池江璃花子選手が水泳 日本選手権ですばらしい復活劇を見せてくれた。同時に東京オリンピックの出場権も獲得し、本人も感無量と言ったところだったし、日本の多くの人間は感動した。池江選手がレース後のインタビューに答え「~自分がすごく自信が無くても努力すれば必ず報われるんだな、と思いました。~」レース直後の心境を思えば当然の感想と言えよう。Twitterで陸上の競技選手である藤光兼司選手は「本当にすごい!!すごく勇気をもらいますね、本当におめでとうございます!!。」と祝福。数日後に「~しかし『努力=報われる』という考え方だと、大半の人は報われない事になる。正しい努力とはいったなんなのか?」とも投稿している。それに答える形で池江選手は「確かに深く考えさせられる言葉ですね...。~どんな人も努力はしていると思います。ただ、その努力という定義は難しいな、と思います。本気で目指してきたことをたとえ達成できなかったとしても、その努力はきっと誰かが見ていて、誰かが勇気をもらえるのではないでしょうか?~(各本文抜粋)」と返信している。私はあるときInstagramで上がっていたプロ野球で選手/監督として活躍された故 野村克也さんの言葉を思い出した。野村さんはプロ野球へ「テスト生」として入団、その後活躍し「戦後初の三冠王・平成最多勝監督」など輝かしい戦績のある方であり「名将」とうたわれた。野村さんは「努力の先にあるものに価値があるのであり、その努力そのものに価値はない。」という言葉を残している。野村さんの身の上、体験から来る含蓄のある言葉である。本人が例えばスポーツで努力を積み重ねてきて、優勝できなかったとします。しかし、そのことはその後、社会に出て様々な難関の前に立った時に役に立つのではないか?と思う。
私自身、空手を長くやってきていても病気でついこの前まで稽古を中断していたし「もう関わりたくない」という思いが強くした時期もあった。35年あまり、私が今まで胸を張って言えるような努力をしてきたのか分からないが「一生懸命やってきても結果が悲惨なこともある。それを『運命』という言葉を装飾、諦めてはならない。」と思う。実際、後進の指導や私自身の稽古に夢中であった時に,空手の事故にあって、その後長く『後遺症』に悩むことになった。その影響で郷里を離れ、その道場も今は芳しくなくなっていることには責任を感じざるを得ない。みんな様々なバックグラウンドを抱えながら、あるいは抱えない人も空手に打ち込んだ人の中で優勝の名誉に浴することができるのは極々一部である。私のことはいっか・・・。
ただ、今回の池江選手の件に関していうと、レース直後に優勝という結果を得た人に「レースの前からインタビューの答えを考えておけ」というのは酷な話しである。ここは日頃思っていること、今までの苦労をして、今得た結果の率直な感想と受け止めた方が良いだろう。
陸上の藤光選手の言わんとするところは「スポーツエリートの心構え」と言うところかもしれません。池江選手にはすばらしいセンスとすばらしいスタッフと環境があったであろうし、スポンサーが付いていたことで金銭的にも他の選手より練習に割く時間は多かったであろし、例えば池江選手が「バイトしながら、水泳の練習していました。」という環境ならば、今回の結果は得られなかっただろう。池江選手が投稿した「~努力は必ず誰かが見ていて勇気づけられるのでは?~」というのは、若いなりゃこその発言でしょう。「誰にも知られず・・・」という人は世間に掃いて捨てるほどある。まぁね、世間には持つ者、持たざる者の二種で成り立っていて、スポーツは当事者たちには眼前で明瞭に示されると言うところがあります。「勝利は累々たる屍の上に立つ」ちゅうことですわ。
勝利に恵まれた方々には頭の片隅にこのことを置いておいて欲しい。
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