猫絵の殿様―領主のフォークロア吉川弘文館このアイテムの詳細を見る |
バロン・キャットと伯爵夫人 でご紹介した本です。
ピエール・ロチの『江戸の舞踏会』(『秋の日本』収録)は、フランス海軍士官として明治18年に来日したロチが、外務大臣主催の鹿鳴館の舞踏会に招かれ、その様子と感想を、ほとんどフィクションをまじえず書き記したものです。
時の外務大臣は井上馨、連名で招待状を出した外務大臣夫人を、ロチは「Sodeska《ソーデスカ》伯爵夫人」としているのですが、これはあきらかに井上武子伯爵夫人なのです。
武子さんについては、あまりたいした資料もなく、伯爵夫人となった次第は、鹿鳴館と伯爵夫人 で書きました。
その武子さんの実家・岩松家は、幕臣だったのですが、とても奇妙な幕臣でした。
清和源氏の名門、新田氏の血脈であるため、大名並の格式を与えられながら、禄はわずか百二十石。
明治、男爵に取り立てられたのは、どうも、娘の武子さんが長州の大物政治家、井上馨の正妻になったからのようです。
岩松新田家には、中世からの古文書が多数残されていて、その中には、江戸時代中期から明治に至るまでの、歴代殿様の日記もありました。昭和41年(1966)、元男爵家の新田義美氏が、それらの資料をすべて、地元群馬大学の付属図書館に寄贈なさったんだそうです。
著者の落合延孝氏は、1980年に群馬大学に赴任し、新田岩松氏古文書の整理を頼まれ、10年以上も研究を重ねて、この本をかかれました。
「1980年代から顕著になった近世史像の転換の中で」と著者は書かれていますが、「鼠の害をふせぐ」とされた岩松氏の猫絵に注目し、それを「領主の祭祀機能」と受け止めるような見解は、従来の日本の歴史学に欠けていた視点でしょう。
江戸時代後半に盛り上がった国学の興隆は、これまでにも幾度かふれましたが、講談などによって太平記が流行ったことも、大きく勤王気分を盛り上げました。
太平記における新田氏は、南朝の忠臣で、勤王の血筋なのです。
18世紀後半以降、農村における商品経済の発展と通信制度の発達の中で、朝廷の権威が浮上し、明治維新を準備した、という基本的な見解はもっともなものですし、結びの言葉が印象的です。
「幕藩体制から、外圧に対する復古主義的な民族運動の形態をとりながら、天皇制という形をとった近代国民国家への転換期のなかで、鼠をにらむ猫絵は、殿様の権威を求めてきた人々の歴史をもにらんでいたに違いない」
戊辰戦争において、岩松家の当主・俊純は、幕臣ながら新田官軍を立ち上げます。しかし、あまり品がいいともいえなかったらしい新田の郷臣は、江戸ではいろいろと問題を起こしたりもして、俊純は窮地に立ったこともあったようです。神坂次郎氏の『猫男爵?バロン・キャット』では、この時に武子さんは中井桜洲と知り合ったのではないか、と推測していますが、私もそう思います。
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