曖昧批評

調べないで書く適当な感想など

自分たちのサッカーとは何だったのか

2014-06-26 07:40:00 | スポーツ
普段は6時に起きるのだが、昨日は5時半に起きてコロンビア戦を見た。3-1になったところで見るのやめたけど。

コートジボワール戦の後、長谷部が「自分たちのサッカーを表現できなかったのが悔しい」と言った。勝ち負けよりも自分たちのサッカーにこだわるコメントにカチンと来て、僕は下のようなツイートをしてしまった。



この「自分たちのサッカー(キリッ」に反感を覚えた人は多いようで、過去の大会での登場回数を集計したコラムまで書かれた。なかなか面白いです。


「自分たちのサッカー」は、いつから日本代表の口癖になったのか


叩いておいてなんだが、自分たちのサッカーなるものが何なのか、僕は分かるような気がしなくもないのだ。

それは「練習してきた自分たちのスタイル」だろう。トルシエのときはフラット3。オシムのときは考えながら走るサッカー。そしてザックジャパンは速くて正確なパス回しで主導権を握る攻撃的サッカー。

選手たちは、紅白戦やミニゲーム形式で、それぞれの時代に掲げられたスタイルでプレイする練習をしてきたのだろう。こうやれば点を取れる、こうやれば失点を防げると指導されて。

しけし、コラムの筆者も書いているように、サッカーは相手がある競技だ。特にワールドカップは、どこにあるのかも知らない国の、体格や肌の色が違う訳のわからない連中と戦わなくてはならない。本気で攻めてくる何もかもが自分たちとは違うやつらと戦ったら、練習してきた形でプレイするなんてなかなかできない。

だから、「自分たちのサッカーができなかった」という発言は、「練習してきたことができなかった」ということなのだろう。練習してきたことができなきゃ負けるに決まってる。それでは何も言ってないのと同じである。

そうじゃなくて、こっちは、どうして練習してきたことを出せなかったのかを聞きたいのだ。さっきまでピッチに立っていた者でないと分からない、もっと具体的な敗因を。

まず最初に「今の気持ち」を訊くマスコミにも、もちろん問題がある。特に「負けられない戦いが、そこにはある」などという「凄いチームが大決戦に挑む」みたいなコピーを、相手が何処だろうと何とかの一つ覚えのように掲げ続けるテレビ朝日には。

今日からの4年間は、相手に合わせて柔軟に対応できるサッカーを「自分たちのサッカー」としてモノにできるように練習してください。

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