なにしろテレビ朝日ですから、あまり期待はしていなかったのですが、つい見てしまいました。新春ドラマスペシャル『白虎隊』を、です。
それにいたしましても、ふう、びっくり!
なぜに沖永良部島に流刑の身の西郷隆盛が、8.18クーデター当時の京都にいるの???
頭がくらくらしてまいりました。
まあ、いいや。
白虎隊といえば、ヤッパンマルスと鹿鳴館 で、ご紹介いたしましたこの本、『幕末とうほく余話』が出版されていたことを知りまして、さっそく注文しました。まだ全部は読んでいないのですが、東北の幕末群像をていねいに追っていて、いい本でした。
これまで知らなかったことも、けっこう出てきます。
藩主に従い、恭順派の家老を斬ったといわれる二人の桑名藩士のその後など、いい話でした。函館戦争にまで参加した後、渡米。またも登場、という感じですが、薩摩の森有礼の引きを受けたらしいのですね。一人は後の一橋大学の助教授となった上、横浜の銀行発展に尽力。もう一人は、横浜で実業家になったのだそうです。
この本は、会津の話は少ないのですが、つまらない『白虎隊』を見ておりまして、母の本棚からひっぱり出して読んだ本を思い出しました。珍しく幕末ものだったのです。
8.18クーデター、会津方の立役者だった秋月悌次郎を描いた『落花は枝に還らずとも?会津藩士・秋月悌次郎』です。
江戸の昌平坂学問所に長くいたため、他藩士との交遊がひろく、薩摩藩に見込まれて交渉相手となった秋月悌次郎。
後年、悌次郎は熊本の第五高等中学校で漢文を教え、ラフカディオ・ハーンから「神のような人」といわれます。そのころ、クーデター当時、京における薩摩の中心になっていた高崎正風が、悌次郎をたずねるのです。
クーデターから30年数年、終夜酒を酌み交わした二人。
たしかこのエピソードは、司馬氏がエッセイかなにかに書いておられて、一度、秋月悌次郎の伝記を読みたいと思っていたところでした。
『落花は枝に還らずとも』ではじめて知ったのですが、秋月悌次郎は、会津と薩摩が敵対するようになったころ、蝦夷に左遷されていたのですね。
幕末の最初の衝動は、ロシアの南下でした。維新の60年ほど前、ロシア使節のレザノフは、幕府に開国を迫るとともに、千島や樺太の日本人居留地を攻撃したんです。
恐れをなした幕府は、会津藩に北方領土の防備を託しました。
このときは、ロシアの襲撃にはあわなくてすんだのですが、極寒の地のきびしい自然に、命を落とすものもありました。
そして、ペリー来航。続いて、またしてもロシアがやってきまして、一時ですが、対馬を占領したりもします。これは、イギリスに牽制してもらって、なんとか引き上げてもらいましたが、幕府がまっさきに心配したのが北方でして、かつて功績のあった会津藩に蝦夷の一部の領地を与えて、せめてもの防備を考えるんです。
その蝦夷地へ、悌次郎は左遷されたのです。会津もまた、けっして一枚岩ではなく、内紛があったことがうかがえます。
ところで、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。 にまとめてありますが、パリ万博に赴いた水戸民部公子・徳川昭武の一行には、二人の会津藩士がおりました。
20歳の横山常守と24歳の海老名季昌です。公子に先だって帰国した二人は、戊辰戦争を戦い、横山常守は戦死します。
慶応から明治へ。この時期、パリと京都、江戸を往来した人々の運命の転変には、呆然としてしまうものがあります。
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なぜに沖永良部島に流刑の身の西郷隆盛が、8.18クーデター当時の京都にいるの???
頭がくらくらしてまいりました。
まあ、いいや。
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白虎隊といえば、ヤッパンマルスと鹿鳴館 で、ご紹介いたしましたこの本、『幕末とうほく余話』が出版されていたことを知りまして、さっそく注文しました。まだ全部は読んでいないのですが、東北の幕末群像をていねいに追っていて、いい本でした。
これまで知らなかったことも、けっこう出てきます。
藩主に従い、恭順派の家老を斬ったといわれる二人の桑名藩士のその後など、いい話でした。函館戦争にまで参加した後、渡米。またも登場、という感じですが、薩摩の森有礼の引きを受けたらしいのですね。一人は後の一橋大学の助教授となった上、横浜の銀行発展に尽力。もう一人は、横浜で実業家になったのだそうです。
この本は、会津の話は少ないのですが、つまらない『白虎隊』を見ておりまして、母の本棚からひっぱり出して読んだ本を思い出しました。珍しく幕末ものだったのです。
8.18クーデター、会津方の立役者だった秋月悌次郎を描いた『落花は枝に還らずとも?会津藩士・秋月悌次郎』です。
江戸の昌平坂学問所に長くいたため、他藩士との交遊がひろく、薩摩藩に見込まれて交渉相手となった秋月悌次郎。
後年、悌次郎は熊本の第五高等中学校で漢文を教え、ラフカディオ・ハーンから「神のような人」といわれます。そのころ、クーデター当時、京における薩摩の中心になっていた高崎正風が、悌次郎をたずねるのです。
クーデターから30年数年、終夜酒を酌み交わした二人。
たしかこのエピソードは、司馬氏がエッセイかなにかに書いておられて、一度、秋月悌次郎の伝記を読みたいと思っていたところでした。
『落花は枝に還らずとも』ではじめて知ったのですが、秋月悌次郎は、会津と薩摩が敵対するようになったころ、蝦夷に左遷されていたのですね。
幕末の最初の衝動は、ロシアの南下でした。維新の60年ほど前、ロシア使節のレザノフは、幕府に開国を迫るとともに、千島や樺太の日本人居留地を攻撃したんです。
恐れをなした幕府は、会津藩に北方領土の防備を託しました。
このときは、ロシアの襲撃にはあわなくてすんだのですが、極寒の地のきびしい自然に、命を落とすものもありました。
そして、ペリー来航。続いて、またしてもロシアがやってきまして、一時ですが、対馬を占領したりもします。これは、イギリスに牽制してもらって、なんとか引き上げてもらいましたが、幕府がまっさきに心配したのが北方でして、かつて功績のあった会津藩に蝦夷の一部の領地を与えて、せめてもの防備を考えるんです。
その蝦夷地へ、悌次郎は左遷されたのです。会津もまた、けっして一枚岩ではなく、内紛があったことがうかがえます。
ところで、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。 にまとめてありますが、パリ万博に赴いた水戸民部公子・徳川昭武の一行には、二人の会津藩士がおりました。
20歳の横山常守と24歳の海老名季昌です。公子に先だって帰国した二人は、戊辰戦争を戦い、横山常守は戦死します。
慶応から明治へ。この時期、パリと京都、江戸を往来した人々の運命の転変には、呆然としてしまうものがあります。
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