秀政、越前北の庄に移るや近江坂
本から堀尾古蹟佐和山城主となる。
 大正十八年(1590)古蹟は遠州浜松へ転封。石田
三成は水口で四万石の城主でありましたが、その臣島左
近に一万五千石を与えて士を愛する名将と謳われました。
秀吉は、石田三成が関東征伐に大功があったとして、佐
和山城主とし、江北二十三万石を領せしめました。

  石田正継

 それから関ケ原役までのまる10年間が彼の城主時代
であり、三成は五奉行の一人として中央の政治に参画し
ていたから、領地に帰ることは殆どなく、父の隠岐守正
が城代として殆ど取りしきっているが、城の修築には
彼自身が総指揮を行っているという。
 鳥居本を大手に、松原内湖(現桧原干拓地)に面する
蛇ケ谷を搦め手とし、五層の天守の聳える本丸を中心に
西の丸、二の丸、三の丸、太鼓丸、鐘の丸、法華丸の城
壁を備え、搦め手の大利一帯に重臣の邸宅を構え、一般
の家臣の官舎は松原にまで並び、大利一帯を城下町に造
りあげました。また内湖には幅六八、長さ六〇〇びの百
聞橋を架けた。

 島左近の邸は、いまの清涼寺のところにあったという。
このように堂々たるものでしたが、内容は極めて質素で、
どちらかというと実用本位とし、城の居間などは板張り
で、壁も荒壁のままだったといいます。この近くの西明
寺に残る板絵は、この佐和山城を写し描いたものだとい
われる。ここの城主としての三成の民政ぶりは、後世ま
で伝わるほどの仁政を布くが、学者肌だったという父正
継の性格も大いに反映していたともいわれる。


[佐和山城]彦根市古沢町 ・0749-24-7971 彦根市教育
委員会)     
                          
①姉川合戦

姉川は滋賀県東浅井郡 を流れる川。伊吹山に発 源、
琵琶
湖に注ぐ。元亀 元年(1570)織田信 長が浅
井長政・朝倉
義景 を破った合戦。


【エピソード】  
 

    

          16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願いま
   す)

場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                    幹事敬白  

   

 【脚注及びリンク】
-----------------------:------------------------  

  1. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
    島一 
    サンライズ印刷出版部  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体コ
    ンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣府
     経済社会総合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
    L. Kelling
  27.  K. Keizer, S. Lindenberg, L. Steg(2008) "The Spreadi-
    ng of Disorder", Science, 322, 5908
    , pp1681 - 1685
  28. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町
  35. 城郭都市 Wipipedia
  36. ハイデルベルグ Wikipedia
  37. 田附城(田付城) 近江国(彦根)
  38. 荒神山古墳現地説明会 開催要項(案)彦根市
  39. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『
    絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』 、詩文楽
  40. リンダウ - Wikipedia
  41. ハイデルベルク城 - Wikipedia
  42. 城郭都市 Wikipedia
  43. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  44. 八幡神社  滋賀県彦根市田附町488
  45. 三ツ屋城 近江国(彦根)
  46. 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
  47. 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ) 
  48. エーグ=モルト (Aigues-Mortes)Wikipedia
  49. カルカソンヌ、仏蘭西南部都市、Wikipedia
  50. 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
  51. 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
  52. 万里の長城 世界史の窓  
  53. 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
    山近久美子(防衛大学校)2005.08.25
  54. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  55. 佐和山城 Wikopedia
  56. 石田三成 Wikipedia
  57. 佐々木十代之屋形太郎判官定綱 Wikipedia
  58. 第一章 鎌倉・南北時代の石部近江守護佐々木氏
    の成立
  59. 佐和山城 彦根市民の飲み水を守る会
  60. 石田 正継 Wikipedia

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城郭都市設計史Ⅰ

2015年12月07日 | 湖と城郭都市

 


【城郭都市設計史】  

元来、城郭都市の歴史は古く、エジプト文明、メソポタミ
ア文明、インダス文明、中国文明や、古代ギリシアの各地
に誕生している。
城郭都市の起源は環濠集落と考えられ、
新石器時代に農耕が誕生するとともに世界各地で普遍的に
見られた。(1)農耕の発達が始まり集落に富が蓄積され
るようになり、これを奪おうとする外敵の脅威に対して防
御するため、周囲に堀をうがち土を盛り上げて土塁とし、
やがて防御力強化のためより堀を深くし、水を溜め、土塁
には柵を設けた。(2)さらに版築、煉瓦や石を積んで壁
を作り、壁はより高く、堅固、巨大となり、都市になって
いく。(3)これらの城郭都市は古くから都市文明が興隆
し部族、民族間の争いが頻発していた地域において著しい
発展を遂げる。



● 中国の特徴

中国では「城」の本来の語義は都市を囲む防塁・城壁自体
を指していたが、後に城壁で囲まれた内部をも含むように
なる。特に城壁のみを指す場合は「城牆(じょうしょう)」
といい、城壁の内側(内城)を「城」、城壁の外側(外城
「郭」といい区別した。東洋の城郭都市は、要塞・城郭の周
囲に都市が存在し、西洋の城郭都市とは異なるが、まずは、
城郭都市の総合的な部分として、日本と中国の城郭都市は似
ているが、例外として、西安・南京は城郭都市とは言われる。
中国では殷王朝が神権政治を行っていが、三国時代の千二
年も前には既に滅んでいる。当時の城壁は木枠の中に土を

め(今風の矢板にセメント・コンクリートは火山がなかったが
)上から押し固めることで構築している。因みに、
中国は雨
が少なく、日照時間が長い気候の為、雨で土が流れる心配も
なく土壁で十分だった(地震も発生確率は日本より格段に少い
から、原発建設がいかに不経済であるかが類推できるから、
日本国家完了の馬鹿さ加減がわかるというものです。
因みに
地震も日本に比べると無いため更に強化する必要がなかった。

中国は古代から居住区を壁で囲み、農地は壁の外に広げると
いう都市国家群を連合し王朝を形成していた。このため、千
万もの人口の殆どが各地に点在する城邑の内部で暮らしてた。
その為いかに国土が広大と言っても、人口密集地帯が多く、
労働力の確保もそれ程困難がなく生産性が高かっただろう。



また、工法が原始的、かつ簡素な版築で、労働力の確保も農
閑期であれば十分容易で、地震や雨が少ないので、一度作っ
てしまえば時々補修するだけで長持ちし、大規模な城塞都市
が多数存在していても不思議ではない。、また、長城は、秦
統一の前から戦国諸国が国境に作っていたが、秦統一後、
諸国が築いていた長城を繋げたのが万里の長城で、秦王朝期
に万里の長城が完成していた。現在のもに比べると距離も短
く。材質も石やレンガではなく土壁でしたため現在の長城は
王朝期である。


● 欧州の特徴

西洋の城郭都市は文字とおり、都市全体を城郭で囲ってしま
うが、都市国家が発展したイタリア、ドイツの中世において
よく見られ欧州
は、近隣の都市同士の戦いも相当のものがあり
それも城郭都市が建設された大きな理由のひとつであるが。に欧
州は、「ユーラシア大陸」というヨーロッパとアジアの大陸をあわせ
た巨大な大陸の一部であり、いつでも地続きで外敵が入ってくる
可能性にさらされている土地であり基本的に外敵に対する対策
は欠かせない。

 

城郭都市・城壁都市では、城壁には城門が構えられ、堀がう
がたれて跳ね橋などが設けられている場合もあった。城門の
外側にもう1重城壁が設けられるなど防備は厳重を極める。
城壁の上には一定間隔で望楼が設置され、壁に開けられた銃
眼によって敵を射撃。城郭都市の内部には、丘陵に領主の城
館が建てられるなどして城塞形成し、周辺には家臣団の他、
一般住民も居住。大きなものでは郭内に耕地があるものもあ
り、井戸がいくつもあって長期の籠城に耐えられるようにな
っていた。

 

大陸の主要大都市にはほとんどの場合高い城壁が備えられて
いる。パリの城壁は市域拡大に併せて放射状に拡張されたし、2
度のウィーン包囲に耐えたウィーンは深い堀と総延長4キロメー
トルに及ぶ城壁に塔と堡塁を備えていた。イスラム文化圏の中心
都市であったバグダードも7つの城門を持つ直径2.35キロメート
ルの円形の城壁で囲まれていたし、東ローマ帝国の帝都コンス
タンティノープルは高さ10数メートルの3重の城壁で守られてい
る。

 

近世に至り大砲が発達したことで、高い城壁は防御の面で重
性を低下させ、実戦に耐えうるために城壁は低くなり、大
砲の死角
を無くすため、星形に稜堡を配する稜堡式城壁 (s-
tar fort) が主流となってたが、そういった城壁も市域の拡
張や航空機出現による戦術の転換のため、20世紀中には次
々と取り壊され、残された城壁は壁上が整備され、線路が敷
設されたり、高速道路になっているもある。

● 日本特徴 

日は本格的な都市が出現する以前の弥生式時代、既に互いに
割拠、抗争するクニの防衛拠点として環濠集落が発達してい
たが、これは統一国家の形成へと向かう中で姿を消した。や
がて中央集権的な律令国家が建設されていく中で、中国の都
城性概念が輸入され、国都としての平安京や平城京などは城
門や望楼を設け、囲郭都市の体をなしていた。だが、これら
の都城は戦時の防衛に耐えられる城壁などは築かれなかった。
中世になると博多や堺は都市の周囲を土塁と堀で囲み(環濠
sつうらく都市)、また各地で土塁と堀で囲まれた集落も出現
する
。一向宗の寺院も堀や土塁で防御された(寺内町)。その中で
最大なのが大阪城の元となった石山本願寺である。

 

【エピソード】  

    



【清涼寺の七不思議】

彦根の町は、関ヶ原の戦い直後に徳川四天王の一人・井伊
直政が移封され、彦根城を中心として発展。それ以前は、
現在の町を見下ろす位置の佐和山城に位置する。石田三成
が統治。佐和山城は関ヶ原の戦い直後に落城し、その後の
彦根城建設のために石垣の多くも持ち去られ、また江戸幕
府にとっての逆賊である石田三成の居城として歴史の舞台
からは完全に抹殺された。その佐和山城趾のふもとに清涼
寺がある。

この寺には「七不思議」と呼ばれる怪現象が伝承する。ま
ず、この土地の前の所有者であった石田家重臣・島左近に
まつわる不思議が4つ。【左近の南天】は、島左近が愛で
た南天の木が残っており、それに触れると腹痛を起こす。
壁の月】は、左近の居間を寺の方丈としたが、その壁に
月形の影が浮かび出てきて、壁を塗り替えても浮き出てく
。【唸り門】は左近邸の表門を山門としたが、大晦日に
になると風もないのに低い唸り声のような音がしたらしい
(現物は江戸時代に焼失)。【洗濯井戸】は、左近が茶の
湯に使用した井戸であり、汚れ物をひたしておくと一晩で
真っ白になった。


残りの3つはかなり奇怪な話である。関ヶ原の戦いの後、
井伊家の家臣が佐和山城での戦利品を虫干ししていると、
佐和山の方角から黒雲が湧き起こり、戦利品が風で持ち去
られたという【佐和山の黒雲】。本堂前のタブの木は佐和
山城築城以前からある樹齢数百年のもので、夜な夜な女性
に変化しては参詣者を驚かせたという【木娘】。墓地の一
角にある池で、佐和山城落城の折りに多くの人の血が流れ
込み、それ以来夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が
浮かび上がるという【血の池】。言い伝えを検証すると、
この七不思議はすべて関ヶ原の戦いに密接に関係し、寺の
境内は、島左近の住居があった場所であり、寺自体も初代
藩主井伊直政が関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が元で亡くな
り、その菩提を弔うために建立されたものである。そして
この清涼寺が藩主井伊家の菩提寺として、多数の人間の血
が流されたばかりの1602年に建立された事実に、大き
な謎が隠されているように感じるところであると解説され
ている(「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』)。
 

● 新年会の企画について    

ご無沙汰しております。
歳も押し詰まってきました。今年は幹事の都合で新年会を
取り止めにさせて頂きました。今年は、谷口さん、山田さ
ん、中村さん、芝原さんなどとは個人的ご挨拶などさせて
いただいておりましたが、新年度は下記の案で企画してお
りますので、肩肘はらず(いつものようにですが?)旧交
暖めたいと考えております。ご意見がございましたなら、
メールや電話などでお知らせ下さい。
なお、こちらからお邪魔させていただくやもしれませんが
その折りはよろしくお願い申し上げます。  

 

        16年度新年会(案) 

日時 2月中の日曜(夕食・昼食のどちらか選択願います)
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 未定(希望の料理を選択願います)
送迎 幹事が責任もって手配します。

                    幹事敬白  

  

 【脚注及びリンク】
-----------------------:------------------------  

  1. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「続・城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中
    島一 
    サンライズ印刷出版部  2002.9.20
  15. 中島一元彦根市長 Wikipedia
  16. ドイツ:ニュルティンゲン市「市民による自治体
    コンテスト1位のまち(1)」 池田憲昭
     内閣
    府 経済社会総合研究所
  17. ボーデン湖 Wikopedia
  18. コモ湖 Wikipedia
  19. ネッカー川 Wikipedia
  20. 『ヘルダーリン詩集』 川村次郎 訳 岩波文庫
  21. 『ヘルダーリン』小磯 仁 著 清水書院
  22. 父なるライン川を漕ぐ 心地良い追い風が吹くネ
    ッカー川 吉岡 嶺二 2012.12.07
  23. いのちの神様 多賀大社 Wikipedia
  24. 三島由紀夫 著『絹と明察』
  25. 割れ窓理論( Broken Windows Theory )Wikipedia
  26. How New York Became Safe: The Full Story, George
    L. Kelling
  27.  K. Keizer, S. Lindenberg, L. Steg(2008) "The Spreadi-
    ng of Disorder", Science, 322, 5908
    , pp1681 - 1685
  28. フリードリヒ・ヘルダーリン  Wikipedia 
  29. フリードリッヒ・ヘルダーリン - 松岡正剛の千夜千冊
  30. ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索
    頌歌『わびごと』を手がかりに 高橋輝暁 2010.09.06
  31. 『ヘルダーリンの詩作の解明』、ハイデッガー著
    イーリス・ブフハイム,濱田恂子訳
  32. 南ドイツの観光|ドイツ観光ガイド|阪急交通社
  33. バーデンヴェルテンベルク州&バイエルン州観光局公
    式日本語
  34. 阿自岐(あじき)神社 豊郷町
  35. 城郭都市 Wipipedia
  36. ハイデルベルグ Wikipedia
  37. 田附城(田付城) 近江国(彦根)
  38. 荒神山古墳現地説明会 開催要項(案)彦根市
  39. 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『
    絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』 、詩文楽
  40. リンダウ - Wikipedia
  41. ハイデルベルク城 - Wikipedia
  42. 城郭都市 wikipedia
  43. ヨーロッパ100名城 Wikipedia
  44. 八幡神社  滋賀県彦根市田附町488
  45. 三ツ屋城 近江国(彦根)
  46. 「清涼寺・七不思議 」/『日本伝承大鑑』
  47. 曹洞宗 清涼寺(せいりょうじ) 
  48. エーグ=モルト (Aigues-Mortes)Wikipedia
  49. カルカソンヌ、仏蘭西南部都市、Wikipedia
  50. 中国の城郭都市 : 殷周から明清まで 愛宕元著
  51. 中国城郭都市社会史研究 川勝守 著 汲古書院
  52. 万里の長城 世界史の窓  
  53. 中国厦門の城郭都市研究における外邦図の利用
    山近久美子(防衛大学校)2005.08.25
  54. ヨーロッパ100名城 Wikipedia

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