とあるスナックで
小林
小林
小林
リチャード・A・ヴェルナーは、日銀の事を調べているうちに、アメリカやその他の中央銀行の事も調べて、ずいぶん、疑問におもっているみたいですね。 P-321
本書は、経済成長も資産価格も為替レートも、じつは日本銀行が決めていたことを明らかにした。秘密の窓口指導による信用規制をつかって、80年代には銀行に過剰な不動産融資を強制した。秘密の窓口指導による信用規制を使って、90年代には信用を抑制して、バブルを破裂させた。そのあとは信用創造を拡大せず、政府の景気刺激策を積極的に邪魔した。不況を長期化させたことに加えて、日銀はアメリカの連邦準備制度理事会と一緒になって為替相場を操作して円高に仕向けた。これはさらに大きな打撃を経済と投資家に与えた。中央銀行が景気回復策を邪魔したために、政府債務は莫大な額になり、将来の世代の税負担が重くなった。
コー本書は、経済成長も資産価格も為替レートも、じつは日本銀行が決めていたことを明らかにした。秘密の窓口指導による信用規制をつかって、80年代には銀行に過剰な不動産融資を強制した。秘密の窓口指導による信用規制を使って、90年代には信用を抑制して、バブルを破裂させた。そのあとは信用創造を拡大せず、政府の景気刺激策を積極的に邪魔した。不況を長期化させたことに加えて、日銀はアメリカの連邦準備制度理事会と一緒になって為替相場を操作して円高に仕向けた。これはさらに大きな打撃を経済と投資家に与えた。中央銀行が景気回復策を邪魔したために、政府債務は莫大な額になり、将来の世代の税負担が重くなった。
そして、FRB議長のアラン・グリーンスパンと会っているんだね。 P-335
アラン・グリーンスパンはこの事実にきずいていないのか。信用創造のプロセスについての丹念な研究の中で、1920年代、30年代のアメリカの景気循環を生み出したメカニズムに対する明晰な理解を示しているのだから、彼には事態が分かっているはずだ。わたしが個人的に会った経験からも、知っているにちがいないと思う。わたしがアラン・グリーンスパンに会ったのは1997年9月、香港でIMF・世界銀行年次総会が、開催されたときだった。
それより4年前の1993年、日本のバブル経済の陰にあるメカニズムに関するわたしの論文の一つが、イギリスの<エコノミスト>誌でとりあげられて、たくさんの手紙がきた。おもにウォール街の投資銀行と各国の中央銀行からだった。どれも、論文が欲しいというものだった。なかで、急いでいるらしい要請は、連邦準備制度理事会から届いた。ファックスや急ぎの電話が何回もかかって、<理事会の上級メンバー>が至急わたしの論文を手に入れたがっていると知らされた。論文を送ると、それきり連絡は途絶えた。1995年にワシントンの連邦準備制度理事会を訪れたとき、スタッフに論文を読みたがった上級メンバーとは誰か、と聞いてみた。答えは、<もちろん、アランだよ>だった。
1997年に香港で夕食会が開かれたとき、アラン・グリーンスパンを見かけて、これはよい機会だと思った。そこで彼に近づき、<失礼ですが、自己紹介をさせていただけますか? リチャード・ヴェルナーと申します。以前、わたしの論文をお読みいただいたと思うのですが>と話しかけた。たぶん、グリーンスパンは首をひねって、<ほう?どんな論文だったかね?>と言うのではないかと思っていた。ところが、彼から返ってきた答えは、いまも記憶に生々しい。<ああ、信用創造についての論文だね、日本の。二度読んだよ。(エコノミスト)の記事も、論文そのものも>。言葉を失ったのはこっちだった。この多忙で強大な権力をもった人物が、4年もたつのにわたしの名前から論文まで細かく覚えているなんて、信じられなかった。何と言うべきかわからなくて、わたしは尋ねた。<それで、どうお思いになりましたか?>すると彼は<覚えていないね>と答えて歩き去ってしまった。あとには、きょとんとしたエコノミストが残されたというわけだ。
アラン・グリーンスパンはこの事実にきずいていないのか。信用創造のプロセスについての丹念な研究の中で、1920年代、30年代のアメリカの景気循環を生み出したメカニズムに対する明晰な理解を示しているのだから、彼には事態が分かっているはずだ。わたしが個人的に会った経験からも、知っているにちがいないと思う。わたしがアラン・グリーンスパンに会ったのは1997年9月、香港でIMF・世界銀行年次総会が、開催されたときだった。
それより4年前の1993年、日本のバブル経済の陰にあるメカニズムに関するわたしの論文の一つが、イギリスの<エコノミスト>誌でとりあげられて、たくさんの手紙がきた。おもにウォール街の投資銀行と各国の中央銀行からだった。どれも、論文が欲しいというものだった。なかで、急いでいるらしい要請は、連邦準備制度理事会から届いた。ファックスや急ぎの電話が何回もかかって、<理事会の上級メンバー>が至急わたしの論文を手に入れたがっていると知らされた。論文を送ると、それきり連絡は途絶えた。1995年にワシントンの連邦準備制度理事会を訪れたとき、スタッフに論文を読みたがった上級メンバーとは誰か、と聞いてみた。答えは、<もちろん、アランだよ>だった。
1997年に香港で夕食会が開かれたとき、アラン・グリーンスパンを見かけて、これはよい機会だと思った。そこで彼に近づき、<失礼ですが、自己紹介をさせていただけますか? リチャード・ヴェルナーと申します。以前、わたしの論文をお読みいただいたと思うのですが>と話しかけた。たぶん、グリーンスパンは首をひねって、<ほう?どんな論文だったかね?>と言うのではないかと思っていた。ところが、彼から返ってきた答えは、いまも記憶に生々しい。<ああ、信用創造についての論文だね、日本の。二度読んだよ。(エコノミスト)の記事も、論文そのものも>。言葉を失ったのはこっちだった。この多忙で強大な権力をもった人物が、4年もたつのにわたしの名前から論文まで細かく覚えているなんて、信じられなかった。何と言うべきかわからなくて、わたしは尋ねた。<それで、どうお思いになりましたか?>すると彼は<覚えていないね>と答えて歩き去ってしまった。あとには、きょとんとしたエコノミストが残されたというわけだ。
小林
だから彼も、世界各国の中央銀行の本当の姿が、分かってくるんじゃないですかね。そして第二、第三の <ユースタス・マリンズ> になると思いますよ。または第二、第三の<G・エドワード・グリフィン>のように。