とあるスナックで
コー
今、高橋五郎の本、「天皇の金塊」を読んでいるんだが、そこに日本が明治初期に、どのようにして現在の金融制度が作られてきたのか、が書かれている。
p-155
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日銀は天皇の地位をカネで操る幕末維新政府の顧問団たちとユダヤ金融商人たちの魂胆が実を結んだ産物だ。明治政府樹立の”革命的行為”からは、まずは天皇家が、戦争にも「金の百合」にもまったく関与させられなかった事情が漏れ出ている。天皇が関与しなかったのではなくて、させられなかった理由が見えてくるのだ。日銀は外国の金融商人と徳川幕府(明治新政府)の顧問団が作り上げた”合作銀行” つまり、国際社会に乗り出した幕末維新政府の関係者と日本支配を企んだ外国資本家たちの”野合”で生まれた混血銀行だ。ーーーー。
p-180
松方は1881年(明治14年)に明治政府に「財政議」と題する政策案を提出していた。案には「日本帝国中央銀行案」も盛り込まれていたのだった。その案は3年前の1878年にパリでロスチャイルド家(レオン・セイ)が松方に伝授したあの中央銀行創設だった。大蔵卿大隅が、黒田の政治スキャンダル(政変)に巻き込まれて失墜した1881年(明治14年)の1カ月前に松方案はすでに提出されていたもの。つまり、松方サムライ軍団はプランの実現を政変を待ってシナリオどおりに運んだもの。と見られても仕方がない。
中央銀行の創設機会を密かに手繰り寄せてきた松方らの藩閥と民間商人を含むサムライ軍団は、「政変」(大隅追放)が自分たちの陰謀を無関係だとして装った。
「政変」で大隅失墜を仕掛けた彼らは松方を走らせてロスチャイルド家との謀議で私益の創出システムを求めてきたサムライ軍団の仕業だとは気づかせなかった。
ロスチャイルド家をバックに、薩摩藩の大久保、松方、黒田や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、渋沢栄一らと意を通じた両替商(銀行)で貿易商の三井、三菱、住友などは明治新政府の樹立にこぎつけたお馴染みのサムライ軍団たちへの資金支援を請け負った。政変の仕掛け人で日銀創設を実現した経済メンバー(顧問団)たちには欠かせないスポンサーだった。
松方のパリ訪問(日銀創設と天皇の権限を排除する策謀)は、成功する。大金融業者ロスチャイルド家ぐるみの明治新政府の樹立がかなったのだ。つまり、明治政府が世界の巨大な金融資本を取り込んだ(大スポンサーを獲得した)政府であったことを明かしている。後年の日清、日露戦争、そして太平洋戦争まで、巨大資本家の資本支援で戦費を容易に調達(歴史では苦労の末の資金調達だといいくるめている)しかしながら、戦争事業に加担、天皇の不満をそぐために、天皇家には大財閥の地位のみ与えて権力は与えない。すなわち、ロスチャイルド家と松方サムライ軍団による日本完全支配の謀議と戦略は奏功した。ーーーーーー。
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p-156
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日銀遺伝子の”厚かましさ”は日銀総裁を務めた福井俊彦(1935~)という人物と総裁の地位との関係から見ることができる。福井は世界的な金融証券会社ゴールドマン・サックス社の顧問を務め、2005年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与された金融経歴の持ち主だ。G・サックス社は株の空売りで、日本の老舗山一証券会社を破綻させ、都内の一等地の不動産を買い叩いているアメリカの巨大金融証券会社としても知られている。ビル・クリントンが大統領就任直前まで同社の共同会長を務めていたり、ヘンリー・キッシンジャーが徘徊したりしている同社は、いわゆるハゲ鷹ファンドの頂点に立つ会社でもある。
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p-172
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松方はロスチャイルドが”発明”した「信用創造」政策を採用した。この政策は、日銀が貸出量を操作するだけで、一国の経済の好不況をコントロールできる政策だ。貨幣量の増加をもたらす政策手法「信用創造」について、吉田(吉田祐二)は小論で「恐慌の発生には、銀行が信用量の拡大を止めるだけで十分である。そうすれば遅かれ早かれ不況の恐怖は発生する」とするハイエク理論(貨幣理論と景気循環)を挙げ、「信用創造」のカラクリと手法の独占活用を日銀の基礎に置いた政策だと指摘している。
「信用創造」とは、たとえば、ある銀行が中央銀行(日銀)に準備金を一億金預けて、その準備率をこの1パーセントとすれば、ーーー。
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