郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

民富まずんば仁愛また何くにありや

2007年01月21日 | 幕末長州
『評伝 前原一誠 あゝ東方に道なきか』

徳間書店

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前原一誠という人は、松下村塾の一員なのですが、高杉晋作を筆頭に、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、伊藤博文などなど、にくらべますと、あまり知られてない、といいますか、知られていないだけではなく、不人気です。
不人気の原因は、やはり、不平士族の反乱として知られる明治9年の萩の乱の首領として担がれ、刑死しているからでしょうけれども、年齢が高く、高いわりに幕末風雲時に派手な動きをしていない、ということもあるでしょう。
天保5年生まれですから、松蔭より四つ下、高杉より五つ上で、松下村塾の中では最年長の一員です。とはいえ、木戸孝允(桂小五郎)より一つ下、井上 馨より一つ上で、もしも前原に政治的力量があったならば、明治新政府で重きをなしただろう年齢です。いえ、重きをなさなかったともいえないのですが。
ともかく、です。颯爽とした、とか、切れ者、だとか、胸のすくようなイメージはなく、とっさの決断力には欠けたところがあり、生真面目で、頑固で、おまけに暗く、まあ、あれです、私好みの人物ではありません。
にもかかわらず、なぜこの本を読んでいたかというと、やはり萩の乱は、西南戦争に無関係ではありませんし、それよりなにより、吉田松蔭の叔父で学問の師である玉木文之進、松蔭の甥で後継者となるはずだった吉田小太郎、と、松蔭の身内が前原を盛り立て、萩の乱に参加していたからです。小太郎は戦死、文之進は松蔭の妹に介錯させて、切腹して果てます。
例えば、高杉が生きていたとしたら、どうしただろう? という思いがありました。

個人掲示板の方で、ちょっとこの前原のしたことを思い出すような話がありまして、読み返してみました。
といいますか、この評伝の中で、私の印象にもっとも強く刻まれていたのは、明治新政府の占領地越後で前原が試みようとした仁政でした。
後年のことですが、大隈重信はこういっていたのだそうです。
「前原はかつて公職を帯びて新潟県にいた。その時、救荒の詔勅の下った際、聖意に答え奉らんとする至誠からではあったが、指令を監督官庁である民部省に請ふ事なく、恣に新潟県の租税を半ばに減じた。それは儒流政治家の慣用手段で、何か事があれば直に租税を免ずるのを仁政と考へるシナ一流の形式政治に有勝のことであった。が、それはただに官紀維持の上から、監督官庁として座視し得ないのみならず、事実左様した仁政が続出すると、中央政府の政費を支へる事が出来ぬ。そこで君(大隈)は、直ぐに前原の処置を難じたが、前原はそれを憤り、救荒の詔勅の下った事を盾に取って、聖意この如きに、ひとり聚斂の酷使あって之をはばむのは心得ぬと抗議した」
これは、『大隈侯八十五年史』からなんですが、『大隈候昔日譚』でも前原を名指しで、似たようなことを言っていまして、大隈にとっては、晩年にいたるまで、よほど腹が立った出来事であったようです。
明治元年、ようやく東北の戦火がおさまろうかというころ、です。大隈は、ほとんど一人で、新政府の金の工面を背負い込んでいましたから、無理もない怒りといえば、そうなんですけれども、実は、前原の「仁政」には、まだ続きがあったのです。

戊辰戦争は、上野戦争の後、会津藩の処置をめぐって東北列藩同盟が成立し、北陸東北へ戦場が移ります。
越後口では、河井継之助率いる長岡藩や、飛び地領に陣取る桑名藩、新潟港を握る米沢藩などの善戦で、長州の山縣有朋、薩摩の黒田清隆が率いていた官軍側は苦戦。前原一誠は、長州から干城隊を率いて応援にかけつけ、戦勝後も、そのまま越後府判事となって、民政にたずさわることになりました。
なぜかといえば、おそらく、前原一誠の手腕は、軍事にはなく、民政にあったからなんですね。
それについては、実績がありました。四境戦争で、長州が占領した小倉藩領を、前原は見事に治めていたのです。

前原一誠、もとの名は佐世八十郎は、毛利家の旗本ともいえるれっきとした藩士の家柄に生まれましたが、わずか四十七石。当時の武士の暮らしはきびしく、一誠の父親は、今の小野田市にあった代官所勤務を引き受け、畑仕事をしたり、陶器を焼く内職をしたり、漁にまで出たといいます。
一誠は田舎で育ち、貧しかったために勉学も遅れました。萩の親戚の家に寄宿して塾に通ったりもしたのですが、やがて、落馬によって足を痛め、健康も害しました。
学問が遅れていることを自覚したまま24歳となり、松蔭にめぐりあいます。
「勇あり、智あり、誠実人にすぐ」と、松蔭は一誠を評しています。
貧しくとも、れっきとした藩士の家柄であったことは、その後の一誠の志士活動を制限します。松蔭が、老中の間部詮勝暗殺を計画したときには、父親の画策で、長崎のオランダ海軍伝習に、藩から派遣されて行きます。
その後、長州の尊皇派として、江戸、京都へも出るのですが、諸藩の志士とまじわったり、朝廷に出入りしたりということはほとんどなく、藩の内務に携わることが多かったようです。
8.18クーデターの後は、長州に落ちた七卿の世話係、その後、攘夷戦に備えた下関で、れっきとした藩士だけの干城隊の指導を受け持ち、そのやる気のなさに憤慨したりもします。攘夷戦に参加していたため、禁門の変とは無縁で、「俗論党」が支配した中では九州の志士と連絡をとり、高杉晋作の高山寺挙兵では、ぴったりと高杉によりそって補佐します。
そうなんです。一誠がだれよりも信頼をよせていたのが高杉であり、高杉もまた、一誠を信頼していたのですね。

長州の四境戦争、小倉口の戦いも、そうだったんです。高杉が病で倒れた後、高杉の後を引き継いだのは一誠です。
ほかに、人材がなかったのです。小倉口には、山縣有朋率いる奇兵隊とともに、長府藩兵などがいたのですが、れっきとした藩士でなければ、長府藩兵からの信頼が得られませんし、かといって、ただの藩士では奇兵隊が納得しません。一誠は、ずっと裏方に徹して、藩庁と諸隊の調整や兵站などを受け持っていて、高杉のような軍略家ではありませんでした。しかし、小倉口の戦闘指揮だけではなく、高杉が担当していた長州海軍までもが、一誠の受け持ちとなります。
高杉の死は、松蔭の死にまさるほどの衝撃を、一誠に与えたでしょう。

戦勝の後、長州藩の預かりとなった小倉藩領の民政を、一誠は担当します。このとき、どうも一誠は、奇兵隊を率いる山縣と、藩庁を預かる木戸孝允への不審を、芽生えさせたようなのです。
まずは、小倉藩領からの奇兵隊の引き上げです。戦勝におごる奇兵隊は、小倉藩領に駐屯していたのですが、これが領民の不評を買っていました。奇兵隊は、身分をとわずに成り立った軍隊ですが、それだけに、問題もまた起こりやすかったのです。以下は、一坂太郎氏の『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』からの引用です。

平成四年(1992)のある夏の日、下関市で行われた講演会が終わり、帰ろうとしていた私を引き留めたお爺さんが聞かせてくれた奇兵隊の話が、いまも耳に残っています。
「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒くれ者の集まりだった。仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじゃった。やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町のものは噂した」
これはお爺さんが幼いころ、幕末当時を知る祖母から聞いた話だそうです。

一坂氏は、それを裏付けるような話を奇兵隊士の日記から引いて、一般の人からは好意的に見られていなかったのが事実ではないか、とし、さらに、そのお爺さんが祖母から聞いたという隊士の無銭飲食や、報国隊士が文句を言っただけの料亭の主人を斬り殺した話をあげておられます。
本拠地の下関でさえそうであるならば、占領地での傍若無人ぶりは、察せられます。
一誠の懸命の要望にもかかわらず、奇兵隊はなかなか引き上げようとしなかったのですが、よくやく引き上げさせて、そして、年貢半減を、一誠は実行したのです。これには、長州藩庁がなかなか首を縦にはふりませんでした。長州の諸隊人数は、四境戦争でふくれあがっていて、それを、占領地からの収入で食べさせていく計算でした。武器の購入などで、藩財政は逼迫していて、年貢半減が好ましいはずはなかったのです。
それでも一誠は、「預かっただけの土地の領民を大切にしなければ、長州の評判が落ちる」と、粘り強く交渉し、ついに年貢半減を勝ち取るのです。

つまり、一誠が越後口でしたことには、すでに実績があったのです。
明治元年は天候不順で、日本全国、春から長雨が続き、信濃川をかかえる新潟では、梅雨時に堤防が決壊したまま、田畑は水につかり、ほとんど収穫のない地域も多い、という惨状でした。その上に、戦禍です。
人夫としてかり出された農民の賃金さえ、中央政府は出し渋っていて、当初、年貢半減を交渉していた一誠は、結局許可の無いまま、それを実行に移します。
事情はちがいますが、新政府の許可を得た上で公卿を担ぎ、年貢半減を宣伝して信州に進軍していた赤報隊が、偽官軍として処分されたばかりです。一誠の首がとばなかったのは、一重に、彼が長州の松下村塾出身者だったからでしょう。
さらに、続きがありました。
信濃川は、日本で一番長い川として知られますが、新潟に流れ込んで後、日本海沿岸にそびえる弥彦山系にはばまれ、内陸に蛇行することで、氾濫源が大きくなっています。このため、弥彦山南麓に日本海に水を落とす水路をつくれば、洪水は軽減されることがわかっていて、すでに分水計画があり、幕府に陳情したこともあったのですが、さまざまな藩の領地が入り乱れ、利益が折り合わなかったり、一つになって事業を興すことも難しく、また多大な資金が必用で、手がつけられないでいたのです。
しかし、この年の未曾有の水害に、地元では分水工事を求める声が上がり、関係諸藩も協力して、建白書が提出されていました。
その分水工事の費用を出せと、一誠は中央に迫ったのです。160万両といわれる大金です。立ちあがったばかりの明治新政府に、そんな金があろうはずもありません。「それならば、5年間分の越後の年貢を分水工事に使わせてくれ」と、一誠はねばります。東京に陳情に出かけた一誠は、足止めされて参議に祭りあげられ、一誠の請願が受け入れられることはありませんでした。
実は、こういった「仁政」をしていたのは、一誠だけではなかったのです。
例えば、豊後岡藩という小さな藩の志士、小河一敏は、藩によって幽閉されていましたが、王政復興がなって許され、中央に出て、鳥羽伏見の戦いの直後、天領だった堺県の知事になります。

JA堺市 小河一敏

上に書いているとおり、やはりこの年の長雨で氾濫した大和川の治水工事に手をつけ、どうも明治2年ではなく、正式には3年のようなのですが、ともかく免官され、明治4年には、なんの嫌疑かもわからないまま、鳥取藩邸に幽閉されます。

「誠実人にすぐ」という松蔭の一誠評は、やはりあたっていたのです。
一誠は、松蔭の教えに誠実であり続けたのではないのでしょうか。以下は、松蔭の『未焚稿』より。
「世の論者、民を仁し物を愛すると曰はざるはなく、国を富まし兵を強くすると曰はざるはなし。しかれども農勧めずんば富強何によりてか得ん、民富まずんば仁愛また何くにありや。農を勧むるは民を教ふるにあり、民を富ますは稼穡にあり。いやしくも道を学びて国のためにせんとする者、これを独り高閣に束ね度外に置くべけんや」
また松蔭の父への手紙には、「武士わづかなりとも殿様より知行をもらひ、百姓どもに養はれ、手を拱して美食安座つかまつり候君恩国恩に報い」という文句が見えます。松蔭の家は粗食だったと思いますが、「武士は農民に養われているのだから、なによりも農民の暮らしの安泰を考えることが一番」という武士としての自覚、日本版ノーブリス オブリージュは、叔父の玉木文之進から伝えられたものであったでしょう。
治水は、農村のインフラ整備です。
たしかに、新政府にそんな金銭的余裕はありませんでしたし、各地で仁政を競いあえば、ただでさえ揺れている中央政府の求心力にひびが入ります。
それでも、水害でほとんど収穫がない場合の年貢半減は、責められることではないように感じますし、小河一敏のした程度の防水土木工事を、問題にしなければならなかったのだろうか、とも思うのです。

そして、もちろん士族にもさまざまな人々がいたわけでして、松蔭の示したようなノーブリス オブリージュを自覚している者は、あるいは少数派であったかもしれません。
しかし一誠とともに萩の乱の中心となった奥平謙輔は、戊辰戦争でも、長州藩の隊長として前原とともにあり、ふう、びっくりしたー白虎隊で書きました会津の秋月悌次郎に、礼をつくしくした書状をよせ、鹿鳴館のハーレークインロマンスに出てまいります、大山巌夫人、山川捨松の兄・山川健次郎など、会津藩俊英の教育を引き受けます。捨松のアメリカでの生活は、一歩先にアメリカ留学を果たしていた兄の存在にささえられていました。
戊辰戦争の後、奥平は一誠とともに越後府にあり、佐渡の統治を手がけたりしますが、一誠が中央に足止めされた明治2年8月には、職を辞して萩へ帰ります。これは私の想像ですが、一誠の「仁政」を入れようとしない政府中央に、失望したのでしょう。なんのための維新だったのかと。
松下村塾では学んでいませんでしたが、奥平もまた、日本版ノーブリス オブリージュを身につけていた人ではなかったでしょうか。
萩の乱で捕らえられ、処刑される前のことです。牢獄の羅卒に、元会津藩士がいたのだそうです。奥平は、「自分がこうなったことを秋月さんに告げてくれ」と頼み、その羅卒は秋月に手紙を書き、それを見た秋月は、終夜痛哭したのだそうです。
それに……、そうでした。萩の乱に呼応しようとして果たせなかった思案橋事件の永岡久茂、中根米七らは、会津藩士でしたし、彼らは評論新聞を通じて、薩摩にも期待をよせていました。同じように越後でも、呼応の動きがあったんだそうです。

平成15年第3回(6月)見附市議会定例会会議録(第3号)

昨年9月15日の新潟日報に大橋一蔵の絵と革命家一蔵の起伏に満ちた一生のドラマがつづってありましたので、引用させていただきます。「昔越後に偉人ありき。一切の名誉、栄職を断ち一途に世のため突き進んだ大橋一蔵。維新前後の大変革期に身命を賭して国事に奔走された志士大橋一蔵は、嘉永元年(1848)2月16日、蒲原郡下鳥村(現見附市)代官大橋彦蔵の長男として生まれ、明治元年(1868)、越後府知事代行四条のもと、府判事となった松下村塾の俊才前原一誠は、年貢半減令を発し、また蒲原農民積年の宿願、信濃川分水を上申する。明治6年西郷隆盛らが下野し、新政府打倒の嵐各地にあがる。一蔵は深く前原に傾倒し、萩に帰郷したまま前原を訪ねること3度、薩摩へ西郷を訪ね、桐野と談合。萩、越後の同時蜂起を計るが、こと敗れ、前原は死し、一蔵は県庁に出頭、自訴した。時に29歳。「一身の寸安を偸んで恥を後世に残すことは欲せず」と。

これらのすべてを、「不平士族」「守旧派」とひとくくりにかたづけてしまう傾向に、私は疑問を抱かずにはいられないのです。


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