ちょっといま、こんなことをしている場合ではないのですが、リーズデイル卿とジャパニズム vol6 恋の波紋に追記しました「それからヴィースバーデン事件は?」というセリフが頭を離れませんで。
1892年2月、ロンドンで初上演された「ウィンダミア卿夫人の扇」は、大ヒットし、オスカー・ワイルドに富と名声をもたらすのですが、その話のネタが、あからさまにバーティ・ミットフォードの母親のスキャンダルなのだとしましたら、この大ヒットには、ゴシップ的な意味もあったのではないかと、考えてしまいたくなります。
1892年には、ヴィースバーデン事件の主要関係者は、すでに世を去っています。
バーティの母、レディ・ジョージアナは、8年前の1882年。
父親のヘンリー・レベリーは翌1883年に。
そして、ジョージアナを連れて逃げたフランシス・モリノーは、1886年に。
関係者がみな死去し、事件が50年も前のこととなった時期に、ゴシップとしての意味があるんでしょうか?
それが………、ありえたのではないかと思うのです。
実は、フランシス・モリノーとレディ・ジョージアナの間には、女の子が生まれていました。
コンスタンス・フィリッピナ・ジョージナ・モリノーです。
バーティの異父妹です。いえ………、異父ではないのかもしれないのですが。
生まれた年は、わかりません。
ただ、常識的に考えれば、ジョージアナとヘンリー・レベリーの離婚が成立した1842前後じゃないんでしょうか。
くだっても、1850以降ということは、なさそうに思えます。
そのコンスタンス・モリノーが、1890年に、ロンドンで結婚しているのです。
おそらく40代、それも50歳が近いと思われる晩婚です。
相手は………、ウィリアム・メルビルという1850年生まれ、40歳の男でした。
何者?と好奇心がわき、むだだろう、と思いつつ調べてみましたら、英語のwikiに載っていました。WilliamMelville-wiki
なんと、ロンドン警視庁の治安維持部門で活躍し、後に諜報部門の中心になった人物みたいなんです。
誤解なきよう申し上げておきますが、「ウィンダミア卿夫人の扇」は、非常にできのいい風俗劇だと思います。
大ヒットはゴシップ性ゆえではなく、作品の質であったにはちがいないのですが、すでに大衆社会になっていた19世紀末ロンドンで、「見てみようか」という動機には、ゴシップ性も手伝った、と考えられるのではないでしょうか。
ウィンダミア卿夫人は、20歳の若さです。
母となったばかりの21歳の誕生日間近、夫のウィンダミア卿の浮気の噂が、夫人の耳に入ります。
相手はアーリン夫人。過去になにか大きなスキャンダルがあり、不道徳、つまりは男をくいものにして世渡りをしている、というような噂をもち、正体が知れず、まっとうなご婦人方がとりしきる社交界では、相手にされていない女性です。
ウィンダミア卿夫人は、夫への不信感から、つい、プレイボーイで知られるダーリントン卿のくどきに乗り、駆け落ちをしようとするのですが、それをとめたのが、アーリン夫人でした。
アーリン夫人は、実は20年前、生まれたばかりのウィンダミア卿夫人と夫を捨て、愛人とかけおちした母親だったのです。
成長した娘を見たい、というのもあって………、というのも、とは、どうもそれをネタに、ウィンダミア卿をゆすっている節もあり、かならずしも当初は、母性愛から、というわけではなかったのですが、20年前の自分と同じことをしようとしている娘の姿に衝撃を受け、自分の正体を隠したまま、なんとか娘を思いとどまらせようとします。
どん底まで落ちて、軽蔑され、嘲笑され、見捨てられ、冷笑され……世間のつまはじきにされる! どこへ行ってみても、家の戸は閉じられていて入れてもらえず、いまにも仮面がはぎとられはしないかとびくびくしながら、ぞっとするようなぬけ道を忍び足で歩かねばならない。しかも、そのあいだずっと、笑いを、世間の恐ろしい笑いを耳にする、これは世間の人々が流してきたどんな涙より悲しいことなのですけれど、奥さまは、それをご存じないのです。それがどんなことであるか、ご存じない。
お帰りなさいまし、ウィンダミアの奥さま、奥さまを愛し、また奥さまが愛していらっしゃるご主人のもとへ。お子さまがいらっしゃるのですよ、ウィンダミアの奥さま。いまのいまでも、苦しみか喜びかで、奥さまを呼んでいらっしゃるかもしれない、あのお子さまのもとへお帰りあそばせ。神さまが、あのお子さまを、奥さまにさずけてくださいました。お子さまをりっぱに育てあげ、その世話をなさる義務が神さまに対してありますわ。もしお子さまの生涯が奥さまゆえに台なしにでもなったら、どういって神さまにお答えなさいます? お宅にお帰りなさいまし、ウィンダミアの奥さま。
娘を捨てた母が、子供を捨てようとしている娘を押しとどめようと、必死でかきくどく場面のこのセリフは、スリリングな場面設定に生かされてリアリティを持ち、感動を誘うものです。
バーティ・ミット・フォードは、いったい、この劇をどう見たのでしょうか?
私は、もしかするとバーティは、オスカー・ワイルドに、おそらくは一般論の形をとり、子供を捨てた母親について語ったことがあったのではないか、と思うのです。
子供を捨てた過去を悔いるアーリン夫人は、捨てられた子供の側からして、もっとも望ましく、あるべき母親像ではないでしょうか。
自分と父を捨てたことで、母親は苦しんだのであって欲しい………。捨てられた子供にしてみれば、当然の願望でしょう。
その母も、そして父もこの世を去り、すべては過去のこととなり、バーティにとっての「ウィンダミア卿夫人の扇」は、父母へのレクイエムであったのではないか、と感じます。
しかし、バーティの妹、コンスタンス・モリノーにとっては、どうだったでしょうか。
すべては、憶測でしかないのですが、母がアッシュバーナム伯爵家、父がセフトン伯爵家の出でありながら、果たして、コンスタンスの前に、ロンドン上流社交界は扉を開いたでしょうか。
おそらくはイタリアで生まれ、いつロンドンへ帰ったのか、そのとき父母もいっしょだったのかどうかもわかりませんが、歓迎されない存在であったのではないか、と思えるのです。
そして、そうであったとき、父母ともに上流階級の出で、おそらくはそれにふさわしい教養を持ち、自らにはなんの過失もないコンスタンスの思いは、どんなものだったでしょうか。
「お子さまの生涯が奥さまゆえに台なしにでもなったら」というアーリン夫人の危惧は、そのままレディ・ジョージアナがコンスタンスに対して抱いただろう「私がこの子の人生を台なしにした」という悔い、だったのではないでしょうか。
ウィリアム・メルビルが、王室テロ防止によって出世したらしいことを見れば、コンスタンスとメルビルとの出会いには、あるいはバーティが介在していたか、とも思えます。
それにしてもメルビルは、アイルランドの居酒屋だかパン屋だかの息子で、実力で地位を築いた人のようですし、先妻があったらしく、すでに息子がいたようです。
もちろん、自らの力で人生を切り開いてきた男をコンスタンスが深く愛した、ということも十分にありえると思うのですが、当時のロンドンの社交界から見れば、「伯爵家の血を引くとはいえ、母親があんなだったからあんな結婚を」ということに、なるのではないでしょうか。
そして、メルビルがコンスタンスを愛していたかどうかは、置いておくにしても、メルビルにしてみれば、コンスタンスとの結婚には、社会の階段をのぼる、意味があったことは確かでしょう。
だとすれば、です。
少なくともメルビルが、妻の母親のスキャンダルを思い出させる、オスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」を歓迎したとはとても思えず、数年後の男色事件で、オスカー・ワイルドが異常なほどに苛酷なとりあつかいを受けることに、もしかするとメルビルは、関係していたのではないだろうか、と、ふと憶測してみたくなるのです。
ひとつ、気になる事実があります。
オスカー・ワイルドの兄は、「デイリー・テリグラフ」で仕事をしていたそうなのですが、この劇による弟の大成功に嫉妬し、「オスカー・ワイルド氏はこの劇に自分の男性版と女性版を多く登場させただけだ。できのよくない劇である」という批判を書いて、ニューヨークに移住したのだそうです。
ワイルドと兄との間にどんな確執があったかは知らないのですが、この劇評は変でしょう。
だれの作品であっても、作品の登場人物は作者の分身にほかならないわけでして、それが出来が悪い理由にはなりません。
妄想なんですが………、ワイルドの兄は、作品のモデルとなった事件について書こうとして、………それを書けば評判になること請け合いですし………、脅されたのではないのでしょうか。
だれにかって………、もちろんメルビルに、です。
秘密警察的な仕事をしていたメルビルにとっては、弱みを見つけて脅しをかけることなど、お手のものだったことでしょう。
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1892年2月、ロンドンで初上演された「ウィンダミア卿夫人の扇」は、大ヒットし、オスカー・ワイルドに富と名声をもたらすのですが、その話のネタが、あからさまにバーティ・ミットフォードの母親のスキャンダルなのだとしましたら、この大ヒットには、ゴシップ的な意味もあったのではないかと、考えてしまいたくなります。
1892年には、ヴィースバーデン事件の主要関係者は、すでに世を去っています。
バーティの母、レディ・ジョージアナは、8年前の1882年。
父親のヘンリー・レベリーは翌1883年に。
そして、ジョージアナを連れて逃げたフランシス・モリノーは、1886年に。
関係者がみな死去し、事件が50年も前のこととなった時期に、ゴシップとしての意味があるんでしょうか?
それが………、ありえたのではないかと思うのです。
実は、フランシス・モリノーとレディ・ジョージアナの間には、女の子が生まれていました。
コンスタンス・フィリッピナ・ジョージナ・モリノーです。
バーティの異父妹です。いえ………、異父ではないのかもしれないのですが。
生まれた年は、わかりません。
ただ、常識的に考えれば、ジョージアナとヘンリー・レベリーの離婚が成立した1842前後じゃないんでしょうか。
くだっても、1850以降ということは、なさそうに思えます。
そのコンスタンス・モリノーが、1890年に、ロンドンで結婚しているのです。
おそらく40代、それも50歳が近いと思われる晩婚です。
相手は………、ウィリアム・メルビルという1850年生まれ、40歳の男でした。
何者?と好奇心がわき、むだだろう、と思いつつ調べてみましたら、英語のwikiに載っていました。WilliamMelville-wiki
なんと、ロンドン警視庁の治安維持部門で活躍し、後に諜報部門の中心になった人物みたいなんです。
誤解なきよう申し上げておきますが、「ウィンダミア卿夫人の扇」は、非常にできのいい風俗劇だと思います。
大ヒットはゴシップ性ゆえではなく、作品の質であったにはちがいないのですが、すでに大衆社会になっていた19世紀末ロンドンで、「見てみようか」という動機には、ゴシップ性も手伝った、と考えられるのではないでしょうか。
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ウィンダミア卿夫人は、20歳の若さです。
母となったばかりの21歳の誕生日間近、夫のウィンダミア卿の浮気の噂が、夫人の耳に入ります。
相手はアーリン夫人。過去になにか大きなスキャンダルがあり、不道徳、つまりは男をくいものにして世渡りをしている、というような噂をもち、正体が知れず、まっとうなご婦人方がとりしきる社交界では、相手にされていない女性です。
ウィンダミア卿夫人は、夫への不信感から、つい、プレイボーイで知られるダーリントン卿のくどきに乗り、駆け落ちをしようとするのですが、それをとめたのが、アーリン夫人でした。
アーリン夫人は、実は20年前、生まれたばかりのウィンダミア卿夫人と夫を捨て、愛人とかけおちした母親だったのです。
成長した娘を見たい、というのもあって………、というのも、とは、どうもそれをネタに、ウィンダミア卿をゆすっている節もあり、かならずしも当初は、母性愛から、というわけではなかったのですが、20年前の自分と同じことをしようとしている娘の姿に衝撃を受け、自分の正体を隠したまま、なんとか娘を思いとどまらせようとします。
どん底まで落ちて、軽蔑され、嘲笑され、見捨てられ、冷笑され……世間のつまはじきにされる! どこへ行ってみても、家の戸は閉じられていて入れてもらえず、いまにも仮面がはぎとられはしないかとびくびくしながら、ぞっとするようなぬけ道を忍び足で歩かねばならない。しかも、そのあいだずっと、笑いを、世間の恐ろしい笑いを耳にする、これは世間の人々が流してきたどんな涙より悲しいことなのですけれど、奥さまは、それをご存じないのです。それがどんなことであるか、ご存じない。
お帰りなさいまし、ウィンダミアの奥さま、奥さまを愛し、また奥さまが愛していらっしゃるご主人のもとへ。お子さまがいらっしゃるのですよ、ウィンダミアの奥さま。いまのいまでも、苦しみか喜びかで、奥さまを呼んでいらっしゃるかもしれない、あのお子さまのもとへお帰りあそばせ。神さまが、あのお子さまを、奥さまにさずけてくださいました。お子さまをりっぱに育てあげ、その世話をなさる義務が神さまに対してありますわ。もしお子さまの生涯が奥さまゆえに台なしにでもなったら、どういって神さまにお答えなさいます? お宅にお帰りなさいまし、ウィンダミアの奥さま。
娘を捨てた母が、子供を捨てようとしている娘を押しとどめようと、必死でかきくどく場面のこのセリフは、スリリングな場面設定に生かされてリアリティを持ち、感動を誘うものです。
バーティ・ミット・フォードは、いったい、この劇をどう見たのでしょうか?
私は、もしかするとバーティは、オスカー・ワイルドに、おそらくは一般論の形をとり、子供を捨てた母親について語ったことがあったのではないか、と思うのです。
子供を捨てた過去を悔いるアーリン夫人は、捨てられた子供の側からして、もっとも望ましく、あるべき母親像ではないでしょうか。
自分と父を捨てたことで、母親は苦しんだのであって欲しい………。捨てられた子供にしてみれば、当然の願望でしょう。
その母も、そして父もこの世を去り、すべては過去のこととなり、バーティにとっての「ウィンダミア卿夫人の扇」は、父母へのレクイエムであったのではないか、と感じます。
しかし、バーティの妹、コンスタンス・モリノーにとっては、どうだったでしょうか。
すべては、憶測でしかないのですが、母がアッシュバーナム伯爵家、父がセフトン伯爵家の出でありながら、果たして、コンスタンスの前に、ロンドン上流社交界は扉を開いたでしょうか。
おそらくはイタリアで生まれ、いつロンドンへ帰ったのか、そのとき父母もいっしょだったのかどうかもわかりませんが、歓迎されない存在であったのではないか、と思えるのです。
そして、そうであったとき、父母ともに上流階級の出で、おそらくはそれにふさわしい教養を持ち、自らにはなんの過失もないコンスタンスの思いは、どんなものだったでしょうか。
「お子さまの生涯が奥さまゆえに台なしにでもなったら」というアーリン夫人の危惧は、そのままレディ・ジョージアナがコンスタンスに対して抱いただろう「私がこの子の人生を台なしにした」という悔い、だったのではないでしょうか。
ウィリアム・メルビルが、王室テロ防止によって出世したらしいことを見れば、コンスタンスとメルビルとの出会いには、あるいはバーティが介在していたか、とも思えます。
それにしてもメルビルは、アイルランドの居酒屋だかパン屋だかの息子で、実力で地位を築いた人のようですし、先妻があったらしく、すでに息子がいたようです。
もちろん、自らの力で人生を切り開いてきた男をコンスタンスが深く愛した、ということも十分にありえると思うのですが、当時のロンドンの社交界から見れば、「伯爵家の血を引くとはいえ、母親があんなだったからあんな結婚を」ということに、なるのではないでしょうか。
そして、メルビルがコンスタンスを愛していたかどうかは、置いておくにしても、メルビルにしてみれば、コンスタンスとの結婚には、社会の階段をのぼる、意味があったことは確かでしょう。
だとすれば、です。
少なくともメルビルが、妻の母親のスキャンダルを思い出させる、オスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」を歓迎したとはとても思えず、数年後の男色事件で、オスカー・ワイルドが異常なほどに苛酷なとりあつかいを受けることに、もしかするとメルビルは、関係していたのではないだろうか、と、ふと憶測してみたくなるのです。
ひとつ、気になる事実があります。
オスカー・ワイルドの兄は、「デイリー・テリグラフ」で仕事をしていたそうなのですが、この劇による弟の大成功に嫉妬し、「オスカー・ワイルド氏はこの劇に自分の男性版と女性版を多く登場させただけだ。できのよくない劇である」という批判を書いて、ニューヨークに移住したのだそうです。
ワイルドと兄との間にどんな確執があったかは知らないのですが、この劇評は変でしょう。
だれの作品であっても、作品の登場人物は作者の分身にほかならないわけでして、それが出来が悪い理由にはなりません。
妄想なんですが………、ワイルドの兄は、作品のモデルとなった事件について書こうとして、………それを書けば評判になること請け合いですし………、脅されたのではないのでしょうか。
だれにかって………、もちろんメルビルに、です。
秘密警察的な仕事をしていたメルビルにとっては、弱みを見つけて脅しをかけることなど、お手のものだったことでしょう。
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