ホハレ峠(3-1) 0729
2020年7月29日(水)No126
私は、徳山村大字門入に生まれ育ったI氏から、(徳山ダムができて村民がいなくなった)門入の歴史などを、若い人に伝えたい、残したいとの話を聞き、2015年10月、氏の提案する「門入おこし協力隊(最終参加者23名)」に入りました。2年で10回近く門入に泊まり込みなどして活動、隊員Y氏の協力も得て2017年11月、50ページほどの冊子「門入おこし協力隊メモ」を作りました
徳山村史、徳山ダムの記録、美濃徳山の地名、なども参考にして、「ホハレ峠」の話を3回に分け、したいと思います
3-1 徳山村史などからホハレ峠を紹介
3-2 門入おこし協力隊メモ「はじめに」でIさんの門入への想いと昔の写真など紹介
3-3 ホハレ歩道を下って、門入旧集落まで歩いた時のIさんの生の声を紹介
☆ まず、「江州への道」(徳山村史p768~)でホハレ道を紹介
昔は門入から入谷・高倉峠を越えて越前南条郡との往来もあったように思われるが、門入・戸入からの道の本命は、やはり黒谷(下図の赤色の道)を経て、ホハレ峠を越え、川上・八草峠を経て江州木ノ本への道である
この道は、賤ケ岳の戦い、天正11年(1583)以後、本郷[徳山村の中心地]の増徳寺が曹洞宗に改宗し、江州菅並にある中本山洞寿院との関係が生まれ、その寺へお参りする人ができるようになって開けたように思う(中略)。また門入から旧道にかけられている一本橋の両岸と、ホハレ峠には、年号のない苔むした地蔵尊が祭られ、ホハレ峠への行き帰りの人々を守りつづけている
徳山村史p768のお地蔵さま、現在この地蔵はなく観音様が臨時?に据えてある(下)
また、この道には珍しい休み場が二つある。門入から半里ばかりのところにコウジヤスマ、一里のところに一里ヤスマがある。ここには、大きな石を組み合わせて道の両側に並べ、背負っている重い荷物をその石にのせながら休む休み場で、一度に十何人かが列をなして休むことができた。繭ボッカ、栃板ボッカの人々が、汗をふきながら列をなして休み場で休む姿が目に映るようである
大正6~7年ころまでは、戸入の人は朝3時ころ、三食分の弁当を持ち12~13人が一人12~13貫の繭を籠に入れ、門入~ホハレ~川上~鳥越~草野(野瀬)へ夕方四時半ころに着いた。その外、薬草(タンポポの根・キハダ・トチワラ人参・金箔細工用の山梨の皮・楮・桜の皮(カンバ)、熊の胃・けものの皮・その後、ケヤキの八角棒(大八車の軸)、栃板を運び出し、塩・米・酒から衣類を買って帰ったり、川上の業者が運んだりした。栃板運びは男が20貫目(75kg)近く、女が10貫目近い荷物を、生活の為とはいえ難儀して運んだようである
[戸入と門入の距離は約7km]
2枚の栃板(約75kg)を横に背負い、狭い道などは横歩きするなど難儀して運んだ
絵は、藤橋歴史民俗資料館2号棟「栃板挽きのコーナー」のものを複写しました
昭和28年、ようやく本郷への車道ができ、ホハレ峠を[歩いて]越すことも少なくなった。昭和40年、王子製紙が、パルプ材を搬出するための門入-川上間に私設の林道をつけ、ホハレ峠も自動車で越えられるようになった
注:[ ]はオーナーの書き込み
・車で門入~ホハレ~川上へ移動できたのは昭和40年~昭和のおわりころまで、I氏談
・私は、2002(平成14)年に道路が崩れたり、落石だらけのホハレ林道の写真を見たことが ある
・栃板は、厚さ1寸(3㎝)、幅3尺(91㎝)、長さ6尺(182㎝)が基準、藤橋歴史民俗資料館へ行くと、板の本物(上記サイズ)やオガ(専用のノコギリなど)が飾ってあります
・ホハレ峠(美濃徳山の地名p245) 登るのに、頬が腫れるほど苦しい峠。坂内村川上の書付には「入坂 ほうはれ峠」とあり、川上より門入へ越える峠。峠の地蔵は門入に向いている。根尾、徳ノ山から坂内に止まらず、更に八草を越えて江州に通づる大事な道筋である(『坂内村誌』)。門入は昔、坂内村に属していたから資料も多いです
写真は、村史から
次回は、門入おこし協力隊メモの ゛はじめに” の部分で、Iさんの門入への想いと昔の写 真などを紹介します
2020年7月29日(水)No126
私は、徳山村大字門入に生まれ育ったI氏から、(徳山ダムができて村民がいなくなった)門入の歴史などを、若い人に伝えたい、残したいとの話を聞き、2015年10月、氏の提案する「門入おこし協力隊(最終参加者23名)」に入りました。2年で10回近く門入に泊まり込みなどして活動、隊員Y氏の協力も得て2017年11月、50ページほどの冊子「門入おこし協力隊メモ」を作りました
徳山村史、徳山ダムの記録、美濃徳山の地名、なども参考にして、「ホハレ峠」の話を3回に分け、したいと思います
3-1 徳山村史などからホハレ峠を紹介
3-2 門入おこし協力隊メモ「はじめに」でIさんの門入への想いと昔の写真など紹介
3-3 ホハレ歩道を下って、門入旧集落まで歩いた時のIさんの生の声を紹介
☆ まず、「江州への道」(徳山村史p768~)でホハレ道を紹介
昔は門入から入谷・高倉峠を越えて越前南条郡との往来もあったように思われるが、門入・戸入からの道の本命は、やはり黒谷(下図の赤色の道)を経て、ホハレ峠を越え、川上・八草峠を経て江州木ノ本への道である
この道は、賤ケ岳の戦い、天正11年(1583)以後、本郷[徳山村の中心地]の増徳寺が曹洞宗に改宗し、江州菅並にある中本山洞寿院との関係が生まれ、その寺へお参りする人ができるようになって開けたように思う(中略)。また門入から旧道にかけられている一本橋の両岸と、ホハレ峠には、年号のない苔むした地蔵尊が祭られ、ホハレ峠への行き帰りの人々を守りつづけている
徳山村史p768のお地蔵さま、現在この地蔵はなく観音様が臨時?に据えてある(下)
また、この道には珍しい休み場が二つある。門入から半里ばかりのところにコウジヤスマ、一里のところに一里ヤスマがある。ここには、大きな石を組み合わせて道の両側に並べ、背負っている重い荷物をその石にのせながら休む休み場で、一度に十何人かが列をなして休むことができた。繭ボッカ、栃板ボッカの人々が、汗をふきながら列をなして休み場で休む姿が目に映るようである
大正6~7年ころまでは、戸入の人は朝3時ころ、三食分の弁当を持ち12~13人が一人12~13貫の繭を籠に入れ、門入~ホハレ~川上~鳥越~草野(野瀬)へ夕方四時半ころに着いた。その外、薬草(タンポポの根・キハダ・トチワラ人参・金箔細工用の山梨の皮・楮・桜の皮(カンバ)、熊の胃・けものの皮・その後、ケヤキの八角棒(大八車の軸)、栃板を運び出し、塩・米・酒から衣類を買って帰ったり、川上の業者が運んだりした。栃板運びは男が20貫目(75kg)近く、女が10貫目近い荷物を、生活の為とはいえ難儀して運んだようである
[戸入と門入の距離は約7km]
2枚の栃板(約75kg)を横に背負い、狭い道などは横歩きするなど難儀して運んだ
絵は、藤橋歴史民俗資料館2号棟「栃板挽きのコーナー」のものを複写しました
昭和28年、ようやく本郷への車道ができ、ホハレ峠を[歩いて]越すことも少なくなった。昭和40年、王子製紙が、パルプ材を搬出するための門入-川上間に私設の林道をつけ、ホハレ峠も自動車で越えられるようになった
注:[ ]はオーナーの書き込み
・車で門入~ホハレ~川上へ移動できたのは昭和40年~昭和のおわりころまで、I氏談
・私は、2002(平成14)年に道路が崩れたり、落石だらけのホハレ林道の写真を見たことが ある
・栃板は、厚さ1寸(3㎝)、幅3尺(91㎝)、長さ6尺(182㎝)が基準、藤橋歴史民俗資料館へ行くと、板の本物(上記サイズ)やオガ(専用のノコギリなど)が飾ってあります
・ホハレ峠(美濃徳山の地名p245) 登るのに、頬が腫れるほど苦しい峠。坂内村川上の書付には「入坂 ほうはれ峠」とあり、川上より門入へ越える峠。峠の地蔵は門入に向いている。根尾、徳ノ山から坂内に止まらず、更に八草を越えて江州に通づる大事な道筋である(『坂内村誌』)。門入は昔、坂内村に属していたから資料も多いです
写真は、村史から
次回は、門入おこし協力隊メモの ゛はじめに” の部分で、Iさんの門入への想いと昔の写 真などを紹介します
門入は一度行きましたが、I氏にお会いするのを楽しみにしています。(^-^)V
本記事を見ていて、オォッと思いました。高倉峠から近江の己高山を目指すとき、直線的に行けるからです。【昔は門入から入谷・高倉峠を越えて越前南条郡との往来もあったように思われる】
今、越前側のルートを探しているのですが、昭和40年代に廃村になった高倉村から高倉峠へ直踏するのが昔の道だと考えています。(現在は在りませんが熊野神社があったので修験者、木地師、猟師の往来があったと考えられる)
質問1:繭を籠に入れ、門入~ホハレ~川上~鳥越~草野(野瀬)へ夕方四時半ころに着いた。(到着先は木之本?
越前東浦の繭と桑葉は木之本へ船と馬借で運んだ)
質問2:金箔細工用の山梨の皮とありますが、どこで、どの様に使うのか?
これから、奥揖斐山荘さんの他の記事も丹念に見て奥揖斐の勉強をして行きたいと思います。
お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。
この事から「金箔細工用の山梨の皮」を見たとき、加賀の金箔や輪島塗の象嵌技術を思い浮かべたのです。
門入の古老のお話しが楽しみです。