9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9・11について リチャード・A・ヴェルナーは第二のユースタス・マリンズになるか。

2015年03月30日 | 日記
とあるスナックで

小林
リチャード・A・ヴェルナーは、日銀の事を調べているうちに、アメリカやその他の中央銀行の事も調べて、ずいぶん、疑問におもっているみたいですね。 P-321

本書は、経済成長も資産価格も為替レートも、じつは日本銀行が決めていたことを明らかにした。秘密の窓口指導による信用規制をつかって、80年代には銀行に過剰な不動産融資を強制した。秘密の窓口指導による信用規制を使って、90年代には信用を抑制して、バブルを破裂させた。そのあとは信用創造を拡大せず、政府の景気刺激策を積極的に邪魔した。不況を長期化させたことに加えて、日銀はアメリカの連邦準備制度理事会と一緒になって為替相場を操作して円高に仕向けた。これはさらに大きな打撃を経済と投資家に与えた。中央銀行が景気回復策を邪魔したために、政府債務は莫大な額になり、将来の世代の税負担が重くなった。
コー
そして、FRB議長のアラン・グリーンスパンと会っているんだね。 P-335

アラン・グリーンスパンはこの事実にきずいていないのか。信用創造のプロセスについての丹念な研究の中で、1920年代、30年代のアメリカの景気循環を生み出したメカニズムに対する明晰な理解を示しているのだから、彼には事態が分かっているはずだ。わたしが個人的に会った経験からも、知っているにちがいないと思う。わたしがアラン・グリーンスパンに会ったのは1997年9月、香港でIMF・世界銀行年次総会が、開催されたときだった。
それより4年前の1993年、日本のバブル経済の陰にあるメカニズムに関するわたしの論文の一つが、イギリスの<エコノミスト>誌でとりあげられて、たくさんの手紙がきた。おもにウォール街の投資銀行と各国の中央銀行からだった。どれも、論文が欲しいというものだった。なかで、急いでいるらしい要請は、連邦準備制度理事会から届いた。ファックスや急ぎの電話が何回もかかって、<理事会の上級メンバー>が至急わたしの論文を手に入れたがっていると知らされた。論文を送ると、それきり連絡は途絶えた。1995年にワシントンの連邦準備制度理事会を訪れたとき、スタッフに論文を読みたがった上級メンバーとは誰か、と聞いてみた。答えは、<もちろん、アランだよ>だった。
1997年に香港で夕食会が開かれたとき、アラン・グリーンスパンを見かけて、これはよい機会だと思った。そこで彼に近づき、<失礼ですが、自己紹介をさせていただけますか? リチャード・ヴェルナーと申します。以前、わたしの論文をお読みいただいたと思うのですが>と話しかけた。たぶん、グリーンスパンは首をひねって、<ほう?どんな論文だったかね?>と言うのではないかと思っていた。ところが、彼から返ってきた答えは、いまも記憶に生々しい。<ああ、信用創造についての論文だね、日本の。二度読んだよ。(エコノミスト)の記事も、論文そのものも>。言葉を失ったのはこっちだった。この多忙で強大な権力をもった人物が、4年もたつのにわたしの名前から論文まで細かく覚えているなんて、信じられなかった。何と言うべきかわからなくて、わたしは尋ねた。<それで、どうお思いになりましたか?>すると彼は<覚えていないね>と答えて歩き去ってしまった。あとには、きょとんとしたエコノミストが残されたというわけだ。


小林
だから彼も、世界各国の中央銀行の本当の姿が、分かってくるんじゃないですかね。そして第二、第三の <ユースタス・マリンズ> になると思いますよ。または第二、第三の<G・エドワード・グリフィン>のように。


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9.11について リチャード・A・ヴェルナー著<円の支配者>その4

2015年03月27日 | 日記
とあるスナックで

小林
ヴェルナーは、またアメリカの連邦準備制度理事会についても、言っていますね。  P-326

おおかたの人々は、日銀は90年代に景気回復を望んでいたと信じていた。だが、じつはそうではなかった。同じく、アメリカの連邦準備制度理事会は30年代の大恐慌を終わらせたいと願っていたのだろうと、我々は考える。アメリカに飢餓をもたらした悲劇だからだ。だが実際には、FRBはほぼ10年にわたって景気回復に必要な政策を実施しなかった。日銀と同じである。連邦準備制度理事会は1913年に創設された。中央銀行設置の提唱者が、中央銀行は金融危機の際に必要だ、そのときにはFRBが手を打って銀行の破産を回避すると、疑い深い議会を説得したからだ。だが実際にウォール街の大暴落ののちに、FRBが創設された理由にあたる状況が起こってみると、FRBは適切な手を打たなかった。紙幣を印刷せず、銀行システムを支援しなかったのだ。FRBは何万もの銀行が破産し、おおぜいの市民の貯蓄や生活の糧が消えていくのを座視していた。さらにひどいことに、30年代の失敗の原因はその前の十年にあった。20年代、銀行に過剰な信用創造をうながしたのはFRBだった。80年代の日銀とおなじである。
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9.11について  日銀のやったことは、これだ<ショックドクトリン>

2015年03月26日 | 日記
とあるスナックで

小林
日銀のやり方を知ると、そのやり方は、まさしく、ナオミ・クラインが言っている、<ショック・ドクトリン>のやりかたそのもですね。
コー
そうだね、日銀のプリンスたちは、アメリカの銀行家からじっくり教わったんだろうな。そしてたった数人の日銀の幹部たちが、あの不況を作り長引かせたんだ。その時の不況で、3万人の日本人が自殺したといっているね、リチャード・A・ヴェルナーは。

だから、彼は日銀のプリンス達は犯罪を犯したと言っているんだ。


小林
これは、<300人委員会>の下部組織の<タヴィストック研究所>が開発した<衝撃と畏怖作戦>の経済版ですね。
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9.11について リチャード・A・ヴェルナー著<円の支配者>その3

2015年03月25日 | 日記
とあるスナックで

コー
なぜ日銀幹部は、そんなことをしたのか。

日本は戦後、経済が波はあったが順調に拡大し、莫大な黒字を持つようになり、世界中からバッシングを受けるようになった。今の若い人には想像もできないかもしれないが、日本が世界で<NO1>の経済力を持っているとまで言われた時期があるんだ。ニューヨークのエンパイアステートビルを買ったり、オークションでゴッホの絵を何十億という金で買ったり、世界中で手に札束を持って暴れまわっていた時期があるんだ。その時に、アメリカ、ヨーロッパや世界中からバッシングを受けたんだ。日本が金持ちなのは、日本人だけが有利な国内法で守われていて、外国人が参入できないような国内の制度があり、非常に不平等な、関税の問題にしても、また農業の問題にしても、自分勝手な制度のためだと。それは非常にアンフェアだと。

世界中から、すごい、バッシングだったね。
 P-247

1985年10月31日、中曽根康弘首相は<国際協調のための経済構造調整研究会>を創設し、前川を座長に任命して、<中、長期的視点から日本の経済的、社会的構造と運営に関する政策を研究>し、どう改革していくかを明らかにするという仕事をゆだねた。

前川レポートは、その序文で結論を記している。<今や我が国は、従来の経済政策及び国民生活のあり方を歴史的に転換させるべき時期を迎えている。かかる転換なくして、我が国の発展はありえない>。レポートが掲げる中長期的な国家政策目標は、<経常収支不均衡を国際的に調和のとれるよう着実に縮小させること>であり、<この目標実現の決意を・・・・表明すべきである>としている。<経常収支の大幅黒字は、基本的には、我が国経済の輸出指向等経済構造>に由来すると、レポートは認識していた。したがって、<我が国の構造調整という画期的な施策を実施し、国際協調型経済構造への変革をはかることが急務である>

前川レポートは、アメリカ側通商代表の要望リストのようだった。
P-252
古いシステムに根を張った経済界、政界の利権をまるごと相手にして、これをどう克服するか?現実主義者に言わせれば、前川レポートが出発点にもならないことは自明だった。夢物語にすぎない。

歴史家なら、こうした困難を意外とは思うまい。一国が基本的な変革を遂げうる環境はたった一つしかない。それが歴史の法則だ。じじつ、経済的、社会的、政治的システムの大きな変革を遂げた国は世界にひとつもない。  危機に見舞われた場合をのぞけば、である。 どんなシステムにも既得権益があり、国家全体を揺るがし、エスタブリッシュメントの権力を侵食するほどの危機が起こった場合にだけ、変革が可能なのだ。そのときこそ、セントラル・バンカーの出番である。


小林
だから、国家的な危機が必要だったんですね。
  P-253

前川と彼のプリンスである三重野、福井は、日本を改革しうる操縦桿をにぎっていた。1989年に前川が世を去ったのちにも、福井と三重野は十年計画を着々と進めた。彼らは<窓口指導>の天井をますます高くして、バブルを生み出した。国の借金(窓口指導でコントロールされた信用創造)は、経済成長率をはるかに上回った。バブルを創り出したプリンスたちは、つぎにもっとも劇的で破壊的な方法でバブルをつぶした。
1993年にプリンス三重野が証言した通り、プリンスたちが金融の元栓を閉じれば不況に転じるのは避けられない。行き過ぎた信用は不良債権と化した。銀行システムは麻痺し、信用収縮(クレジット・クランチ)が不況を引き起こさざるをえなかった。この景気下降は完璧にコントロールされていた。1990年代の不況は、その深刻さも長さも中央銀行のプリンスたちが簡単に操作し、微調整できるものだった。いっぽう、世間の目は政治家と大蔵省にばかり向いていた。

日本銀行を疑う者はほとんどいなかった。




コー
大きな衝撃や危機は、国を変えることができる、ということか。

だからといって、何の権利があって、わざわざ危機を作れるのかということだ。
 
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9.11について  リチャード・A・ヴェルナー著 <円の支配者>その2

2015年03月23日 | 日記
とあるスナックで

小林
日銀の<窓口指導>というのが、どうも重要なポイントみたいですね。日銀は<窓口指導>を使って、景気を操る事が出来たといっていますね。  
P-208


日銀が各銀行に次期の貸出増加割り当てを通知すると、銀行はそれを各支店に配分し、支店長は貸出担当者の貸出増加目標額を決める。こうして、日本の金融システム全体にたとえば15パーセントの増額が割り当てられ、それが業態別の銀行に、それから個別銀行に、そして個別支店、個別担当者へと細分されていく。この信用配分の命令系統の最先端では、日本全国の数千の支店の貸出担当者が貸出増加目標額を達成するという任務を負わされた。
はじめは、彼らの仕事もそう困難ではなかった。1985年の円高不況のあとで、資金需要が蓄積していたからだ。だが、<窓口指導>で示される貸出増加目標が大きくなり、いっぽう生産性の高い企業の資金需要が満たされてしまうと、貸出担当者はますます非生産的な資金の使い方をする企業をターゲットにするようになった。不動産向けの貸出を重点にしたのだ。不動産会社は楽に融資を受けられるとあって、不動産投資を増加させた。取引が増えれば、土地需要は増大する。地価は上昇しはじめ、投資家は巨大なキャピタルゲインを得た。儲かるとなると、模倣者が増える。ほかの不動産会社が、それから建設会社が、そして最後にはふつうの製造業企業までが借金をして不動産投資ゲームに参入したがった。地価が上がるほど、儲けは確実に見えた。個々の銀行も安全だと信じた。融資はもっとも安全なはずの土地を担保にしていた。しかし、全体を考えてみれば問題は明らかであった。貸出総額に占める不動産関連の投資の割合が急増していた。貸出総額の伸びと国内総生産の伸びを比較してみれば、創造された信用が非生産的な目標に使われていることは明白だった。地価には実体がなく、銀行融資によって押し上げられているだけであった。バブルがふくらんでいた。



コー
日銀はこの<窓口指導>を通しての、<信用創造メカニズム>を伝家の宝刀として持っていたという事らしいな。 そして<信用創造>の量で、好景気になったり、不景気になったりするらしいな。 1990年代の大蔵省の役人もこのシステムの仕組みがよくわからなかったみたいだ。   P-187


政府の財政政策も同じ運命をたどった。1992年から94年まで、4回にわたって45兆円という多額の総合経済対策費が追加予算で支出された。90年代後半には、一連の景気対策でさらに60兆円以上が使われた。巨額の経済総合対策費は、大蔵省と政治家がどれほど必死で景気回復を望んでいたかをうかがわせる。しかし、このときも目的は達成できなかった。もちろん、問題は財政支出が国債発行でまかなわられ、そのために民間部門から資金を吸い上げたことだった。日銀の信用創造拡大という刺激がなければ、財政支出は民間部門の需要を低下させるだけだ。だが、日銀は厳しい信用引き締め政策を続けていた。したがって90年代の総合経済対策費は浪費で、政府債務を増加させただけだった。


これらの決定は、日銀のだれが、何の目的で、ということだ。 バブルを作り、そしてそれを、意図的に壊したのは。
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